霧渦めく泥道
【クグルフ国】
《中央広場》
「調子はどうですか、メイド殿」
飯時も過ぎて、どうにか静けさを取り戻しつつある中央広場。
とは言っても未だ終わりの見えない行列が作られた炊き出し広場には、せっせと働くクグルフ国兵士の姿があった。
そして、そんな彼等に指示を出して自身も必死に働くメイドと、彼女に声を掛ける、肥満体質な男の姿もだ。
「メメール様! どうしてここに?」
「いえ、やっと仕事が終わったのでね」
メメールはそんなメイドの隣まででっぷりと出た腹を揺らしながら歩いて行き、頭に布巾を巻き付けた。
脂ぎった髪の毛を布巾で覆った彼は続いて調理器具を手に取り、木の器を持って配給を開始したのだ。
一国の主が貧困する民に飯を配りだしたのである。
「メメール様!?」
驚いたのはメイドだけではない。
クグルフ国の兵士も、民衆すらも。
その肥満なる長が取った行動に度肝を抜かれたのだ。
「お、お、お、長! 何を!?」
「飢えた民の前で脂の乗った腹を揺らすだけ長が何処に居る。飢えた民の前で脂ぎった指を自らの為だけに動かす長が何処に居る……」
メメールは慣れない手付きで、どうにか器に竜魚のスープを注ぎながら、その言葉を述べる。
クグルフ山岳の一件後、彼の瞳に映ったのは貧困する民と、何も出来ずただ肥えた自分の姿だったのだろう。
それが、一国の長である彼にはどうしても耐えられなかったのだ。
「……愚かだ、私は。今はこの自分の太りきった腹が憎ましい」
その、彼が注いだ一杯は獣人の少年へと手渡される。
無邪気なその子はメメールへと満弁の笑みを浮かべて走り去っていった。
一国の長は少年の姿を見て、頬を緩めて優しく微笑む。
その笑みは正しく、慈愛に満ちた、長たる者のあるべき姿だった。
「今、あそこで戦っている人達が居る」
メメールの視線の先には、クグルフ山岳があった。
霧が掛かり、この中央広場からでは満足に視認することも出来ないような山。
今そこで、必死に問題解決の為に戦っている者達が居る。
「彼等が魔法石を破壊する事を、私は願いましょう」
彼は瞳を閉じ、黙祷するかのようにクグルフ山岳へと頭を下げた。
他の兵士達も彼を見習うようにして同様に頭を下げ、国民達も同じ行為を行う。
彼等のその行為を見つめ、メイドは胸元をぎゅっと握り締めた。
「……皆さん」
消え入りそうな、儚い声。
彼女のその声を聞いた者は誰一人として居ない。
だが、確かにその声はクグルフ山岳の霧に埋もれる者達へと向けられていた。
【クグルフ山岳】
《山中登山路・山頂付近》
「ッ……」
ぐちゃり。
泥沼に足を踏み込みながらも、スズカゼは確かな一歩を踏み出す。
異常に濃い霧による湿気のせいで山路は泥濘み、彼女の足を地面に縫い付ける糸となっているのだ。
その糸を引き千切る度に彼女の体力は吸い取られ、減衰していく。
最早、息をする度に、肺胞を潰されるような感触に襲われる程だ。
{キュイッ}
彼女の眼前では、拳大の小さな妖精が可愛らしい、蛇口を捻った時のような声を出した。
それは彼女の召喚した妖精が初めて出した声であったが、今のスズカゼにはその声に反応する余裕はない。
一歩、一歩、と。
ただそれだけの物を踏み出すために全身を躍動させなければならない。
肉体的疲労と精神的切迫は着実に彼女から体力と余裕を奪っていくのだ。
「……?」
だが、そんな彼女の視界にそれは映る。
口内に広がる、疲労故の血に似た鉄錆の味すらも忘れさせるようなそれは。
「足跡……?」
幾数人の、少なくとも五人以上の足跡。
その足の大きさは様々だが、どれにしても革靴による物である。
スズカゼが足先で弄くると少し固いながらも崩れた事から、決して古い物ではないようだ。
「……これは」
盗賊団の物だろう、普通に考えれば。
だが、彼女の視線の先にある複数の足跡の中には、それがあった。
他の物よりも大きく、地面に深く沈んだ足跡が。
「…………」
考えたくはない。
今、自分は酷く疲労している状態だ。
そんな状態で思考が上手く回るはずもないし、この答えは有り得て欲しくない。
だが、それしか答えは見つからないのだ。
「……っ」
これほど大きくて深い足跡だ。本人は酷く肥満的な人間で大柄なのだろう。
こんな山頂まで登ってくる盗賊団が、そんな人間を連れているだろうか?
