獣人の暴動
【サウズ王国】
《第三街南部・広間》
「…………えっ」
第三街南部の広間は落ちているのは落ち葉ぐらいという、非常に広くて閑静な物だった。
その広くて閑静な場所に立っているのはナイフ片手に呆然とする少女ことスズカゼ。
彼女をここまで案内したリドラはさっさと第二街へと帰って行ってしまったのだ。
あの野郎、後で絶対殴る。
「……」
だが、実際はリドラの言った通りだった。
この街には本当に何も無い。
ゴミを捨てる余裕すら無いと彼は言っていたけど、本当にそうなのだろう。
立ち並ぶ街並みも一見すると美しく見えるが、そうじゃない。
装飾も何もない、ただ本当に雨風を凌ぐためだけの家なのだ。
どうにか、ギリギリで生きていけるライン。
それを体現したのがこの街なのだろう。
「……いや、それよりも」
そうだ、ここでボーッとしてる暇はない。
放り出されたのは仕方ないし、彼女はこの状況を、この差別を看過する事は出来ない。
聞けば暴動は割と近くで行われているそうだし、様子を見るだけでも……。
「おい、あれ人間だぞ」
「人間だ! 人間だぞ!!」
「捕まえろ!!」
見たかったなぁ、様子。
《第三街西部・廃墟》
「……どうだ、ハドリー」
そう呟いたのは片目に包帯を巻き、腰に刀を携えた一人の男だった。
豹のような外見だが人型で、全身を漆黒の体毛に覆っている。
衣服は軍服に近く、如何にも戦士といった人物だった。
「駄目ですね。やっぱり進展はない」
彼の前に座っていた、鳥の獣人。
ハドリーと呼ばれたその女性は顎に手を着きながら声を零した。
彼女は外見上は人に近いが両手には鳥らしい翼を有している。
「ジェイド、やっぱり無理があります。人間がこんな事で動くとは思えません」
「それでも抗うべきだ。良いと思うのか? 我々が永久にこんな扱いを受けて」
「ですが、このままでは人間もこちらを危険視するばかりで……」
直後、彼等の居た廃墟の扉を蹴破って数名の人物が入ってきた。
ジェイドと呼ばれた豹の獣人と鳥の獣人であるハドリーは互いに視線を交差させて扉の方へと向かって行く。
「何事だ」
「り、リーダー……!」
扉の前に居たのは全身傷だらけの猿の獣人。
彼は片手を押さえたまま右足を引き摺って廃墟の中へと入ってきた。
「何があった? その傷はどうした?」
「人間……、人間です……!」
「……恐らくサウズ王国騎士団のゼル団長かと」
「またあの男か……! 俺が行く。ハドリーはこいつを手当して」
ジェイドの声を遮ったのは、一人の人間だった。
手には長い木の棒を持ち、衣服は見た事もないような柄。
ハドリーの目に映ったのはその人物の容姿よりも、その者の手に引き摺られる二人の獣人の姿だった。
「こ、こいつです! こいつが俺達を!!」
「ゼル団長じゃない!?」
「何者だ、貴様」
ジェイドは漆黒の中に埋まる鬱金色の瞳を鋭く呻らせる。
獣らしく牙を剥きだしにし、彼は刀の柄に手を掛けた。
それに対し扉から入ってきた人物は引き摺っていた二人を離し、地面へと落とす。
そして伏せていた頭を上げ、大きく息を吸い込みーーー…………
「ホンマふざけとんちゃうぞ!! 何で急に襲ってきとん!? 常識ってもんがないん!? オドレ等の頭ん中にゃしいたけでも生えとんのかァアアアアア!!!」
と、怒りの言葉を喚き散らした。
呆気にとられた三人の獣人は口を閉じることを忘れ、ただ呆然と少女の姿を目に映す。
叫び終わったその少女は大きく方を揺らしながらぜぇぜぇと息を切らしていた。
「き、気を付けてくださいリーダー!! この女、馬鹿みたいに強いんです!!」
「何? こんな小娘に負けたのか」
「だ、だって……!」
「大馬鹿物が。こんな小娘一人に手間取っておいて、何が我々の地位向上だ。……だが、ここまで来させたのはよくやった。小娘でも人間だ。交渉材料になる」
