嘴は兜を割れず
《第二街北部・北門》
「……つ、あー」
少女の首元で静止した刃。
薄肌一枚、いや、血管直前まで刃を進めたそれは微かに震えながら確かに止まっていた。
もし今、少女が下手に動けば血飛沫が上がるであろう、その位置で。
「洒落にならんわ、これ……!」
首元から指先まで駆け抜け脱ける苦痛に眉根を歪めながらも、少女は動けない。
この刃がここにある時点で自分の動きは完全に制されていると言って良い。
故に不可解だ。動きを制する理由など相手にはないはずなのだから。
このまま血管を切れば良い話だがーーー……、それをせずに固まっているのは、それも小刻みに震えながら固まっているのは、つまり。
「……助かりました」
その声が相手に届いたかどうかは解らない。
ただ、その刃が返事を返すように地に落ちて金属音を立てた。
少女は首筋の出血を確かめると共に、再び刃を構えて壁に背を付ける。
「……ッ」
先ので、大抵の予想は付いた。
恐らく相手の魔法は姿を消すことだ。それもかなり高度な。
いや、本質はそこではない。姿を消す魔法は姿を消す魔法でも、相手以外の姿を消す魔法なのだ。
「面倒や……」
思わず素を出してしまうほど、この能力は面倒だ。
本来、姿を消す魔法の破り方は周囲の気配を感じ取ることである。
他人の視線だとか、空気の動きだとか、何らかの目印だとか。
そういう物が[それ]を破る手立てなのだが……。
他の姿も消す。たったそれだけで、[自分と同質の立場を量産する]だけで、その方法は破られる。
「こりゃ意表突かれたなぁ」
さて、これはどう破るべきだ?
逃げても良い。自分を助けてくれた人を見殺しにし、剰え背中から刺されるという可能性を考慮できるのなら。
……駄目だ、話にならない。かと言ってここで滞在し続けるのもマズい。
助けてくれた人物が手練れなら良い。だが、もし騎士の誰かなら?
言っては何だが、彼等があの獣人に勝てるとは思えない。最悪、殺されることだってあるだろう。
そうなれば獣人は何も解っていない自分をゆっくりと殺すだけで良い。
「これは、本格的に……」
「マズい、とか考えてるんでしょうね。あの人」
ワンの鼻先を大量の血液が伝い、まるで鼻血が出ているように彼の口元を赤く染めていく。
その男、ワンの額を大剣にて切り裂いたその男は呆れ気味に息をつきながら、静かに兜の尾を揺らした。
漆黒の兜と、刃を握ったが為に微かに傷付いた手鎧を、揺らした。
「貴方はどうですか? [聖死の司書]所属、[記録者]さん」
「……最悪だ、と思っている」
額から流れ出す血液を袖で拭い、その獣人は奥歯を剥いた。
言葉通り彼の表情に希望だとか望みだとかそんな物はなく、ただあるのは焦燥のみ。
眼前に居る男は最悪の敵だ。戦闘本職ならまだ一縷の希望はあっただろうが、自分のような[兼業]には望みなど何もない。
あるはずなど、無いのだ。
この男、デュー・ラハンを前には。
「その魔法、決して長時間持続できる物じゃありませんね。長くて五、六時間程度。範囲が広がればその分、消費量も増える……。いや、これ程の範囲を五、六時間も継続できる方が凄い、と言っておきましょうか」
「魔力回路を少し弄っているのでな……。弄くり方を教えても良い。少し回路を変えるだけで魔力消費量が段違いだ」
「あ、それ興味ありますね。だから獣人なのに魔法が使えるのかーーー……。まぁ、俺には無駄でしょうけど」
「……授業料は見逃して貰うこと、と言おうとしたんだがな。逆に私が授業料を払わなければならないようだ。無駄、とはどういう事だ?」
「そのままの意味ですよ。俺、ちょっと特殊なんで」
会話途中に首でも慣らすが如く、自然に疾駆する大剣。
その鉄塊に近しい刃は獣人の頬端を擦り、微かだが血液を飛散させる。
こんな、自身と同等かそれ以上の大きさもある鉄塊を軽々と振り回す異常な腕力。
そしてこんな、ごく当然のように相手を殺そうと思える倫理観の欠如。
成る程、特殊と言うには充分過ぎる存在だ。
この男を相手取るのはマズい。今すぐにでも逃亡すべきだろう。
「…………」
ワンは微かに足先を外へ向ける。
自分は空を飛べる。長時間ではないが、それでもここから、延いてはこの国から脱するには充分な距離を。
一瞬で良い。一瞬で良いから、奴の気を自分から逸らす。
そうすれば脱するには充分な時間となり得るはずだ。まさか空が飛べる訳でもあるまい。
「逃げられるとでも?」
ワンの頭上に深々と突き刺さる大剣。
それは彼の頭上より上の世界を奪うと同時に、その足から力を抜かせるに充分な物だった。
情けなく腰抜けたワンは震える眼球で兜を見、そして呟く。
「最悪、だ」
「最悪最悪ってねぇ……。[最も悪い]なんてのは、そう無いことですよ」
「よく言う。研究者は常に最悪と、それよりも最悪を考えて動く物だが……。これは間違いなく[最悪]だ」
「どちらの、ですか?」
「……最悪よりも、最悪じゃない最悪だ」
刹那。
デューの視覚、聴覚、感覚、嗅覚、触覚を覆い尽くす虚無。
全てが彼の意識から除外され、全てが彼の理解から遠ざかる刹那。
一秒にも、その百分の一にも満たないであろうその刹那こそ。
ワン・チェドスという獣人が全ての知識と意識を総動員し、逃げるに値する時間だった。
「……やられた」
羽ばたいたり、走ったり。
そんな逃亡の仕方ではない。単純に、逃げた。
方法は解らないが恐らく能力の応用だろう。他への全魔力を遮断して総力を自分に向け、全意識を逸らさせたのだ。
その証拠に向こうの壁際では少女が摩訶不思議そうに周囲を見回している。
自分の魔力を超えるとなれば相当な危険を伴っただろうに、何とも思い切った事をしてくれる物だ。
「……ま、良い授業料かな」
壁に埋まった大剣を抜き、その者は踵を返す。
何処に居るやも知れない獣人など既に意識の外として。
壁際で慌てふためく少女へと、脚を向けていくのだった。
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