山中での離別
[それ]が何だったのか。
スズカゼには理解する事は出来なかった。
何故ならそれは、自分が先程まで確かに見ていた物ではなかったからだ。
獰猛な荒波ではなく、影。
真っ黒な深海をさらに浸食する漆黒の影。
それは己の内部を喰らうようにじわりじわりと浸食するように。
目の前の黒を、静かに、しかし確かに塗り潰していく。
「…………」
言葉は出ない。
指先すらも動かず、視線も。
全身を蝋で塗り固められたように、全身に鎖を巻かれたように。
それは自分の全てを奪い取って、固めてしまう。
「ーーーーーッ!」
一瞬だった。
己の指先から生まれたそれが目の前で揺らいだ刹那。
意識が全身を躍動させ、蝋を溶かし鎖を解く。
呼吸を忘れていた気管が酸素を吸い込み、濁り切っていた血液に潤いを取り戻させる。
「……あ」
目の前に広がるのは、濃霧。
山を登っていた時に見ていた、視界を埋め尽くす白。
そこに精霊と妖精の荒波はなかった。
ただ、泥に近い地面を蹴り飛ばした痕跡と、己の吐き出すような息音だけが存在している。
「……何で」
恐る恐る振り返った彼女の視界に映ったのは、痕だった。
眼前に広がる荒波のそれではない。
生命の痕、精霊や妖精の死骸。
身体の一部を焼き抉られた物や斬り飛ばされた物。
間違いなく自分が見ていた荒波の、精霊や妖精のそれだ。
「二人はっ……!?」
しかし、その痕の中に人の姿はなかった。
争い、殺し合った痕こそあれども。
その中に人らしき物の痕跡は全くなかったのだ。
「どうして……」
その疑問は彼等が何処に行ったのか、どうなったのか。
そんな意味ではない。
どうして、荒波の痕が自分を避けているのか、という意味だ。
地面の泥に刻まれている足跡は自分を木のように、柱のように、電柱のように。
当たる必要がないから避けた。まるでそう言うかのように。
「……ッ!」
それが何故なのか。
そんな事を考えている暇はない。
今は自分が何をすべきか、を考えなければならない。
ファナとメタルの姿はない。
いや、そもそも精霊や妖精の突撃から何分経った?
周囲に音は何もない。
恐らくだが、既に10分以上は経過しているだろう。
「……上るか、下るか」
今回の件による問題点は、精霊召喚魔法石の暴走。
先程の突進も召喚された主なき精霊や妖精による物だ。
そしてファナやメタルの不在も、それによる物のはずだろう。
恐らくは今、荒波を受けて山下で負傷しているかも知れない。
その上、もしかすれば精霊や妖精に襲撃されているかも知れない。
今すぐ助けに行かなければどうなるか解った物ではないだろう。
「……それに」
襲撃を受けているのが彼等ならば、まだどうにか凌げるかも知れない。
いや、メタルならともかくファナならば逆に返り討ちにしてしまうだろう。
それだけなら何ら問題はない。
だが、違う。
本来の問題はそこではない。
「ここからクグルフ国まで約30分……!」
そう、あの精霊や妖精の荒波がクグルフ国まで届けばどうなるか。
言うまでも無い。サウズ国ほど強固ではない城壁のクグルフ国ではあの波を防げるはずはない。
恐らくは、ほぼ一瞬で終わってしまうだろう。
「それを防ぐには……っ」
今すぐ山頂に向かい、魔法石を破壊するしかない。
例え山下で何が起こっていようとも、それを無視して。
「……ッ!」
どうすべきか、は明白だ。
あの二人が簡単に死ぬとは思えないし、クグルフ国に精霊と妖精の荒波が向かっているのも可能性でしかない。
それでも、可能性がある限り、それを見逃す事は出来ないのだ。
「……行くしか、ない」
一人で、破壊するしかない。
戦力がどうだとか危険がどうだとか、そんな事を言っている場合ではないのは解っている。
ファナやメタルが心配だとか、そんな事を言っている場合ではないのは解っている。
それでも、進まない。
「……っ」
この足は、進まないのだ。
怖い。寂しい。恐ろしい。気遣わしい。
今すぐ振り返って二人を迎えに行きたい。
今すぐ振り返ってクグルフ国まで引き返したい。
この事実を誰かに伝えなければならない。
「それでも……行くしかない」
スズカゼは自らの足に拳を叩き込んだ。
その急な行為に彼女の召喚した妖精はびくりと震えるように宙を舞うが、やがてスズカゼを心配するように彼女の周りを浮遊し始める。
「大丈夫。気合い入れ直しただけやけん」
彼女は自らの口調が乱れていることも気にせずに、足に響く鈍痛を噛み締めて歩き出す。
怖いだとか寂しいだとか恐ろしいだとか気遣わしいだとか。
そんな事を言っている暇はない。
怖いなら、進めば良い。
寂しいならば、歯を食いしばれば良い。
恐ろしいならば、奮い立たせれば良い。
気遣わしいならば、目的を果たせば良い。
進め、あの国を。
人と獣人が笑い合えるあの国を潰したくないのなら。
「……っしゃ、行くかいな」
彼女は不要な感情を視界から追い出して。
歯を食いしばり、拳を握り締めて歩き出す。
その姿はとても華奢な少女のそれには見えなかった。
《山麓・崖下》
ガァアアアアアアアンッッッ!!
轟音が鳴り響き、崖下の岩石は爆散する。
それは崩落や雪崩による物ではなく、岩石に下敷きになっていたファナが岩石を全て魔術大砲で吹き飛ばした事による物だった。
「……チッ」
不機嫌そうに舌打ちしながら、瓦礫の山より脱出するファナ。
彼女は岩石の下敷きになっていたと言うのに、殆ど傷はない。
と言うのも、ファナは精霊と妖精の荒波に巻き込まれた時も、崖から落下したときも、追撃するように落下してきた岩石の下敷きになったときも。
絶えず魔術大砲を放ったり周囲に展開したりしてダメージを軽減し続けていたのだ。
とは言え、それで完全にダメージをなくせる訳ではない。
彼女は右腕を貫く激痛に表情を歪ませながらも、どうにか己の両足で立ち上がった。
「…………」
周囲に精霊や妖精の姿は見えない。
霧も先程の地点よりは薄いとは言え、やはり視界も明快とは言えないだろう。
「……ふむ」
ここから取るべき行動は何か。
彼女はそれをほんの数分だけ思考し、やがて歩き出す。
その足取りに迷いはなく、ただ明確に泥を踏み抜いて歩を刻んでいた。
《山中・森林》
「……痛てて」
ほぼ70度は有るであろう斜面。
そこには腰に手を当てるメタルの姿があった。
彼は全身に擦り傷を負っており、決して無事とは言えないが重傷と言うほどでもない。
どうにか、彼だけならば山を下ってクグルフ国に戻れるであろう。
その程度の傷だった。
「……さて、どうするか」
しかし、それは何事もなく山を下れれば、の話だ。
今のように数十を超える精霊や妖精に囲まれた状態から無事に脱出して山路をそれらの追っ手から逃げ切り道中何の被害にも遭わずクグルフ国まで逃げ切れば、の話だ。
「……こりゃ、ちょいとヤバいな」
もう笑うしかないと言った風に笑むメタル。
数十の獣は、諦めの色を見せた獲物に対し牙を剥く。
だが、彼等は獣故に。主なき精霊故に、妖精故に気付かない。
その獲物が未だ諦めて居ない事に。
「タダで死ぬにゃ惜しい人生なんでな……!!」
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