闇に浮かぶ月、紅に沈む肉
「……これは、洒落にならないね」
フレースはその存在を前に、ただ冷や汗を背筋に沿わえる事しか出来なかった。
指先一本、眼球一つ、鼓動一回。
それらを動かす事にすら全ての精神を集中させなければならないかのように。
その刀剣を持ち、ただ歩んでくる男を前にして。
それ程までに緊迫していたのだ。
「馬鹿な……」
テロもまた、フレースと同様に迂闊に動く事は出来ない。
その男から視線を、注意を外せば首が飛ぶことが解っていたからだ。
現につい先程まで軽口を叩いていたリィンの首は無様に地に転がっている。
「四国大戦の亡者が……、何故、こんな所に……!」
-----亡者。
その言葉は[闇月]の脳裏に、嘗ての日々を思い出させる。
各国の要人を殺して回った日々を、様々な手練れを虐殺した日々を、女子供関係なく肉盾にしていた日々を。
「---……人は」
常夜の中に遷ろうが如く白銀が輝き。
白銀の上に流れるが如く紅色が滴り。
紅色の下に眺むるが如く黄金は唸る。
「脆いな」
微かな笑みは殺意の証。
テロはそれを感じ取ると共に咆吼を上げる。
獣に追い込まれた獲物が最後の抵抗を見せるかのように。
彼は、全身全霊を持って拳と精神に神経を収束させたのだ。
「フレェエエエエエーーーースッッッッッッ!!」
彼の絶叫は固まっていたフレースの凍えを溶かし、精神を揺るがす。
彼女はケースを持ち上げると同時に、テロからニルヴァーである肉塊を受け取った。
そして踵を返して闇夜に足を踏み入れるまで、一瞬だった。
「……ファナ・パールズ」
無論、[闇月]もそれを見す見す逃がすはずは無い。
彼はファナの名を呼ぶことにより、フレースを追撃することを命ずる。
普段の彼女ならば彼の頼みなど唾を吐き捨てて蹴り飛ばすだろう。
だが、今は現状が現状だ。
大人しく従う他は無いだろう。
-----それに。
「それが貴様の眼か、ジェイド・ネイガー」
「……俺は[闇月]だ」
その男の隻眼光は月光が如く大地を照らしていた。
紅色に染まっていく世界は嘗ての日々を思い出させる。
先程の言葉も相まって、彼の心は既に過去へと沈没していた。
「……っ」
「うぉおおおおおおおおおおおおおッッッ!!!」
テロの豪腕はジェイドの頬先を擦り、空を殴り飛ばす。
その拳はジェイドに直撃しなかったというのに、凄まじい衝撃波で空気を粉砕した。
猛烈な豪風が頬隣で吹き荒れるのを感じながら、彼は白銀の刀身をテロの腹部に向けて返す。
「ーーー……ッ!!」
拳を全力で振り切った状態の自分に向けられた刃。
腹部へと向けられたそれは、振り切れば鍵となり得るだろう。
そう、自らの臓物を封ずる血肉を開く、鍵に。
「お」
死んでなるものか、こんな所で。
相手が何であろうとも関係ない。
こんな所で、死ねるか。
「おぉぉぉおおおぉぉおォォオオオオオ!!!」
子供の駄々に近かっただろう。
法則や技術など完全に無視した振り払い。
攻撃や防御など関係なく、ただ[闇月]の刃を弾くためだけの物。
「……ふん」
確かに、その行為は刃を弾くには有効的だ。
だが戦場に置いて攻撃も防御も顧みない行動は明らかに自殺行為と言っても遜色ないだろう。
現にテロの悪足掻きは、一度は刃を弾いても二度目のそれには耐えられない。
「……っ」
-----太陽が、眩しかった。
だが、テロに二撃目が迫ることは無かった。
困惑するように、戸惑うように。
ジェイドはその一太刀を振り切れなかったのだ。
-----その光に、ずっと触れていたかった。
「ッ!!」
これ好機と言わんばかりに、テロは彼から距離を取る。
追撃があれば少なからず被害は与えられただろうが、ジェイドの刃が動く事は無かった。
いや、それは、心なしか。
微かに震えているようにも、見える。
-----だが、それは不相応な自己満足でしか無かったのだ。
「好機ーーー……ッ!」
テロとて歴戦の傭兵だ。
彼の動揺を見逃すはずも無く、豪腕を振り翳し鉄拳を握り締め、ジェイドへと襲い掛かっていく。
眼前より脅威が迫り来ているというのに、ジェイドは反応する様子すら見せない。
-----月が姿を現したまま太陽が昇るか?
「うォォオオオオオオオオオーーーーーッッ!!」
男の野太い咆吼と共に、剛拳は振り抜かれる。
次は外さない。頭部では無く、面積の大きい腹部を狙う。
一撃では仕留められないだろう。だが、確実に動きは止められる。
それから頭部を狙えば間違いは無いーーーッッ!
-----答えは否だ。
「ぐっ……!!」
ジェイドは彼の一撃をどうにか刀によって防ぐが、剛拳と迷い有りきの鉄だ。
どちらが勝つかなど、結果を見るまでも無い。
刀身の半分は亀裂が走ると共に弾け飛び、遙か後方の岩場へと転がっていく。
油断、否、動揺だ。
己の心に救う一筋の闇が、自らの月光を曇らせたのである。
-----消えるべきだったのだ、月が。
「これでーーーッッ!!」
須臾、刹那、一瞬。
折れた刀剣は月光を受けて白銀の光を放ち、紅色を散らす。
半身の刀で何が出来ると言うのか。
テロは時が止まったようにも感じる須臾の中で、そう思案していた。
確かに無傷とはいかないだろう。傷を負うはずだ。
だが、それはこの刹那の間には致命傷と成り得ない。
精々、切り傷。この状態からでは突きを放つことも首筋を狙うことも不可能。
一瞬の攻防だ。微かな血肉などくれてやる。
「終わりだァアアアアアアーーーーーッッ!!」
-----だが、陽の光は消えてしまった。
「貴様等が、消したのだ」
一閃。
「俺が陽を望むがばかりに、彼女は消えてしまった」
白銀は。
「月が烏滸がましく陽を望んだが為に」
男の腹部を両断する。
「消えて、しまった」
テロは自らの腹部が裂けて、上と下で二つになるまで。
その感触を確かに味わっていた。
音もせず裂けていく腹部。水の流れのように鮮明な臓物の数々。
そして言い知れぬ嫌悪感にも似た恐怖。
「ぁーーー……っ」
彼のその恐怖は自らの死への物。
そして[闇月]という男を思い出したが故の恐怖。
そうだ。[闇月]の使っていた獲物はあんな長い刀ではなかった。
ナイフ。それも何の変哲もない、ただのナイフ。
彼の[闇月]はその何の変哲も無いナイフで数々の手練れを殺して回ったのだ。
図らずも、自身が折り砕いた奴の刀の長さは、何の変哲もないそれと酷似しているではないか。
「……貴様等も沈め。我が闇夜の元に」
テロが最後に聞いた言葉はそれだった。
意識は薄れること無く、むしろ鮮明になっていく。
だと言うのに目は見えなくなっていくし耳は聞こえなくなっていく。
ただ残るのは地面に打ち付けられた感触と腹部の苦痛のみ。
彼のそれを具現化するように、大地には刻々と紅色が刻まれていく。
その中心に立っている男は、微かに口端を下げて小さく呟いた。
-----[闇夜の月光は紅色の大地に降り注ぐ。故に、闇月]と。
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