その手は届かない
「…………っ」
デイジーの頬を伝う、一筋の血流。
出血量と外傷から見ても頬の薄肌を切った程度、酷くても軽く肉が裂けた程度だろう。
子供が転んだ時に出来るような、そんな軽い傷。
「……どういうつもりだ」
「どういうつもり、とは何じゃ?」
豪腕を振り抜いた男はその腕をゆっくりと戻し、葉巻へと指先を添えた。
敵を前に悠々と煙を吸うその姿は紛れもなくデイジーを侮っている。
いや、侮っているならまだ良いだろう。
その男は最早、デイジーを敵と、武器を持った生物とすら見なしていないのだ。
「今し方折ったハルバードのように……。どうして私の首を撥ねなかった」
「撥ねるぅ? 馬鹿かお前は。ここは戦場ではない。ただの街よ、ただの国よ。戦が行われていようとも、誰が地肉をブチ撒けるでもない。ここはただの街で、国だ」
男の言う言葉はデイジーに露として届かない。
届くはずがないのだ。届いて良いはずがないのだ。
貴様を前にしてもここは戦場たり得ない。貴様はその程度の存在なのだから、と。
そう言われて、それを聞き届けて良いはずがないのだ。
「舐めているのか!! 戦場に立ったのなら兎すら喰い殺さずして何が獅子か! 何が戦士か!?」
「言うとろうが。ここは戦場にあらず。そして貴様は兎ですらあらず。傷付き地を這えずる羽虫など、いったい誰が気に留める」
奴の言葉など唾棄してやれば良い。
何を言っている、ほざけ、と。
然れどそう言えないのは自覚があるからだ。自分が[それ]であると自覚があるからだ。
幾ら武器を振るおうと山は裂けない。幾ら走ろうと海は駆けれない。
幾ら、幾ら、幾らーーー……。
鍛練を積んでも、団長やスズカゼには追いつけない。
「……貴様に何が解る」
「さてなぁ。上ばかり見上げて歩くから転ぶような小娘の気持ちなど解るはずもない」
老体は踵を返し、白煙の塊を大きく吐き出した。
その背は歴戦の強者と呼ぶに相応しく、同時に地を這いずる羽虫へ圧倒的な[差]を理解させるにも充分な物だったのだろう。
デイジーはその表情に絶望の色を浮かべながら、静かに膝を折りーーー……。
「うわぁあああああああああああああああああッッッッ!!」
先端の折れた武器を持って、全力で突っ込んだ。
牙を剥いて半狂乱に叫びながら走る彼女は、どう見えたのだろう。
追い込まれた獣か、傷を負った兎か、それとも。
最後の灯火を燃やし尽くす、ただの羽虫か。
「キツネビ、タヌキバ」
デイジーの武器が空中を舞い、拳が彼女の額を叩き落とす。
ただそれだけの行為だったにも関わらず、デイジーの頭蓋骨は地面の岩盤を砕き割り、意識の中枢を闇に引き摺り込まれていた。
消えかける意識が捕らえたのは扇で口元を隠す狐の獣人と、拳を振り抜き得意げに胸を張る狸の獣人だった。
「キツネビ。お前、隊長の命令無視しようとしたぬ?」
「だってこの程度の相手、貴女だけでも充分でしょう? タヌキバさん」
「それはそうだがたぬ……」
何やらぐだひだと言い合いながら、二人は互いに胸を向き合わせている。
つまり、彼女達は今し方叩き落とした小娘のことなど既に眼中にないのだ。
隊長と呼ばれていた老体の男が既に姿を消している事からも、彼等にとってデイジーは最早、戯れることすら面倒な存在と成り果てているのだろう。
「待、て……!!」
それが、デイジーには我慢ならなかった。
鍛練を積めば皆が褒めてくれる。自分にはそれが誇りだったのだろう。
今無視される事は、その誇りを踏みにじられる気がして。
「ッ……!」
その力があるから誰かを守れる。自分という存在を護る事が出来る。
体は嘘をつかない。刃は嘘をつかない。力は嘘をつかない。
だから、本当なのだろう。
奴等から見れば自分はただの羽虫同然だということは。
「もうやめるたぬね。手足どころか、中身まで無事では無いたぬ」
「そこの狸の言う通りですわ。この狸、見た目はただのデブ狸でも医術にすこりばかり感心があるのですよ」
「少しじゃないたぬ! 医者やってける程度には知識があるたぬ!」
「まぁ、それはどうでも良いんですけれど。それはそうとして、私達は別に貴女を殺すのが仕事じゃありませんの。傭兵というのは無駄な事はせず目的だけを達成すれば良い、と言うのが我々のモットーですので」
「要するにお前を殺す理由どころか相手取る理由すらないたぬ! さっさと医務室にでも運ばれてろって話たぬ」
「ですわね。隊長の言う通り、去んでください」
眼中にない。
彼女達からすれば、あの老齢の男からしてもそうだ。
自分は有象無象の障害物の一つでしかないのだろう。
薙ぎ倒せば終わり。幾百とある中の一つ。
自分がしてきた努力も何もかも、彼女達の前では羽虫の羽音でしかない。
いや、それですらない。それ以下でしかない。
「……負けられるか。私は、負けられないのだ」
デイジーは拳を握り締め、立ち上がった。
武器は無く、鎧は砕け、意識は溶けている。
本来ならば死に至っていてもおかしくはない傷だ。今すぐ治療に専念すべきだろう。
然れど退けない。退くことなど出来ない。
ここで退けば自分の全てが崩れ去る。努力も憧れも目標も、何もかもが。
「……出来るだけ殺すな、だったぬね?」
「えぇ、[出来るだけ]殺すな、ですわ」
キツネビは扇で口元を書くし、タヌキバは拳を固く握り締める。
相対する羽虫を、それ以下の小娘を倒す為に。
否、薙ぎ払うために。
「隊長、何処に行ったと思います?」
「確か地図だと第二街って所だったはずたぬ。あんまり遠くないたぬよ」
地図を広げながら、まるで観光客のように話し合う二人の獣人。
彼女達は地図と景色を見比べながら、やがて緩やかに歩を進めていく。
土煙を裂き、亀裂を乗り越えて、瓦礫を踏む彼女達が去った頃。
そこには地に伏す傷だらけの女性が一人だけ、居た。
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