闇の水面に映る二つの影
暗い。
この景色には、見覚えがある。
今まで何度か見た事のある、景色だ。
真っ暗で何も無い水面に自分は立っていて、その前から何かが迫ってくる。
初めて見たときは酷く慌てた物だけれども、今となっては何とも思わない。
もう既に何十、何百、何千、何万と見続けた、この景色に驚きはないのだ。
ぴちゃんっ
水面に雫が落ちて、鏡のようなそれに波紋を作り出す。
静寂を打ち崩すそれは、彼女にとって違和感を生む物だった。
眼前より迫り来る[何か]が、来ないのだ。
いや、こう言っては言葉に語弊があるだろう。
眼前より迫り来る[何か]が途中で止まって、それきり動こうとしないのである。
「動かないだろう」
いつの間にか、何十、何百、何千、何万と繰り返してきた[それ]に居なかったはずの、その人物は隣に居た。
自らの二倍はありそうな巨躯に丸太のような手足。
彼の渋みを含んだ声と、腰元で揺れる束髪には覚えがある。
「……オロチ」
「悪いのぅ。邪魔しているぞ」
「どうして、貴方が……?」
「何、今は壁が薄いから乗り越えてきただけのこと。普段ならば乗り込めぬよ」
質問の答えになっているようで、なっていない応答。
スズカゼは心の何処かでそれを感じ取ったのか、嫌悪気味に眉根を寄せる。
オロチは彼女の反応に対して、それを抑えるように掌を向けた。
「……阿呆め。こんな所に囚われおって」
「どういう意味ですか? ……こんな所に、って」
彼女の言葉は、そこで止まる。
こんな所に、何だ?
そもそも、ここは何処だ? 自分はどうしてこんな所に居る?
いや、違う。
自分は今まで何処に居た? ここではない、何処に居たのだ?
本来居るべき場所はここだ。ここが、自分の居場所のはずだ。
では、自分は一体、今まで何処にーーー……?
「ならんぞ、スズカゼ・クレハ」
彼女の思考を阻止したのはオロチだった。
重圧を掛けた訳でも、拳や脚を震った訳でもない。
ただ悲しそうに、ただ呟いて。
たった、それだけの事だった。
「ならん」
「……どうして、ですか?」
「ここは御主の居るべき所ではない。そう思い込んでいるだけだ」
この懐かしさも、暖かさも、美しさも。
全て、嘘だというのか?
彼は、これが全て嘘の存在だと言うのか?
「目を覚ませ。御主の目指すべき場所はそこではないだろう」
スズカゼの眼前に広がる、二つの光。
酷く悍ましく恐ろしいそれは、彼女を飲み込むように煌々と輝いている。
しかし、スズカゼはそれを愛おしそうに、ただ惚悦の表情で見詰めていた。
「それは闇の道ぞ」
「……ここは、何処ですか?」
「境界、心の中、命の終焉、地獄、天国、冥界、異世界……。名称は幾らでもある」
この世界のように無限の名称がある、と彼は言葉を付け足した。
確かに、この世界は何処までも無限に続いているように見える。
果てなどない、無限の闇に。
その闇が何処までも続くように、名称も何処までも続くほどあるという事だろう。
それはつまり、この空間が全ての中に存在する故に存在しない物である事も示す。
「……私は何処に居るべきなんですか」
その問いは心から望んで出した物では無い。
義務感だとか予測感だとか、そんな、得に理由もなく形式的に出した物だ。
その答えが何であれ興味も無く、従う気もない。
自分が居るべき場所はここだと信じて疑わないから。
彼女は既に、それを違和感としてすら感じていないのだ。
「御主が居るべきなのは××の世界で、××の国で、××の邸宅だ。尤も、今は聞こえないだろうがのぅ」
「……聞こえませんね、確かに」
「御主は長く、いや、深くここに居過ぎた。本来ならば扉に触れるだけだと言うのに、こうして足先まで沈めおってからに」
呆れ気味にそう述べたオロチは、スズカゼの片手をがっちりと握り掴む。
彼は間髪入れずにスズカゼを一気に引っ張り上げ、水面から足を引きずりだした。
スズカゼからすれば、その感触は酷く不快で恐ろしくて、苦痛を伴う物だった。
「あづッ……!?」
「我慢せい。ここに居続ければ闇に蝕まれ、消え失せるのみだ」
彼女は苦痛を放つ自らの足を見て、驚愕と恐怖に染まった、短い悲鳴を上げる。
そこには千切れて、消えてしまったかのように足が無かったのだ。
これでは、まるで幽霊では無いか。
「これ、は?」
「一部が呑み込まれたのだ。……本来ならば既に呑み込まれていようが、××との確かな繋がりがあったが為に、耐えることが出来たのだろう」
オロチの視線の先、闇の水面に浮かぶ一対の刀剣と白色の光。
一対の刀剣はベルルーク国で与えられた[魔炎の太刀]と、嘗て自分が使っていたただの木刀。
そして、白色の光は、ただ煌々と輝く存在だった。
「これが繋がり……?」
「武と情、と言った所かのぅ? 今の貴様を支える物だ」
「武と情……」
彼はそうは言うが、自分にそれらの見覚えはない。
一対の刀剣は、一対という事は解れども、どうして一対なのかは解らない。
そもそも木刀と真剣だ。自分はそれをどうして一対だと思ったのだろうか。
全く違う存在の、それらを、どうして。
「はぁ、全く。世話の焼ける小娘よのぅ」
オロチは困惑するスズカゼの頭部を、大きな手で掌握する。
掌だけでも彼女の頭ほどもある、大きな手だ。
それをどうするのかと小首を傾げた彼女は、直ぐさま驚きに目を見開く事となる。
「耐えぇよう?」
にやりと笑んだ彼は、折り曲げた中指を親指で押さえつけている。
拳にも似た、その掌と、押さえつけられた中指が示すのは一つ。
デコピン、である。
バチィィンッッッッ!!