「リーダー……!」
「ハドリー。お前の言いたい事も解るが形振り構っている状態では無い。こんな小娘でも材料となるならば喜んで人質に……」
「おい」
「む?」
「お前、何ぞや勘違いしちょっとらんか?」
「しちょ……、何?」
「キレた。私キレたけぇな」
木の棒を握り締めた少女は。
ナイフを持たされ暴動地ど真ん中に放り出された少女は。
暴漢に教われるも容易く返り討ちにした少女は。
「お前等、ちょい付き合えや」
自分を置き去りにした男よりも、さらに悪どい笑みを浮かべていた。
《第三街東部・住宅街》
「止まれ貴様等ァ!!」
ゼルの怒号は獣人達の暴徒達には届かず、彼等は各々が凶器を持って騎士団へと突撃してくる。
その数は優に百を超え、ゼルの視界は最早、暴徒達に埋め尽くされていた。
彼率いる騎士団達は帯剣こそしている物の、その手に持っているのは暴徒鎮圧用の木刀だ。
しかし、この数を相手に木刀ではいつか押し切られてしまうのは目に見えていた。
「団長! 剣の使用許可を!!」
「駄目に決まってんだろ! 獣人でも俺達が守るべき国民だ!! 殺す事は許さん!!」
「しかし! この数では!!」
「俺が出る! テメェ等は第二街の門を守ってろ!!」
「無茶です! 幾ら団長とは言え……!!」
「良いから黙って言う事聞いとけ!! この数相手するにゃ骨が折れる!!」
「……ッ! 了解しました!!」
数十人の騎士を撤退させ、残ったのはゼルただ一人。
彼の前には津波が如く押し寄せる暴徒の波。
逃げ道は無く、住宅街に挟まれたそこは一本道。
「ここを通りたいなら俺を倒していけ……!」
ゼルは木刀を持った右腕を首元へと回し、同方向の足を開けて半身の体勢を取った。
要するに野球でバッターが構えたような状態だ。
彼はその構えのまま、自らの二の腕で口元を押さえて呼吸を整える。
迫り来る暴徒の波は、既に彼の数メートル手前まで迫っていた。
その波は自分達の前に居る人間など関係ないと言わんばかりに、勢いを弱めることなく突貫してくる。
ゼルはその大波に対し、一歩も動くこと無く呼吸を整え、そして
「ゥおらァアアアアアアアアッ!!」
全力で刀を振り抜いた。
轟音と共に爆風が巻き起こり、正しく水面に刀身を打ち付けたかのように人波は引き裂かれる。
大波の中心を斬撃波が走り抜け、そして一気の最後尾まで切り抜いた。
獣人達は落ち葉や鳥の翼と同じように、いとも容易く通路の両端へと分断されたのだ。
「……ふーーーーっ」
木刀を振り切ったゼルは大きく息を吐き、右手を伸ばしきっていた。
彼の右手からは水蒸気のように煙が吹き出ており、ゼル自身も酷く息を切らしていて、かなり疲労しているようだった。
そんな彼の姿を大波の中に居た一人の獣人が指差して叫び出す。
「ゼルだ……! ゼル・デビット!! 王国騎士団、団長だぞ!!」
誰が叫んだかは解らない。
だが、その叫びは人波の中に広がり始め、やがて全体の端から端まで行き渡る。
彼、ゼルの名はその存在だけで意味があるのだ。
このサウズ王国において最強の男、ゼル・デビットの名前は。
「くそっ! またか!!」
ゼルの存在は最早、暴動の鎮圧とイコールで結びついている。
今まで幾度となく行われてきた、差別に対する暴動。
それの勃発回数の半分は彼が止めた回数と結びつく。
今となっては、獣人達の中でゼルという人物は暴動以前の障害物でもあるのだ。
「失せろ獣人共! 暴動など起こして何になる!? さらに貴様等の立場を悪くするだけだ!! このままでは本当に街から追い出されるぞ!!」
ゼルの言う事も尤もだ。
このサウズ王国では既に獣人を街から追い出せという意見が多く見られる。
だが、一部の獣人擁護派がそれを抑えている為にまだ意見は可決されていない。
