黒触手は数多となりて迫る
《地下図書館・第二実験室》
「むっ……!!」
ジェイドの頬を擦る触手の一撃。
高速の弾丸に差し迫る程の速さで撃ち出される一撃は、疲労した彼に微かな回避しか許さない。
頬を擦る先の一撃が散らしたのは毛先のみであったが、直撃すれば血肉を焼き切らんが程の威力であり、肉を食い千切られるであろう事は必須。
触手の先にある牙が、食い千切るのは必須。
「何だ、この化け物はっ……!!」
刃の一閃が伸びきった触手を切り裂き、弾き飛ばす。
体液は出ない。ただ残骸が如き鱗が空へ飛び散って飛散するばかり。
骨肉すらない所を見ると、やはりまともな生物ではないのだろう。
尤も、あの様な異形がまともな生物であって良いはずがないのだが。
「言ったろう? [混沌霊]だ、と」
老体は腰を曲げ、懐に腕を突っ込んだまま動こうとしない。
いや、違う。召喚士として魔力を常に供給し続けているのだ。
だが妙だ。召喚士は自身の防衛能力は皆無のため、隠れるのが一般的。
使霊を前面に出して戦闘するのが常套手だろうに、何故堂々と立っているのか。
「……いや」
恐らく、だが。
動かないのではなく、動けない。
あの精霊を、精霊らしき物を召喚する前に老人は詠唱を行っていた。
本来、詠唱とは強大な魔法や魔術を補助する為の物に過ぎない。
だが、召喚でそれを行ったという事は補助せざるを得ないほど魔力を消費する代物なのだろう。
動けぬ的ならば、狙うのが筋。
然れどそれに立ちはだかるは巨大な触手の化け物と来た。
……さて、これは如何にするべきか。
「思考は結構だ。貴様のような輩は意外と頭を働かせる。……だが」
老体が白衣から手を抜きて指示すると共に、触手の乱舞はジェイドへと襲い掛かる。
まず足場を狙い、後方に退避した彼の背中を狙い、上方に飛躍した彼の頭部を狙う。
ジェイドはそれらの連撃を体を捻って回避し、肩から地面に落下する。
受け身を取り、落下の衝撃をそのまま跳躍に移行。
追い打ちを掛けるように迫る触手を斬りながら、彼は老体より数十メートルの距離を取った。
取らざるを得なかったのだ。
「……俺の、回避方法を」
「大戦時代の癖か? 貴様は一撃一撃を確実に躱す。正体不明の相手に対しては如何なる攻撃も擦る事すら許さない……。故に、回避方法を見極めるのも容易い」
「これだから研究者という人種は……!」
「研究者ではない。研究者だ」
再び幾千と襲い掛かる黒触手の群れ。
ジェイドは前後左右と回避し続けるが、触手は的確に彼の逃げ場を塞いでいく。
壁面を使った三次元回避ですら、的確に。
「ぐっ……!」
自身の血肉を喰らうべく、滅多打ちしてくる触手は斬らなければならない。
だが、その一本一本を斬り伏せていては捌ききれる訳もない。
延々と続く触手の連撃を避け続けられる訳もない。
「なれば必然、飛び込んでくるしかない」
彼の言葉を体現するが如く、ジェイドは触手を振り切って研究者へと突貫を掛ける。
如何に喰らおうと、このまま飽和状態になって喰い殺されるよりマシだ。
一か八かーーー……。生か死かの特攻。
「[混沌霊]」
無論、研究者とてそれが解らぬほど馬鹿ではない。
いや、それを狙っていたのだから当然と言えるだろう。
先の触手は所詮誘導。この本命の数十分の一でしかない。
全てを解放した混沌霊の一撃は回避所か、外部の情報さえ遮断する。
視覚、聴覚、嗅覚さえも。全て触手の嵐が封じ切るのだ。
「潰れるが良い」
喰撃、縛撃、圧撃。
触手による三撃がジェイドを飲み込み、喰い、縛り、圧砕していく。
骨肉は悲鳴を上げ、脳髄の警告信号がこれでもかと鳴り響く。
然れど黄金の隻眼は触手の先にある老体のみを見据えていた。
刃の一閃、届かせれば良い。
自身の四肢は食い尽くされ、最悪、臓腑すらも散らされるだろう。
だが、それでもこの化け物を殺せるなら良い。
この男を、この化け物を殺せるのならば構う物か。
姫のためならば、この身程度、捨ててやろう。
「と、思っているのだろう」
研究者はジェイドの思考を読んでいた。
この特攻は間違いなく捨て身。自身の全てを擲ってでも、この老体を殺す為の一撃。
だが、それは叶わない。叶わせはしない。
「ーーーーッ!!」
老体の姿は揺らぎ、消える。
靄霧が如く静かに消え去ったのだ。
ジェイドの視界に映るのは虚空の穴。老体の姿はなく、迎え撃つは黒き鱗を持つ触手ばかり。
そしてその虚空の穴さえも、狂牙生ゆる触手が埋め尽くす。
「終え、獣よ」
ジェイドの体を貫く数多の触手。
臓腑を貫き腕をへし折り頭部を圧殺する。
飴細工が如く漆黒は拉げ、曲り、捻られて。
その身を紅色に染めることすら出来ずに、化け物の口腔へと収まっていった。
漆黒の獣は黄金の眼光を老体に向ける事無く、白銀の刃を老体に突き刺す事無く。
その命を、終えたのである。
「[混沌霊]ッッッッ!!」
終えた、はずだった。
老体が気付いたのはほぼ偶然と言って差し支えない。
姿を消しているはずの自分に、斬撃が迫っている事に気付けたのは。
「……そうか、貴様が居たな」
老体は歩むこと無く踵を返し、その者に視線を向ける。
漆黒の側に立つ、白衣の男を。
嘗ては抱き抱えたこともあった、教鞭を執ってやった事もあった、肩を並べ研究に没頭したこともあった、啀み合いの喧嘩したこともあった。
息子だった事もあった、その男を。
「まだ終わらない。終わらせるのは我々だ、研究者」
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