凄まじい、それこそ壁に水風船を全力で叩き付けたような音。
音からも解るように、とんでもない威力のそれを受けたスズカゼはその場で二回転、三回転と吹っ飛ばされる。
水面を激しく揺らしながら漸く止まった彼女は、額を抑えながらその場を転げ回った。
「おづっ……! ぬ゛ぅーーー……!!」
激痛に悶えながら、スズカゼはそれを逃がすように足で水面を何度も蹴り飛ばす。
とは言っても水面が蹴り飛ばせるはずもなく、無様に波紋が広がっていくだけだ。
「んぁっ……! れぇ……!?」
気付けば、いつの間にか足が生えていたのだ。
比喩では無く、正しく足が出て来たのである。
原因と言って思い当たるのは先程の[アレ]しかないだろう。
「な、に、をしっ……!?」
「儂の魔力をくれてやった。一部だがな」
身体の奥底にある燃え上がるような[それ]の感覚。
懐かしい、いつか感じたはずの感触だ。
自分は何処でそれを感じ取った? 一体、何処で?
「……あ」
瞳に映るのは[魔炎の太刀]。
心の奥底に眠る恐怖と闘争心が蘇り、彼女の指先を震わせる。
そして、同時に木刀が一対となっていた事も理解出来た。
これ等はその用途と同じくして、自らの生命線の一つなのだ。
[武]とはよく言った物だ。
これこそは自らの存在意義の一つだったのだろう。
「……私は」
彼女の脳裏に蘇る記憶。
それは火花のように、微かな輝きを放つ。
だけれど、まだ弱い。
この闇を照らすには余りに弱々しすぎる。
「どうして、こんな所に居るの?」
その言葉は同じでも、先程とは意味が違う。
そうだ、自分が居るべきは,こんな場所では無いはずだろう。
自分が居るべきはサウズ王国の第三街だ。
第三街領主、スズカゼ・クレハとして。
「早ぅ戻れ。居て良い場所ではない」
オロチはそんな彼女を見て安堵したのか、微かに頬を緩めながらため息をついていた。
だが、彼のそんな表情とは裏腹に、彼自身の姿は段々と薄れていっている。
「そ、それ」
「御主が戻ったから、段々と接続が弱くなっとるんじゃ。……早く光に触れぃ」
彼は最早、興味など無くなったかのようにぶっきらぼうに言い捨てる。
そんな声色にスズカゼは少しむっとしたが、それでも自分を救ってくれたのは彼だ。礼は述べるべきだろう、と深く頭を下げた。
オロチはそんな物は良いから、さっさと帰れと再びぶっきらぼうに言い放つ。
スズカゼからすれば、それは何か知られたくない事を隠す姿にも見えた。
そんな事に気付いたからこそ、浮かぶ疑問。
「貴方は、誰なんですか?」
その問いに彼が答える事はない。
当然と言えば、当然だ。
嘗てのあの時だって、彼が明確な答えを出したことは無かった。
だが、あの時、つまりクグルフ山岳の時と今では状況が大きく違う。
ただの山とこの世界では、余りに異なるのだ。
「……強くなれ、小娘。御主がその時まで生きて居れば、いつしか相まみえる事もあろうて」
それが唯一の言い訳だった。
彼の何処か悲しそうで、それでいて嬉しそうな表情。
光に包まれていく意識の中、スズカゼはただ何とも言えないその表情だけを、視界に映していた。
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