答えは否だ。有り得るはずもない。
本来ならば、もしかしたらそういう事を補えるジョブだとか魔法石を持っているだとか、そんな事を考えるべきだったのだろう。
だが疲労で回らないスズカゼの脳は単刀直入に、その答えを導き出してしまった。
「違うっ……!!」
スズカゼは必死にその思考を否定する。
不謹慎だ、不所存だ、不心得だ。
有り得てはいけない、決して、考えてはいけない。
例え口に出さずとも、それは必ず自身を表す糧と成り得てしまう。
言ってはならない、考えてはならない。
それは余りに、非情だ。
「愚者の思考は己を蝕み、愚者の行動は己を壊す」
己を蝕ませる少女に投げかけられる言葉。
その言葉を述べた男は、泥を踏みにじりながら、その足跡を踏みにじりながら。
少女に一歩、一歩と近付いていく。
「尤も、それは愚者の話だ。……御主はどちらかのぅ、獣人の姫君よ」
身体的に見ても2メートルはあるであろう、かなりの巨体だ。
肉体もそれに見合って非情に筋肉質で、腕は丸太のようにも見えた。
そんな彼の茶褐色の髪は全て後頭部で一つに纏められ、その纏められた髪は馬の尾のように腰元まで垂れ下がっている。
彼の持つ双眸は大地が如き赤銅色であり、瞳の中に輝きはない。
その妙齢の男は和服のような、非常に着乱れた衣服を纏っており、その開けた胸元に片手を差し込んでいた。
「……貴方は?」
「名乗るほどの者ではない、と言いたいが名乗らなければ不便じゃな」
男は暫し考え込み、悩みの声を出しながら空を見上げる。
やがて思いついたのか、あぁ、と呟いた。
「オロチ、とでも呼んでくれ」
スズカゼはその言葉に同意の返事を返すことは出来なかった。
それは疲労故に、驚き故に、だ。
こんな所に、こんな男が居るはずがない。
だとすれば精霊だろうか? いや、それにしては人間味がありすぎる気もする。
嘗てジェイドに習った事からすれば、精霊にも言葉を理解し喋る存在はあるそうだ。
だが、このオロチとなのった男が精霊だと言うのは些か信じ難い事だろう。
「さて、行こうか」
疲労し、驚愕し、訝しむ彼女の前で踵を返すオロチ。
彼の取った行動にスズカゼは呆気にとられていた。
まさかこの男は自分を案内しようとして居るのだろうか。
何処に? どうして?
だが、スズカゼのその微かながらも確かな疑問は、次にオロチが呟いた言葉によって消し飛んだ。
「真実を知って生きるか、真実を知らずに老い死ぬか。それを選ぶのは御主じゃよ」
真実。
その言葉の意味することは何なのか。
知らなければならない。
その為に、自分は全てを押し殺してこの足を進めているのだ。
「……行きます」
スズカゼはオロチの言葉を深く追求はしなかった。
だが、彼女は手に持った木刀を再び握り締め、その眼光を鋭く尖らせる。
その異変を感じ取った妖精もまた、彼女の周囲を一回転し、華奢な肩の周囲に浮遊した。
「真実を、知るために」
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