そんな中で暴動など起こして一般市民の住む第二街に被害など与えれば擁護派の立つ瀬も、その意見に賛同する物も居なくなってしまう。
彼等が行っているのはただ自分の首を絞める行為でしかない。
「……解っている、そんなこと」
分断された波の中で、誰かが小さく呟いた。
だがその小さな声は大きな波の総意でもある。
獣人達とて、馬鹿ではない。
ゼルの言う事など百も、千も承知なのだ。
自分達の立場は絞首台の上も同然。
そして、自分達の行いは己から首に縄を掛けているのも同然なのだろう。
「だが、このままで何になる!?」
獣人の扱いは、最早、家畜に等しい。
死なない程度に、生活とは呼べない程度に。
彼等はそのラインで生かされ続けているのだ。
そもそも獣人は人より身体能力が高く、獣により近い者は空を飛べるし、地も駆けられる。
自分で食料も得られるし、人と殺し合えば血肉を裂き、首をはねる事も出来る。
つまり、生存能力としても戦闘能力も人間より遙かに高いのだ。
食物連鎖で言ってしまえば人間の上部存在とも言えるかもしれない。
だが、その獣人がどうして人間の支配下に置かれているのか。
それは単純に獣人の半分が獣だった、という事だ。
食物連鎖の中で最も互いに喰い殺し合う存在は何か。
それは、獣だろう。
獣人は生物としての本能故か、互いに争い、互いに殺し合っていた。
だが人間は[協力]という名の元に社会を形成していったのだ。
闘う事しか脳のない獣と、協力し団結する事の出来る人間。
どちらが生物として発展していくのか、どちらが社会という存在の中で上位の存在に立てるのか。
そんな事は考えずとも解る事だ。
「我々はっ……!!」
だが、それは結局のところ先人の話だ。
今を生きている獣人達に、これから生まれて来る獣人達には関係ない。
今現在も続いている差別に彼等が反対するのも当然のこと。
彼等がその差別に甘んじず、暴動を起こすのも必然なのである。
「充分な食料さえも与えられず! 豚舎のような家に押し込められて生きていかなければならないのか!? 豚のように太らされる事もなく!! ただ己の力を封じるために痩せ細らされ続けるのが運命なのか!? 認めない、我々はそんな事を認めない!!」
誰かの叫びは波の中に波紋となって広がり、大波の進行は言葉となってゼルへ押し寄せる。
彼は歯を食いしばり、歯茎が充血し首元に青筋が浮かび上がるほどに全身を力ませた。
「耐えろ……!!」
彼が、腹底から湧き上がるマグマのように吐き出した言葉。
その言葉は大波の中に巻き込まれ、消え去る物などではない。
波を焼き尽くし、その流れ自体をも殺す業火の雫だった。
「耐えろ! いつしか流れは変わる!! いつか、いつかは解らん!! だが未だかつて、人間の文明の一端でさえも!! 永久に続いた物などない!!」
彼の吐き出した業火の雫は業炎の渦となり、獣の波を喰らい尽くす。
だが、所詮は炎でしかない。
炎が幾ら水を喰らったとて、いつかは自然元素の元に煙と化してしまう。
「それは、いつ?」
その言葉を吐き出したのは、波の遙か端に居た片手に収まる程の赤子を抱えた獣人だった。
人間の赤子に比べ、その赤子は驚くほどに小さく痩せ細っている。
痩けた皮膚の下からは骨の形が解るほどに、だ。
「それは、いつなの?」
獣人の母親は赤子を必死に抱きしめて、今にも擦れ落ちてしまいそうな声を必死に絞り出す。
赤子は年相応の鳴き声を上げることもなく、だらんと腕を垂らして擦れた息を吐き出しているだけだ。
「それは、私の子供が生きていられるまでに訪れるの?」
母親は涙を流し、声を震わせて、足を折って、膝を突く。
彼女は栄養失調により、もう乳が出ないのだ。
子供に飲ませる人工の乳はこのサウズ国では高級品ではない。
だが、それを獣人に売る商人が居ないだけだ。
いや、居たとしても彼等がそれを買う金があるかどうか。
