杯に歪みは注がれて
《第三街南部・住宅街》
「な、何なんだこの音は!!」
デイジーの叫びを掻き消すが如く、その轟音は激しさを増していく。
まるで世界が激しく揺さ振られているかのように、全てが激動の元で亀裂を膿み始めていた。
彼女達の同様も、心の揺れも、全てを世界に表すかのように。
「デイジー……」
不安げに呟くサラの声を聞き、彼女は視線を動かせる。
何があったのか、どうしたのか。
そんな事を聞く前に、デイジーの視界に映った景色は全てを物語っていた。
黒煙が上がっていたのだ。
それも今までとは比べものにならないほど真っ黒な、黒煙が。
「何だ、あの煙は……!」
ただ何かが燃えただけでは上がり得ない程の黒。
血肉を焼いた時に上がるような、そんな形容しがたいほど悍ましい色。
見ただけで鼻を塞ぎ、眉根を顰めたくなるような異臭の黒色。
「恐らく下水ですわ……。人が燃えた時の色に似ていますもの」
「下水道には排泄物などが流れているからか……!」
デイジーは傷だらけの体を無理やり起こし、その手にハルバードを掴もうとするも、既に折り砕かれた事を思い出して拳を握り締めた。
サラの制止などその耳に届かない。ただ、立ち上がり黒煙の元に向かうために。
「デイジー! さっき言ったでしょう!?」
「あぁ、だからだ。私は向かう。弱者故に弱者を助くために。この手は誰かを護る為ではなく、誰かを救うためにある」
「けれど、その傷では……!」
「弱者には弱者の意地があるんだ、サラ」
彼女は崩れそうな足取りで黒煙の元へ向かい出す。
一歩一歩が余りに遅く、緩やかで、弱々しい。
然れどその一歩一歩を歩む背中は何物にも代えがたいほどに確かな物だった。
「……全く」
呆れ気味に微笑んでサラは後を追い、その腕を彼女の肩に携えた。
支えを得たその足取りに揺らぎはなく、その歩みに迷いはない。
その後ろ姿は紛う事なき弱者のそれで、紛う事なき騎士のそれだった。
《第三街南部・南門付近》
「きゃぁっ!」
余りの激震に思わずメイドは転倒し、尻餅をついてしまう。
底に追い打ちを掛けるが如く戸棚が揺らぎ、彼女の真上に中身をブチ撒けながら転倒した。
金属音と破砕音、そして硝子が割れる鋭い音と共に、周囲は埃煙に覆われる。
叫ぶ事すらままならなかった騎士達は固唾を呑んでその煙が晴れる瞬間に視線を交差させた。
「……ぅ、う」
煙が晴れた場所より姿を現したのは背中を焦がした女騎士の姿だった。
騎士は覆い被さるようにしてメイドを庇い、その背に硫酸等と言った危険な液体をもろに受けたのである。
騎士達は急いでメイドを庇った彼女を、鎧を脱がせてから床に俯せで寝かせた。
「どうして、私を庇って……!」
メイドは袖を捲り上げながら急いで彼女に駆け寄り、包帯と薬品を取り出していく。
俯せになりながらも苦痛に息を切らす彼女は無理やり笑みを作って彼女の問いに答えた。
「スズカゼ伯爵と、話をしたんです……。彼女は、貴方達のこと……、を、言っている時、本当に真面目で、嬉しそうだったから……」
その女騎士は、訓練所でスズカゼと語らった女騎士は。
苦しみに満ちた笑みを浮かべながら、背を焼く激痛に唸り声を上げる。
彼女の笑みに瞳を潤ませながらも、メイドは確かな意識を保つよう視線を鋭く尖らせて、手当を開始した。
手当を、開始してしまった。
気付くべきだったのだ、その時。
誰かが一人でも外で開いた穴から黒煙が吹き出していることに。
その異臭が、血肉の焼け焦げる物になりかけていることに。
その穴の下で、一人の女性が片足を岩に挟み込まれていることに。
《第三街東部・ゼル男爵邸宅周辺》
「おい! 止まれ貴様!! おい!!」
サウズ王国を揺るがす激震の恐怖が避難者達に広がりだした頃。
騎士の一人が罵声の入り交じった叫びと共に一人の獣人を抑えていた。
腕に包帯を巻いた猿の獣人は、言葉にもならない言葉を叫びながら騎士の下で藻掻き苦しんでいる。
その光景を見かねたモミジは黒煙から降り注ぐような異臭に鼻を塞ぐ住民達を避けて、その男の元へと歩いて行った。
「何事ですか」
「も、モミジ様! それがこの男が何やら妙なことを……」
「妙じゃねぇ!! ハドリーさん見てないかっつってんだよ!!」
「ハドリーさん……?」
「居ないんだよ、何処にも!! あの人が居ないんだ!! 街ん中もこの辺りにも!! 何処にも!!」
彼の言葉に追い打ちを掛けるように、獣人達が次々にその言葉に賛同していく。
彼女は振り返って騎士達に確認を求めたが、確かにハドリーを見たという物は誰一人として居なかった。
「……ハドリーお姉ちゃんなら、歌うたってる男の人が担いでたよ?」
《第三街東部・外壁東門》
「おほっ、始まった始まった」
黒煙を吹き出すサウズ王国第三街。
その光景をサウズ王国を囲む外壁から眺めつつ、その者は至極嬉しそうに両手を打ち付けた。
逆立った黄金の頭髪を天の日に照らし、鋭利なる牙と壮大なる体毛を風に靡かせる、その獣人は。
「ちぃーっとばかし遅刻したが、まぁ、大丈夫だろ!」
気軽な言葉を述べながら、その獣人は外壁の中へと降り立っていく。
彼が降り立つと同時に地は亀裂を走らせて悲鳴が如き轟音を掻き鳴らし、静寂を切り刻んでその陥没帯を生み出した。
地下からの爆破ではなく、降り立った者の重量によって。
「さぁーて、遅れながら俺様の登場だ!」
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