本の虫達
「ッ!」
リドラは本能的に、生存本能的に回避した。
いや、回避と言うよりは逃避だろう。目の前の人質すら無視して背後へと転げ込んだのだ。
尻餅に近い。全体重を一気に後ろへと放り込んだのだから当然である。
そうでもしなければ、回避出来なかっただろう。
振り抜かれる豪腕より放たれる、鋭爪の一撃は。
「ーーーーッッ!!」
リドラの頭髪を、空圧すら切り裂いて壁面を抉る鋭爪。
直撃させた訳ではない、ただの風圧が容易く壁面を削り取ったのだ。
今の一撃で嫌でも解る。この獣人は、決して相手取ってはいけないと。
「ワン!!」
「解っている! 不確かな存在!!」
デモンの視界から全てが消え失せ、有象無象は世界の裏へと隠れ去る。
彼も一瞬は思考回路を炎上させて混乱し、何が起こったのかを理解出来ずに居た。
そう、一瞬は、だ。
「ハッハァ!!」
振り抜かれた豪腕は黒衣を貫き、臓物を撒き散らす。
背から腹を貫いた腕は噴水のように吹き出す血を浴びながら、歓喜の骨音を響かせていた。
腕に絡まる腸が、胃が、肉が、骨が。その一つ一つが美味なる酒と言わんばかりに。
指を一本、二本、三本と順に折っていく。
「……そこ、か」
空気の流れ、硝煙の臭い、戦闘的勘。
それら全てを動員したとしても相手の位置を掴むのはほぼ不可能のだろう。
ワンの魔法は、そういう物だ。自分含めその他の存在すら相手の意識内から消すという、そういう物。
にも関わらずデモンは戦闘的勘のみで、ワンの部下一人の腹部を貫いたのである。
「ラウ・グータムッッ!!」
ワンの叫びに、その男は答えない。
腹部を貫かれたときに肺を潰されたのだ。臓腑に空気は行き渡らないし、運ぶはずの血液ですら腹から溢れ出している。
無理だ、今行っても助けられない。
ワンは即座にそう判断し、一気に踵を返して走り出した。
だが、それを見す見す逃がすほどデモンも甘くない。
既に魔法は解けた。仲間の死という動揺が功を奏したのだろう。
彼は黒衣の男、ラウの腹部から腕を引き抜きラウの首を撥ねるがべく地を駆け、られない。
「ぬっ……!?」
腹部から引き抜かれる腕を鷲掴みにする、血塗れの双掌。
嘲笑うかのようにその腕へ大量の血を吐きかけながら、男は、ラウ・グーダムは頬を歪ませる。
言葉は吐けない。それを吐くだけの酸素も、生命も、力も残っていない。
然れどその行為と自身の腕に吐きかけられた大量の血。
たったそれだけで、デモンにはその男の笑みが見えていた。
「デモン! 何をしてる!? 追えっての!!」
「黙れよ保持者。俺は今この男と戦ってんだ」
「戦う!? 何言って……!!」
保持者は見た。
瀕死の、いやほぼ死んでいるような男の目を。
未だ枯れ果てることの無い、圧倒的な状況に置かれても諦めて居ないその目を。
生きる事ではなく、デモンという獣人を行かせない事を諦めて居ない、その目を。
「死を覚悟した戦人ってのは誰よりも強ぇし、誰よりも弱ぇ。最悪の相手だが……、お前は最高だぜ。名も無き野郎よ」
「……ラ、ウ。グ……ッタ……ム……!!」
「ラウ・グータム、か。覚えておくぜ」
デモンはラウの腹部より全力で腕を引き抜き、血飛沫の雨を降らせる。
臓物や肉片も混じったその雨を受け、その場に居る者達の衣服は段々と黒き紅色に染まっていった。
悲鳴や絶叫一つない、静寂の中での血雨。
あるのはただ、一つの屍と有象無象の姿。
そして一人の戦士を屠った、獣人の姿だった。
《地下図書館・第二実験室》
「ワン・チェドス。提案があります」
「馬鹿な事は考えるなよ、リ・ドー。もうラウは手遅れだった。それだけだ」
「……ですが」
「考えるなと言った。……あれ程の男が傭われているとはこちらにも予想外だったのだ。ラウが食い止めてくれた今を感謝するしかあるまい」
ワンは器具の数々に背を凭れさせながら、静かに腰を突く。
一気に魔力を解放させ過ぎた上にラウがやられた時の動揺で魔力回路の操作を誤った。
流石に力を使い過ぎだ。このままでは魔力が枯渇してしまう。
通常の人間と違って自分は魔力を持たず、通常の獣人と違って魔法石など使ってもいない。
獣人である自身の体内に無理やり魔力回路を作っているのだ。
謂わば手付かずの森の中に無理やり道を通した、というべきだろうか。
その道を急に開けば左右の木々が倒れ、獣が襲い掛かり、森の均衡が崩れるのは目に見えている。
……自分は、それをしてしまったのである。
「……ワン」
「謝るなよ、解析者。謝るな。……ラウは確かに我々の仲間だが、それとここで死んだ事は別だ。貴様のせいではない。我々のために、死んだのだ」
「何故だ……。何故、そこまでして私に協力する? この組織を、聖死の司書を止めようとするのはこちらの勝手だ。自己満足だ。逃げた、過去へのケジメだ。だと言うのにどうしてお前達が……」
「似たような物だからな、我々も。だが、それ以上に我々もあの小娘に興味がある。この組織が何を企んでいるのかという事に興味がある。それを知るためならばこの命すら安い物だ」
「……変わらんな、貴様は」
「記録者なのでな。我々はいつまで経っても本の虫だよ」
司書達の騒がしい足音が彼等の耳に入り、三人はその場から立ち上がり、姿を消す。
こうして捲られ続けた本のページに漸く栞が挟まれた、かに思われた。
まだなのだ。未だ終わってはいないのだ。
本のページは捲られ続ける。未だ止まらずに。
その栞たり得る少女は未だ、動いてはいないのだから。
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