「俺達は毎日毎日、安い、鳥の涙もないほどの賃金で働かされているんだぞ……! 毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日ッッ! 毎日だ!!」
全身を傷だらけにした若い獣人も、己の不満をブチ撒けるように言葉を吐き出した。
それに続いて杖を突いた老齢の獣人も。母親の手を持った幼少の獣人も。
彼等の不満は、彼等の不自由は波の中に広がって、ゼルの小さな灯火を掻き消していく。
彼等の不満と不自由はもう、我慢や忍耐で耐えれる物ではないのだ。
それを堰き止めていた堤防は既に決壊していた。
ただ、その不満と不自由を堰き止めていたのが獣人擁護派の存在だった。
微かな希望。
それは彼等にとって、木の枝の先に灯った焔よりも微かな物だったのだろう。
だが、それは微かで、儚くても、確かに希望だった。
「ゼル団長……! アンタが俺達を庇ってくれてるのも、貴族の中にも俺達を庇ってくれてる奴等が居るのも知ってる!! だけど、もう限界なんだ!! もう耐えきれない!!」
「何が出来る……! 腹を空かし、痩せ細った獣人に……!! ただ暴れるだけで国が変わるとでも思うのか!?」
「黙っていて変わるはずもないだろう!?」
けれど、その希望は。
余りに微かで、儚さ過ぎる。
頼り、縋るには、余りにも。
「時を待てと言っているんだ! 必ず、貴様等の待遇を変えてみせる!! 今はまだ王国内にも否定派が多いだけでしかない!! 必ず、必ず変えてみせる!! だから!!」
「その時まで待てないと言っているのだ。ゼル・デビット」
分断された大波の中心を駆け抜け、白銀の刃を煌めかせた漆黒の獣。
その獣人は一直線に、矢が如き速さで、白銀の一撃をゼルへと撃ち込んだ。
ゼルはその一撃をどうにか木刀で受け止めたが、木が真剣に勝てるはずも無く、両断されたそれは空中へと舞い上がる。
「ぐっ……!」
ゼルはその場に留まる事無く、全力で後退。
だが、漆黒の獣人はその後退を許さないかのように第二撃を撃ち込んでいく。
刃はゼルの右脇腹から上方へ切り上げられ、彼の衣服へ切っ先を切り込ませる。
しかし、ゼルは全力で歯を食いしばって、甲冑に包まれた右腕を刀剣に打ち付けた。
火花と金属音が鳴り響き、ゼルの甲冑は砕け、刀剣は弾き飛ばされる。
完全に甲冑が砕けたゼルの右腕を守る物は薄布の衣服だけ。
獣人はそれを狙ったかのように、同箇所にもう一撃を叩き込んだ。
「ッらァ!!」
しかし、ゼルはその一撃を先程と全く同じように弾き飛ばした。
彼は薄布一枚しかない腕で真剣の一撃を往なすどころか、弾き飛ばしたのである。
「……流石だな」
漆黒の獣人は数歩下がり、ゼルへと称賛の言葉を吐き捨てる。
右腕を押さえたゼルはその言葉に反応するでもなく、ただ漆黒の獣人へと憤怒の双眸を向けていた。
「やってくれるじゃねぇか……。ジェイド・ネイガー」
ゼルの深緑の瞳に映るのは、漆黒の体毛と黄金の隻眼。
白銀の刀を有したのは黒豹の獣人、ジェイド・ネイガー。
この第三街に居を構える獣人で唯一、ゼルと闘う事の出来る存在だ。
「リ、リーダー……!」
「すまない、待たせた」
倒れ込む最前の獣人に対し、ジェイドは視線を向ける事無く謝罪の言葉を述べる。
つい先程まで絶望に染まりきっていた獣人達の表情は彼の登場と言葉によって、段々と希望の色を取り戻し始めていた。
「畜生、また服が一枚駄目になっちまった」
一方、ゼルは刀剣の一撃により破れた衣服の右腕部分を乱暴に剥ぎ取り、道端へと投げ捨てた。
引き裂かれた薄布と、その下にへばり付いていた何かははそのまま風に連れ去られていく。
だが、通路に腰を落としていた獣人達も、彼と対峙するジェイドの視線もそんな物には向いていない。
「やはり、義手か」
