水面で揺らぐ釣り針
【岩場】
「……で」
水面に釣り糸を垂らすジェイドは、呆れ気味にそう切り出した。
その呆れの原因となっている男も同様に、何処か面倒くさそうに、気怠そうに頭を掻いている。
辛気くさい彼等を嘲笑うように、小魚が釣り糸の先にある餌をちょこんと突いた。
「何の用だ」
「相談だ、っつってんだろ」
「相談か。何のだ?」
「……スズカゼについてだよ」
「恋事など知らんぞ」
「お前さては真面目に聞く気ねェな!? あんな小娘を好くぐらいなら、まだハドリーに行くわ!!」
「……我が仲間を侮辱するか」
「面倒くせぇ! コイツ面倒くせぇ!!」
「冗談は置いておいて、だ。貴様が俺に相談事など珍しいではないか」
「解ってたなら始めから言えよ……」
はぁ、と深くため息をついて顔面を押さえるゼル。
そんな彼などいざ知らず、ジェイドは相変わらず釣り糸にだけ視線を向けている。
実際の所、彼はスズカゼについての相談事など所詮、いつもの馬鹿騒ぎか先の会議での一件と思っているのだろう。
「俺の相談ってのは……、いや、むしろ経験談かも知れねぇんだが」
「どういう意味だ?」
「初めて人を殺した時、どう思った」
「……初めてか」
思いを馳せるように、ジェイドは空を見上げた。
雲一つ無い青快の空は彼の問いには答えてくれない。
だが、問いに答えるための足がかりだけは見ることが出来た。
「空が、青かったな」
「空ぁ?」
「空だ。……空が、青かった」
それ以上、彼は何も述べなかった。
ジェイドにとってそれは嫌な思い出でも良い思い出でも無いのだろう。
ただ一回限りの出来事。雨のように風のように嵐のように。
そこにあって、起きただけの出来事に過ぎないのだ。
「貴様こそどうなんだ。初めて人を殺したのは、やはり四国大戦か?」
「まだ俺が騎士団の下っ端だった時だな。殺されそうになったから殺った」
「まぁ、そんな物だろう。しかし、それが解っているならば何故、俺にそんな事を聞く? 大方、姫に人を殺すときが来るであるから、それを危惧しての事だろうが……」
「違ェよ。既に、だ」
ゼルが呟くと同時にジェイドは釣り糸を水面から一気に引き上げた。
細い糸が空気を裂き、ヒュッと音を立てる。
白銀の餌無き針はジェイドの漆黒の手の中に収まった。
「喰われている」
「あぁ、喰われてるな」
ジェイドはその針に再び針を付ける事は無かった。
糸を竿に巻き付け、自らの隣に置く。
彼はそうはしても、視線をゼルに向ける事はない。
「どういう事だ」
「模擬演習でスズカゼに殺されかけてな。……逆に負かしてやったが」
「先の、初めてどうこうはそういう意味か。死に取り憑かれた、と」
「あぁ、よくある話だろ? 初めての殺意を恐怖にしないために重ねて重ねて重ねて……、塗り潰す」
「だが、姫は誰かを殺した事などない」
「だろうな。だが、奴は俺を殺そうとした。……何の躊躇もなく」
「思い当たる理由など無いのだろうな、貴様の事だから。だが、だとすれば余計に厄介だろう」
「……聞かせてくれ、理由」
「殺意無く経験無く理由無く。殺そうとするならば、それは渇望だ。殺意を望み経験を望み理由を望む。……単純なのだよ。無い物を望むのだから当然で、単純だ」
「それの対象が俺だ、と?」
「模擬戦だったのだろう? ならば盤石のチェスのような話だ。幾らでも試せるし幾らでも渇望できる」
「……その渇望ってェのが、スズカゼがおかしくなった原因だと?」
「おかしくはないだろう。彼女は今まで少なからず危険に晒されている。現に貴族共のパーティーの時、彼女は死にかけている」
「強くなりたいという渇望……」
「その通り。自らを守りたいという理由からそれを渇望するのは何ら不思議ではないだろう」
「そりゃそうだが……、となれば原因はお前の言う通り、パーティーのアレだな」
「解るだろう。貴様は解決方法を望んでいるのだろうが……、そんな物はない。いや、あってはいけない」
「お前は肯定するのか? スズカゼが人を殺そうとする事を」
「肯定すべきだ。彼女には元来の強さがある。あの技術力は類を見ないほどに高い……。だが、それ故に力は無い」
「今までは技術力や感覚力で戦って来たスズカゼに力が加わればどうなると思う?」
「より完全な状態に近付くだろうが、それは所詮、人間の限界だ。化け物の限界ではない」
「……放置、が正解か? むしろ、お前の言う通りなら自衛力も高まるし歓迎すべき事でもあるな」
「だが、それは戦場へ彼女を進める事になる。即ち、自衛力が高まると同時に死亡率も高まるという事だ」
「死ぬか? あの小娘が」
「死なぬ生物など居ない。生きて死ぬという絶対の摂理は覆らないし、覆してはいけない。死ぬか、という疑問は我々が生きて居るのか? という疑問に等しいと思うがな」
「そりゃ、そうだが……」
ゼルは頭髪をぼりぼりと掻き毟る。
全ては自分の杞憂だ。それに超したことはないし、それが望ましい事であるのも解る。
だが、拭えない。拭いきれない不安がある。
「俺達はどうするのが正解だと思う」
「聞いてくれるなよ。……正解など知っていれば、この片目を潰すあの場所へ向かっていないさ」
漆黒の掌で竿を掴み、針先に餌を付けぬまま水面へと放り込む。
ジェイドの視界に映るのは弧を描く白銀で、それは嘗て自らに襲い掛かった敵達の事を思い出させる。
結局、その敵達も自らの紅色の中に沈んでいった。
スズカゼがそれらのように紅色の中に沈まない補償など、何処にあるだろう。
「俺も、お前も」
白銀の釣り針に魚は寄りつかない。
餌の無い刃に誰が寄りつこうか、死への誘いに誰が振り向こうか。
寄りつくはずなどないのだ。振り向くはずなどないのだ。
水面の中では殺戮の道具である、この白銀の釣り針を。
自分は彼女に持て、と言っている。
「愚かだな、俺達は」
「昔からだろう」
多く言葉を交わし合っても、結局、答えは変わらない。
彼女がいつか後悔すると知っていても、いつか身を滅ぼすかも知れないと思っても。
「ゼル、姫が貴様を殺そうとした事を貴様は恨んでいるのか?」
「まさか。アイツに殺される程度ならとっくに死んでるぜ」
「それは結構だ。……ならば、そうだな。いつか姫が危機に追い込まれたときに助けてやって欲しい、という事ぐらいは頼めるか」
「いつも通りだろ、そりゃ」
「……そうだな」
小波に揺られた張りは右往左往と揺れて、岩底に辿り着く。
脅威では無くなった倒れ刃は太陽の光に照らされて、水面の中から光輝いている。
それは魚達すれば、きっと宝石のように映ったのだろう。
魚達は物珍しそうにその釣り針に近付いていく。
「頼むぞ」
「お前もな」
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