竿持つ漆黒と卵持つ少女
《大森林》
「卵がぁーえっぐるーえっぐえっぐー。中身は何だろなぁー。ロリっ子だと良いなぁーって思うのよー」
「その悍ましい歌を止めろ、姫」
「あ、ジェイドさん」
小川の元で卵を抱える少女に近付く、漆黒の獣人。
彼の手元には前回よりかなり細目の竿と小さめの木籠があった。
恐らく彼なりの触手対策だと思われる。前回の犠牲者一名を出すような事件は起こしたくないのだろう。
尤も、これで対策になるかどうかは怪しい所だが。
「何が、あ、ジェイドさん。……だ。その悍ましい歌を歌うな。色々と恐ろしい」
「え? 私、何か歌ってました?」
「無意識だと……」
呆れながらも漆黒の獣人は少女の隣に座し、釣り竿の先にある針へと餌を付ける。
前回はノーライ茸の切り身で触手が釣れたので、今回は竜魚の刺身での挑戦だ。
小川なのだから然程の大魚は狙っていないが、小魚でも突くようなのが居れば釣れるだろう。
「釣り、好きですねぇ」
「実益を兼ね備えているからな。飯は得られるし精神統一は出来るし、最悪でも道具は現地調達出来る。これほど良い暇潰しもないだろう」
「本当に実益があるからかどうかは怪しい所だと思いますけど。前回のように触手は釣らないでくださいよ? あの触手、女性襲わないんだから」
「……女性を襲えば釣って良いと聞こえているような気がするが」
「え?」
「だろうな、そんな事だと思った。……だが、誰を襲うんだ? 天敵と飼い主以外、姫しか居ないが」
「……持ち帰りとか」
「元の場所に返してきなさい、だな」
そんな仔猫拾ってきた子供の母親みたいに言わなくても、とスズカゼは肩を落とす。
まぁ、実際のところ触手は監視役なども兼ねているようだし、動かしているのはイトーの魔力だ。
森から出してしまえば動かなくなり、やがてその姿を消すことになるだろう。
流石に別荘までは保つはずもないし、諦めるしかあるまい。
「マイ触手とかないかなぁ」
「何と恐ろしい事を言うのだ、貴様は」
釣り糸が微かに揺らぎ、水面に波紋を生む。
ジェイドの意識は一瞬だけそちらに傾いたが、やがてそれが小さな流木に当たった故の物だと解ると再び視線を小娘へと向ける。
当の小娘は卵を抱えながら流れゆく枯れ木に意識を奪われ、心ここにあらずと言った状態だった。
「しかし何だ、姫。ここ最近は激動の毎日だったが、少しぐらいは気も休まったか?」
「いやぁ、どうですかね。別に普段から急き急きしてた訳でもないし」
「そうは思えないが。偶にはこうして戦闘も腹芸もなく緩やかに休むのも良いではないか。退屈ならば釣りを楽しんでみると良いしな」
「まぁ、話聞いてるだけじゃ退屈ですけどね。これから必要な知識もあるだろうし」
「知識欲が出て来て何よりだ。この調子で宿題をだな」
「それは嫌ですけども」
「むぅ、溜まり溜まって一部屋埋まる程なんだが」
「どんだけ作ってんですか……」
下らない会話を繰り広げながら、彼等は小川のせせらぎに耳を傾ける。
透き通るような小川の中に魚の姿は見えないが、光の反射する水面の内には居るかも知れないし、岩陰に潜んでいるかも知れない。
成る程、水に糸を垂らしているだけではないのか、とスズカゼは頭の端で思考を巡らせる。
巡らせるとは言ってもそんな順々ではなく、くるんと一回転だけだが。
「……まぁ、傷が癒えて何よりだ」
「はぁ、どうも」
スズカゼの思考がここに無いように、ジェイドの心も釣り糸の先にも口先には無い。
彼の思考はある意味、一種の恐怖を実感していた。
とある騎士団長との語らいで決めた行く末が今、消え去ろうとしている恐怖を。
彼女が自己を防衛する為に残しておこうと決めた、殺意の本能が消えていく恐怖を。
「…………ふぅ」
本来ならば残しておくべきだろう。殺意も生き残るためには必要だ。
だが、彼女の身体を見れば一概に全て良いとは言い切れない。
殺意故か性格故かは解らないが、彼女は騒ぎに自ら飛び込んでいった。
そしてそこで必然的に戦闘を行い、傷を負う。
ーーー……その結果がこれだ。血を吐き、腕を折り、臓腑を潰し。
その間際まで行く。これが、結果。
良しとすべきなのか? このまま置いておくべきなのか?
正直言って、イトーであろうとも彼女の内面は変えられないだろう。
傷は完全に癒やすはずだ。その腕がある事は重々承知している。
だが内面は違う。彼女の内面を癒やす事が出来る人間など、獣人など居るはずがない。
リドラのような[例外]は駄目だ。イトーのような[異端]は駄目だ。自分のような[化け物]は駄目だ。メイアのような[何か]は駄目だ。
ハドリーや、デイジーとサラのような存在は駄目だ。ゼルのような[何か]は駄目だ。ファナのような[異端]は駄目だ。
駄目だ、駄目なのだ。
スズカゼのように普通ではなく例外でもなく異端でもなく化け物でもない、[何か]でなければ駄目なのだ。
「……だが、だ」
その[何か]も存在しない。
メイアは違う、彼女とはそもそも存在性が違う。
例えるならば白と黒。否、余りに濃過ぎて白と黒すら超えた物だ。互いに表す言葉すら無い[何か]だ。
その対極的な[何か]同士が理解し合えるだろうか? 互いに[何か]であるという点ならば理解し合える事も可能だろう。
だが、それだけなのだ。ただ、それだけでしかないのだ。
「なぁ、姫よ」
「何です?」
「……もし自分のやりたい事があるとして、そんな事とは関係なく周りの人間が全てを決めて全てを進めていったらどうする? 姫の思考思惑など関係なく全てを勝手に進められたのだと、したら」
「嫌ですね。絶対嫌です」
「何故だ?」
「だって、それ死んでるじゃないですか」
「死んでいる?」
「人形みたい、って言うか人形ですよ。そんなの、生きてるとは言えません」
「……そうか」
釣り糸が揺れ、静寂の水面をかき混ぜる。
彼等の会話はそれを境にかき混ぜられ、余りに静かで冷たい騒音の渦へと飲まれていった。
漆黒の獣人はその騒音とも呼べない騒音を消そうとはせず、敢えてそのまま置いておく。
少女も始めは引き付けているのかと黙っていたが、遂に引かれない糸に痺れを切らして獣人に向けて口端を上げた。
「姫は、強過ぎるが故に弱いのだな」
ぷつりと糸が切れ、かき混ぜられていた水面は静寂を取り戻す。
それは彼の言葉の終わりと意識の途切れを指し示していた。
竿を仕舞い、針を箱に入れて、彼は軽く脚を伸ばす。
「寝る。何か用があれば呼んでくれ」
「え? あ、あぁ、はい」
スズカゼは暫しその場に留まった後、気まずさ故かイトーの家へと戻っていった。
残された獣人は微かな寝息を立てながら、牙の隙間より寝言を零し出す。
雫よりも吐息よりも朧な、寝言を。
「溺れるなよ……、姫」
雫よりも吐息よりも朧な寝言を聞く者は居ない。
やがて空の中へ消えていく朧は自身の耳にすら届きはしないのだろう。
いや、或いは。
本人すらも届かせたくなかったのかも、知れない。
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