平穏な小川の元で
「う、ぁー……」
ベッドの中で天井へと手を着き伸ばしながら、小脇に卵を挟んだ少女は唸り声を上げる。
手を伸ばしたと言っても眼前の壁を掴もうとしている訳でもなく、目の前の羽虫を払おうとしている訳でもなく、毎朝のように布団に潜り込んでくる変態を掴みだそうと言う訳でもなく。
ただ、肩から指先に掛けてまでの感触を確かめる為に。
「痛く、ない」
[森の魔女]の家へ来てから一週間が経ったと思う。
その間は全て傷の治療と紋章の解析に当てられた。
思う、というのは毎日が同じ事の繰り返しだったからである。
朝起きて変態を摘み出して朝食を食べて傷の治療を受けて昼食を食べて傷の治療を受けてぐーたらして夕食を食べてぐーたらして入浴して風呂に入ってくる変態を摘み出して寝る。
治療というのだから、これぐらいは当然だろう。
尤も、イトーが態と治療を遅らせていなければもっと早く終わっていただろうが。
「順調なようね」
「いや、前に生き返らせて貰ってるぐらいですし。……でも、イトーさんならもっと早く治せるんじゃ?」
「治せるけど、ちょっと調整がねー。貴方の心の問題もあるし」
「心?」
「気分が高揚してるの。謂わば興奮状態ね。濡れてる?」
「濡れてないです。興奮状態って言われても、別に興奮なんか……」
「深層心理の中で、ね。この前は真っ白な下地を例えに出したけど、今の貴方はその下地が真っ赤に染まってるような物なの」
「興奮の色、と」
「そうね。私の興奮の色は桃色よ」
「それ別の興奮ですよね。……ってか、ちょくちょく挟んでくるネタのせいで会話が進まないです」
「私達みたいなのがネタ挟まないと他の面々が挟まないのよ」
「解らないでもないですけども」
イトーはベッドより飛び出て、てくてくと扉へ向かって行く。
その後ろ姿は明らかに子供のそれだと言うのに、内面は変態塗れなのだから想定どうこうの話ではない。
取り敢えず自分もいつまでも寝ていては治療が進まない。内面治療というのはよく解らないが、イトーに任せておけば問題はないだろう。
全体的には流石に無理だが。
「おっと」
スズカゼは上半身を起こそうとして、片手に金属の感触を感じる。
何だろうかと視線を向けたその先にあったのは豪華な鞘の姿だった。
「魔炎の太刀……」
思えば暫くこれの刃を太陽の下に晒していない。
訓練も何も無いのだから当然だ。前回の定期手入れの時以来、一度も抜いてないような気がする。
……そうだ。傷が治ったらこの太刀を抜いて姿を確かめよう。何度も世話になったのだから、また振れるようにも練習しよう。
大切な太刀なのだから、また是非とも満足に振れるようになりたい物だ。
まぁ、今でも振れるだろうけども。ただし吐血する。
「あ、そう言えば!」
「ん、どうしたんですか?」
「生える薬の実験まだなんだけど……」
「嫌ですからね」
《大森林》
「ここに居たか、ジェイド」
「リドラか」
大森林の中に通る澄んだ小川。
その小川の水面には白銀の糸が垂らされており、流れに沿って揺らぎを見せている。
尤も、その揺らぎが獲物による物ではない事は空っぽの木籠を見れば解ることだ。
「居心地が悪いのか、ここに逃げるほど」
「当然だろう。四天災者と魔女に囲まれて心地よい物か」
「違う。そんな事を言ってるんじゃない。そんなのは私もそうだ」
ジェイドは黄金の隻眼に水面を映す。
そう言えば嘗て似たような語らいを騎士団長としたな、と思い出しながら。
彼は軽く、息を吐いた。
自分も随分甘くなった物だ。鉄仮面など疾うの昔に脱ぎ捨ててしまったのか。
それを望んだのが自分であれども、失うのは何処か虚しく感じる物がある。
闇夜に浮かぶ月など、所詮は沈む物という事か。
「気持ち悪いな、ここは。変態的な意味ではな……、変態的な意味でも」
「言い直す気持ちは解る。だが、それ以上の物があるだろう? 嘗て[闇月]と呼ばれた貴様だからこそ、魔力解析の実験を行った私だからこそ気付ける物があったはずだ」
「……[魔創]も、気付いているのか」
「気付いているからこそスズカゼを連れてきたのだろう。こんな魔力の淀んだ場所に」
リドラはそう述べた後に訂正しようと口端を開くが、大方間違っていない事を理解して声を止めた。
淀み、ではないのだろう。停滞か、貯留か。
如何にしてもこの大森林の中には余りに魔力が堪りすぎている。それこそまるで、時間を止めたかのように。
「紋章が原因なのか」
「違うな。前回と同じ感触からして、間違いなくこの森の特性だろう。いや、或いはイトー・ヘキセ・ツバキという人物の特性なのかも知れない」
「森の魔女の事だな。特性とはどういう事だ?」
「魔力を吸収する特性、という事だ。彼女とは古来の知り合いだというメタルに聞いたのだが、イトー殿は数百年を生きて居るらしい。あの腕を見ればそれが事実なのだろうという事ぐらい解る」
「本当の意味で不死、か」
「どうだかな。だが実際、彼女が異端である事に間違いはないだろう。そして、この森の状況もな」
「もし仮にだが、その二つに関連性があったとして……、貴様はどうするつもりだ?」
「どうする、か……」
どうする、と言われても、どうしようもない。
解りきった事だ。自分はいつも受け身でしか無いのだ。
眼前の男のように、誰かのために王城に乗り込むような事はない。
そもそも力を持たない自分に出来る事など高が知れているのは自覚している。
親友の様に山を斬り飛ばす力も、眼前の男のように一国に喧嘩を売れるような力も、あの女性のように人を生き返らせる力もない。
だが、これで良いのだ。誰かを支える主柱になれずとも、小さな柱であれば良いのだ。
甘んじている訳ではない。いや、むしろーーー……。
「……どうした? リドラ」
「いや、少し思い出していただけだ。自分の過去を」
「過去、か。そう言えば貴様の過去は余り聞かないな」
「その内、解る事だ。こうも揺れ動く世の中なのだから、いつか必ずな」
リドラの言葉にジェイドはそれ以上追求を行わなかった。いや、行えなかった。
自身にも過去はある。一度は捨てようとした過去が。
ならばこの男も何かを持っていたとしても何ら不思議ではないだろう。
誰でも過去を持っている。それが如何なる物であれ容易く踏み込んで良い物ではない。
「……そうか」
ならば、同調しよう。敢えて首肯しよう。
この男の過去が明るみに出たとき、それが彼の決意の時となるのだろうから。
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