衣服を剥ぎ取っただけではない。
ゼルは衣服と同時に、自らの皮膚も剥ぎ取ったのだ。
いや、正しくは自らの、ではなく。人工の皮膚を。
「どうしてくれるんだ。この皮膚、一回のメンテだけでも10万ルグはするんだぞ。張り直しにゃ四十万は吹っ飛ぶ」
剥き出しになった義手は現代で言うロボットの腕によく似ている。
様々なパーツが重なり、組み合わさり、そして結合しているのだ。
人体の筋肉と骨を機械で構成したかのようなその義手。
彼はそれを何度か動かして機能がまだ無事に働いていることを確認した。
「それは失敬したな。では次は義手の修理費も追加してみるか」
「馬鹿言え。これ以上やったら本当に俺が死ぬわ。財政的に」
ゼルの義手は普通の手と変わらない動きで、彼の腰元へと伸びていく。
義手が掴んだのは、暴徒鎮圧用などではない本物の剣だった。
木刀だからこそ先程の攻防はジェイドが競り勝った。
しかし、真剣ならばどうだろうか。
木刀ですら獣人の大波を切り裂くような男だ。
どちらが劣勢になるのかは戦ってみなければ解らないだろう。
だが、獣人達の心の中には、間違いなく微かな不安があった。
「……ククッ」
だが、そもそもジェイドからすれば劣勢だの優勢だの、そんな事はどうでも良いのだ。
もう時間稼ぎは充分。戦う理由など何処にもない。
「何がおかしい?」
ジェイドは刀剣を持たない左手を空へと掲げ上げた。
太陽を貫くように掲げられたその左手の指し示す先。
「……な」
ゼルは思わず言葉を失った。
空に飛空している獣人に抱き抱えられているのは、間違いない。
自分の邸宅で軟禁しているはずの、スズカゼだ。
「何であの小娘が……!!」
おかしい。
邸宅ではメイドとリドラが見張っているはずだ。
どうしてこんな所に居る?
「さぁ、退いて貰おうか。ゼル・デビット」
「テメェ……!!」
「あの人間を見捨てることが出来るかな? 騎士団長様よ」
ジェイドは白牙を剥きだし、口元を歪ませる。
だが、彼の言葉はゼルの耳には届いていない。
彼はジェイドに対して向けていた剣の切っ先を何処に向ければ良いか。ただそれだけを思考していた。
スズカゼは精霊か人間かも判明しておらずで、この王国の民ではない。
ならばこの場で殺して暴徒鎮圧の任に戻っても、何ら問題はない。
ない、ない、ないはずだ。何も、問題は。
「……それで、良いはずがねぇだろうが」
ゼルは剣を鞘へと仕舞い、顔を伏せて歯を食いしばった。
スズカゼをここで殺せば自分の立場などという小さな話では済まなくなる。
端から見れば獣人は人間を人質に取り、死へと至らしめた完全な害悪の存在となってしまう。
そんな存在を嬉々として優遇するような人間が、国が、何処にある?
そんな事になれば彼等はこの国から追い出されるだけで無く、本当に世界の中に居場所が無くなってしまう。
それで、良いはずがない。
「……着いてこい」
時は、まだなのだ。
ゼルは自らの言葉を思い出し、苦虫を噛み潰すような思いで踵を返した。
時は、まだなのに。
彼等が認められるときはまだなのに、彼等は時を手にしようとしている。
存在しない概念を掴むなど、誰が出来ようか?
「あぁ、感謝するよ。ゼル・デビット」
ジェイドはゼルの後について歩き出し、獣人達の波も何を言うでもなく立ち上がって彼に着いて歩き出した。
上空の、太陽の下では縛り上げられた少女を運ぶ獣人の、ハドリーの姿があった。
彼女は頬に大粒の汗を伝わせながら、自分の手元にある少女へと視線を落とす。
「……こんな方法が正しいのですか、ジェイド」
ハドリーの声は、酷く悲しそうな物だった。
それは自らの過ちに気付いているのに、それを止められない者の声。
ジェイドの思いを知っている彼女だからこそ、ただ。
頼りない自分の声に縋るしか、なかった。
読んでいただきありがとうございました