宝石を汚す濁流
【トレア海】
《海賊船・船長室》
蒼い宝石の中に浮かぶ一つの異点。
波紋を生む異点の中の、さらに小さな部屋には二つの人影があった。
その中の一つは部屋隅の水桶の前に膝を突き、手には白い布を持っている。
「……どうしたんですか、船長」
「うるせぇ、黙ってろ。殴るぞ」
執拗に何度も顔を拭き取るカイリュウに、もう一つの影が声を掛けた。
まぁ、ご覧の通り結果は不機嫌な八つ当たりが向けられただけだが。
もう一つの影、カイリュウ海賊団の船員はそうですか、と何処か怯え気味に声を返す。
再び何か言いかけた船員だが、カイリュウの表情を見て諦めて踵を返した。
すごすごと去るその背中には怒らせると面倒なんだよなぁ、と言うような雰囲気がある。
彼は結局、その雰囲気を纏ったまま、部屋から出て行った。
「ったく、あのクソガキが。人の顔に何つーモンを……!」
ある意味で特大級の爆弾を投下された、基、吐下されたカイリュウ。
彼は何度拭き取っても無くならない感触にひたすら苛ついていた。
嘗てはトレア王国一の悪ガキと呼ばれた彼でも吐瀉物を吐きかけられた事はない。
殴られた事も蹴り飛ばされた事もあったが、それを行った連中は全て平伏せさせてきた。
今回の小娘もそうだ。
自分の顔面に吐瀉物をぶっかけた後は勝手に気絶したのでーーー……。
「おっぱい……」
こうして船まで連れてきた訳だが。
それにしても、コイツは何つー寝言を漏らしてんだ。
「ったく、今回は[潰す]だけだったはずなのによォ……」
不満を漏らすカイリュウは自らの座椅子に腰掛け、顔を絹布で拭く。
顔面に微かな熱を感じながら、彼は眼光を鋭く尖らせる。
「ちっ……」
そう、今回はただ[潰す]だけの簡単な作業だったはずだ。
それが、どうしてこうも面倒な事になる?
この小娘は、このクソガキは東の大国のお偉いさんってヤツだ。
何でそんなヤツが戦いに出て来てるかは解らないがーーー……、現にこうして倒して、と言うか倒れられてしまった以上、そこは大きな問題ではない。
先の兵隊もそうだ。今までは馬鹿みたいに突っ込んでくるはずだったのに、今回は的確に壁を作って俺達を逃す事に専念していた。
恐らく指揮官が替わったんだろう。そうでもなけりゃ、あんな動きはしないはずだ。
面倒だ、果てしなく。
クソガキに正体に解らねぇ指揮官。
順当に考えりゃ、恐らくその指揮官はこのガキの護衛……。
となれば、取り返しに来るのが普通だ。
「手放すか……?」
手放せば東の大国を丸々敵に回すことになる。
無傷で手放してハイ終わりなんて事はないはずだ。必ず報復はある。
ならば盾にするか? 自分達に手は出させないよう契約を結ばせてから、手放すか?
いや、それでも精々、時間が延びる程度だろう。
或いはさらに酷い報復が行われるかも知れない。
「……全部、バラせば」
彼は一瞬だけ脳裏を過ぎった考えを払うように首を振る。
駄目だ、それだけは。全てが無駄になる。
これは自分達が行い、自分達が解決し、自分達が片付けることに意味がある。
[お偉いさん]が絡んでしまっては意味が無くなってしまう。
「どうすっかなぁ」
現在、船はトレア王国から数時間近く移動した場所にある。
追っ手は視認する限り無いし、諦めたとみるのが妥当だろう。
諦めた、と言ってもそれは一時的な物だ。
そう遠くない内に東の大国の大隊が攻めてくるだろう。
「顔を見られた訳じゃねぇ……。最悪、逃げるか?」
本当に、それは最悪の手段だ。
もし実行すれば今まで下積みしてきた全てを失い、目的すら達成させられないのだから。
最悪の誤算は唯一……、このクソガキの存在。
全く、海に捨てて始めから居なかった事に出来ればどれほど楽だか。
「……どうしようも、ねぇかなァ」
《船庫》
「誰これ」
「いや、知らん」
今回の強奪品を確かめていた彼等だが、その中に一つだけ見知らぬ物があった。
鉄鉱石や木々が入った木箱に食物の入った木樽、武器や防具の入った布袋。
そして[本来の目的]の中に混じっていた一人の男、だ。
「こんなボロボロの恰好してたから、そうかと思ったんだが」
「いや、見た目はボロボロだが実際はかなり良い生地だぜ? これ。かなり身分の高い奴なのか?」
「にしては……」
彼等の視界に映る灰黒髪の男は、お世辞にも身分が高いとは言えなかった。
外見どうこうより、纏う雰囲気が放浪者か浮浪者のそれにしか見えないのである。
荷物の中に埋まるように足をはみ出させている様子など、まるで酔っ払いではないか。
「どうするよ? 船長、呼ぶ?」
「いや、船長……、かなり不機嫌らしいぜ。こんなの紛れ込ませてたなんて言ったら、何言われるか」
「海に突き落とされるのがコイツじゃなくて俺達になるのか?」
「笑えないからな、それ笑えないからな」
【トレア王国】
《王城・広間》
海賊達が言葉を交わし合い、眼前の男の処置を決めようとしていた頃。
トレア王国の王城にある広間では、とんでもない騒ぎとなっていた。
「さ、サウズ王国第三街領主様が行方不明ぃ!?」
まぁ、当然と言えば当然だ。
自国に招いた、大国の伯爵が行方不明になったのである。
責任を問われれば弁解できるはずもなく、待つのは大国による報復のみ。
海賊側も海賊側で報復を恐れているが、こちらもこちらで報復を恐れているという事だ。
尤も、逃れる道が無いと言い切れる辺り、こちらの方が危機率は上だろうが。
「ぜ、ぜ、ぜ、ぜ、ぜ、ぜ、ゼル殿……! この度はははは、私達はななななな、何と言う失態をぉおおおおお!」
「落ち着いてください、ナランタ様」
奥歯を勝ちならしながら震えるナランタの肩に、ゼルは掌を置く。
後ろから見ればゼルの行動はナランタを落ち着かせるそれだが、真正面から見れば憤怒の男が一国の王の肩を掴んでいるようにも見えるだろう。
落ち着け、とは言っても、ゼル自身ですらこの事態を掌握し切れていないのだ。
「我々も冷静で居られる状態ではありませんが、スズカゼ・クレハ第三街領主を発見できなかった上、それに適した作戦を執らせなかったのはこちらの落ち度。貴方に責任はありません」
「しっ、しかし……!」
「貴方が今、成すべき事は取り敢えず落ち着くことです。頭がぐらぐらと揺れていては視界も定まりませんよ」
「へ、へぁい……」
気抜けた返事をしながら、ナランタは大きく息を吸って、吐く。
数度の深呼吸の後、彼はどうにか落ち着いたようで、ゼルに礼を述べた。
ゼルは彼の礼を謹んで受け取ると、一先ずは城内を落ち着かせるべきだと助言する。
彼のそれに従い、ナランタは急いで城内へと走っていった。
もう間もなく、この喧騒も止むだろう。
……だが、止まない物もある。
「こりゃ、面倒な事になるって度合いじゃねぇな」
面倒事という濁流は、宝石全てを呑み込んで流れ続ける。
宝石を抱える箱も、人も、国も、全てを巻き込んで。
その濁流を眺める男と、濁流を流す少女。
果たして彼等の行く末は、如何に。
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