決死の獣狩り
「……ここは私が食い止めよう。ファナ、君は皆を抱えて、引き摺ってでも良いから脱出しなさい」
バルドは一本の槍を召喚しながら、小さく囁いた。
勇敢に構える彼だが、既に魔力残量は無いのだろう。
槍一本を召喚するだけで息切れし、歯を食いしばらなければならない程に疲労してしまっている。
ファナには未だ魔力残量がある、が。所詮は真螺卍焼を一発放てるかどうか程度だ。
確かにこの場で最も正しい判断は保護対象であるスズカゼ、重鎮でもあるゼルと序でにメタルを連れ出し、自分の機動力を持って脱出することだ。
それが最も被害を抑える方法ではあるが、抑えるという事は被害が出るということ。
バルドの死という、被害が出ているということだ。
「出来ません」
「命令違反は許さない。いつも命令は絶対遵守だと言っているだろう?」
「命令を破ったのは初めてではないので」
「それはそうだがねぇ」
獣が一歩を歩み出し、バルドは視線をそれに戻す。
リ・ドーの血液を浴びて深紺の体毛はドス黒い色と成り果てている、が。
その中にある微かな真紅に包まれた白。厚い皮を裂き肉を割って垣間見える骨。
恐らくワン・チェドスだろう。首だけの姿になる以前に決死の一撃を与えたのだ。
そうしなければならないほどの、敵という事だろう。
だが、それは絶望と同時に一縷の希望を与えてくれる。
骨の隙間から臓腑を貫けば、如何に強固で凶暴な化け物でも死に到るはず。
残された術は、それだけだ。
「さて……」
ここからどうした物か。
真正面から馬鹿正直に突っ込めば牙に喰い殺されるだろう。
何らかの隙を突かねばならない。何らかの、隙間を。
ゼルを一時的に解放して気を引くか? いや、そんな事をすればこちらに襲い掛かって来かねない。
外に叩き出す程度なら問題ないだろうが、流石に共闘は不可能だ。
それに、彼を縛っている天肢を束縛せし罪鎖を解除する魔力も残しておかなければならない。
流石にアレを何度も出し入れするほど余裕はないし……、いや、もう一度仕舞えば恐らく自分はーーー……。
「考えても仕方ない、かな」
だが、無駄死にするつもりはさらさら無い。
臓腑を貫き、その四肢の自由ぐらい奪ってやらないでどうする。
これでもサウズ王国を支えてきた重鎮の一人。我が国を脅かす外敵を排除せずして、何が王城守護部隊隊長か。
「年甲斐にもなく覚悟を決めなければならないようだ……!」
バルドは微かに脚を引く。
恐怖故にではない。周囲をよく視認する為にだ。
転げたワン・チェドスの頭、千切れたリ・ドーの体。地面に散らばり、瓦礫や散血を被った本の数々。
鎖に縛られたゼル。壁面近くで腰を突くスズカゼ、気絶するメタル。自身の背後で未だ迷っているファナ。
そして眼前で堂々と殺気の眼光を呻らせながら牙を剥く化け物。
「行きますよ」
「……来るんだ。うん、良いよ」
バルドは真正面から突貫した。
槍を構えてではなく、槍を投擲しながら、だ。
狙いは獣の傷口ではなく、眼球。強靱なる外皮に護られた獣の唯一と言って良い弱点。
然れど、その程度は獣も充分に理解している。
掌で打ち払えば追撃するように傷を狙われるだろう。
傷を狙えばこちらもただでは済まない、が。
「下らないね」
獣は槍を躱しはしなかった。
眼球を穿たれ片方の視界を闇に閉ざし、意識に微かな霞みを掛けようとも。
バルドという一人の人間を己の意識から外す事を選ばなかったのである。
「ーーー……ッ!!」
バルドにとってこの事は完全に計算外だった。
頭を振り払って一瞬でも意識を外せば、視界の外に逃げる事も出来た。
掌で振り払ってくるならば、突貫することも出来た。
だが避けないという選択肢を取るというのは、完全に予想していなかったのである。
「ばいばい、知らないおじさん」
潰れた眼球ですら感じ取れるほどに、獣の前には黒い影が迫っていた。
獣は何の躊躇も無く、視認するよりも前にそれを掌で壁面へ叩き付ける。
その肉塊は幾多の本棚を突き破り、灰を被った壁面に紅色の華が咲く。
まず一人。片目など安い代償だ。
どうせ、直ぐに関係無くなるのだから。
「好奇心は猫を殺すのならば、油断は獣を殺すのですよ」
化け物の視界には、確かにバルドの姿が映っていた。
先刻、己の掌で突き飛ばし肉塊と化したはずの男の姿が。
掌に力を込め、指を牙として襲い掛かる男の姿が。
「その臓腑、貰い受ける」
バルドの掌は皮の隙間、肉の中を泳いで骨を避け、臓腑を掌握した。
恐らく大腸に値する部分だろう。生暖かく躍動するその感触は背中に悪寒を奔らせる。
だが、その生暖かき躍動は命の灯火。
自身の役割はその灯火を握り潰すこと也。
「おぉおォオオオオオオオオオッッッッッッッ!!」
一気に腕を引き抜いたバルドの全身は鮮血を浴び、紅色に染まる。
そしてその鮮血を追うように真っ赤な大縄が外皮と肉の間から弾け出た。
彼は素手で臓物を抉り取り、内部の血管を引き裂いたのである。
確実に致死の一撃。片目と臓腑の一部を奪いて、彼は獣の灯火を握り潰したのだ。
然れど、魔力すら失った脆弱な掌で灯火を完全に握り潰せるはずもなく。
バルドの身体を濡らす鮮血が彼自身の物へ変わるのに、そう時間は要しなかった。
「かは……!!」
殺しきれなかった代償は自身の四肢、臓腑、鮮血。
鋭利な爪と強靱な掌による衝撃は彼を地面に打ち付けると共に、全身から刹那にして自由を奪い去ったのだ。
最早、動けるはずもない。腹から臓腑が飛び出さなかっただけでも奇跡だ。
「……そっか。[記録者]の頭を蹴り飛ばしたんだね。骸に惨いことするよ」
「貴方に言われたくは……、ないですね……」
「うん、そうだね。もう言わないよ」
真紅の海に沈みながら、バルドは天を見上げた。
獣の剛鋭な牙がその視界を覆い尽くし、真っ赤な舌が自身を覆い尽くす。
その身体は緩やかに空中へ浮き、やがて化け物の口腔へとーーー……。
「止まろうか」
獣の鼻頭を穿つ紅蓮の一撃。
咆吼と共に獣はバルドを放り出し、天を仰いで鼻から血を吹き出した。
余りに激痛。片目の疼きすらも塗り潰すほどの、激痛。
「何が何だか解らないけど、その人を殺されたら困るんだよね」
紅蓮の衣を纏いし少女は、紅蓮の刃を携えし少女は。
全身を鮮血に染める獣の眼前に立つ。
紅色に染まったその世界で、彼女は、獣は。
対峙する。
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