猛り狂う竜
静寂。吐息一つ、布擦れ一つの音が聞こえるほどの静寂。
太陽に陰りを作る竜の鼻先に君臨する、一人の少女。
静寂だった。その二つの光景以外、全ての時が止まってしまったかのような静寂。
「竜よ」
まず、その静寂を打ち破ったのはスズカゼの言葉だった。
竜に語りかけたのか、と皆が驚愕した事など露知らず。
少女は切っ先を竜の鱗に食い込ませながら、微かに膝を折る。
「取引をしよう」
取引、と。
そこまでしか対岸に立つ者達の耳には届かなかった。
だが、竜からすればそこまで聞ければ充分だったのだろう。
続く少女の言葉に同意するが如く瞼を閉じ、静かに頭を垂れ始めた。
竜の牙が海面に浸り、その眼が草原を映すと共に少女はサラとオクスへと微笑んだ。
「す、スズカゼ嬢……」
「サラさん、ハドリーさんとデイジーさんをお願いします。ハドリーさんは気絶してるだけですけど、デイジーさんは腕に傷を負ってます。レンさんから治療道具を買って治療して上げてください」
「はい、解りましたわぁ。けれど凄いですわねぇ。まさか竜を従えるなんて……」
「従えてませんよ、これ」
サラの手に二人が渡った瞬間。
竜は牙と眼を剥き、草々と水面を震撼させる轟咆を吼える。
少女は竜が起き上がる動作に合わせて背びれまで後退し、その鱗に支えとして紅蓮の刃を食い込ませた。
竜はそんな痛みなど知った事はないと言わんばかりに暴れ狂い、背びれの少女を振り落とそうと喚き吼える。
「な、何が起こったのでしょう?」
サラの疑問に答えたのはオクスだった。
いや、答えたというのは語弊があるだろう。応えた、と言うべきだ。
困惑と微かな確信を持って口を噤む彼女の反応と予測こそが、答えであり応えだったのだから。
「……獣は互いに雌雄を決するとき、第三者の手が入れば共闘してそれを排除するという。恐らく、先のもそれだろう」
「ではハドリーさんとデイジーは戦うのに邪魔だ、と。竜がそう判断したと?」
「人に使える精霊……、そして同時に使霊である存在だ。対岸の召喚士共の意思か?」
「精霊自体がそれを望んだ、という事は?」
「有り得ないな。雌雄を決するのはあくまで同生物内での話だ。あの身体差からしても有り得る話ではない」
彼女達が気付かないのも無理はない。
スズカゼの[天陰・地陽]は自他関係なく魔力を暴発させる技だ。
だが、魔力という存在を暴発させる事は同時に[霊魂化]の促進を意味する。
即ちスズカゼ内の精霊成分を増加させる事を意味するのだ。
竜からすれば[餌]から[同類]に変わった事になる。
敵対し、雌雄を決するに値する同類に。
「取引に乗ってくれて感謝するけど。……手加減はしないから」
竜は少女の言葉になど耳を貸さず、一気に水中へとその身を沈め込む。
スズカゼは壁面に激突したが如き衝撃を受けるが、それでも紅蓮の刃からは手を放さない。
当然だろう。これを待っていたのだから。
「天陰・地ーーーー……!」
竜は彼女が行動を起こそうとした瞬間に一気に水面へと跳ね上がった。
スズカゼが水中の魔力を、海という魔力の塊を暴発させようとしたことを察知したのだろう。
いや、そうではない。
スズカゼが海の魔力を求めて竜が潜る事を狙っていたように。
竜もまた、スズカゼがその一撃を。自身を内部より破裂させ水面すらも食い尽くそうとした、その技を。
「しまっーーー……!!」
彼女のその一撃は自他共の魔力を用いるとは言え、実状、一対九ほどの割合で発動している。
即ち他の魔力を大量に、或いは相手の魔力を用いなければ発動できる物ではないのだ。
自身の魔力を用いる事も出来る。嗚呼、それも可能だろう。
だが、それを放つことが出来るのは一発か二発か限界なのだ。
本日に至っては既に多量の魔力を消費してしまっている。放つのは不可能。
いや、竜はそんな事など狙っていない。放つことが不可能なのは竜にとっても関係の無い話なのだ。
竜が狙っていたのはスズカゼがそれを発動することだ。
魔力の一切ない空中で、大量の魔力を消費させることだ。
{ウォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!}
勝利の咆吼だった。
ただでさえ魔力を欠乏した状態であるスズカゼが、そんな一撃を自身の魔力のみで放てばどうなるか。
出来上がるのは乾涸らびた肉塊、という事だ。
「ッーーーー!!」
技はほぼ発動しかけている。
坂道で転がりだした球体を止めるには、その転がせ始めた時の数倍の力を要する。
魔力を要した技も同様で、一度降り始めた刃は止まらない。
止めるだけの力を今、自分は有していない。
これでは、自分は乾涸らびた肉塊に成り果ててしまうだろう。
「全く、手間が掛かるね」
少女の頭蓋に響く激震。
同時に腕元から抜けていく、微々たる魔力。
彼女は自分の頭に踵落としをくらったと理解し、技が中断されたと理解すると同時に。
顔面から水面へと全力で突っ込んでいった。
「ぶげぇあぁっ!?」
情けない叫び声と共に水面落下する少女と、近場の陸にしっかり着地するドレッドヘアーの女性。
竜は余りに急な出来事だったのでスズカゼを見失っているらしく、周囲の光景を巨大な眼に繰り返し映していた。
ドレッドヘアーの女性はそれ幸いと見たのか、少女の腕を引いて立ち上がらせる。
「まさかアンタが居るとは思わなかったさね。びっくり仰天神出鬼没にも程があるんじゃないのかい?」
「うぇっぺ! 水が口の中に……、って」
少女が見上げたのは、記憶の片隅に引っ掛かるかどうかという、非常に微妙な人物だった。
見覚えはある。会ったことも多分、ある。
けれど名前が思い出せない。頭の片隅には引っ掛かっているというのに。
「……ベルルーク国の?」
「そうだよ。やっと思い出したのかい?」
思い出した。そうだ、この人はベルルーク国の人だ。
確か、その名前を……。
「ヨーラ・クッドンラーさん!」
ドレッドヘアーの女性は、否。
ベルルーク国軍中佐、ヨーラ・クッドンラーは。
笑み、陸地を穿ち、そして。
「まずはコイツをどうにかしようかね」
少女と共に、竜と対峙した。
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