脆弱な腕は脂を打つ
《王城・地下訓練場》
「……避難は完了したか?」
「えぇ、そのようです」
王城の地下、普段は王城守護部隊の訓練場として使われている広間には多くの貴族の姿があった。
彼等は等しく恐怖に震えており、中には泣いている貴婦人すら居る。
普段、戦場という死地に赴くことも、それを感じることすらない彼等だ。
[黒夜]の者共が彼等に与えた恐怖は貴族達を怯えさせるには充分だったのだろう。
「……あの、リドラさん」
「行くなよ、ハドリー。駄目だ」
不安そうに声を零したハドリーを、リドラは厳しい目付きで制止する。
彼女の言いたい事は聞くまでもない。
スズカゼを助けに行きたい。そう言った所だろう。
「我々の戦闘力の無さは自身がよく解っているだろう。心配なのも解るが、それ以上に足手纏いになれば貴様の案じている事が現実と成り得る可能性が上がってしまう」
「……解っています。けれど!」
「解っているなら大人しくしておけ。……ここならば獣人否定派も擁護派もない。騒ぐ馬鹿が居るとすれば……」
小さな不安はあった。
こんな場所でも、いや、こんな場所だからこそ騒ぐ馬鹿がいる、と。
そして、その小さな不安は的中する。的中してしまう。
「何だ、何だこれは!」
人混みの中から聞こえてくる、太く醜い声。
リドラもハドリーもその声には聞き覚えがあった。
こんな騒動だから有耶無耶となったが、もし無ければ未だ大広間でスズカゼと言い争っていたであろう、その男。
サウズ王国大臣、ナーゾル・パクラーダが。
「王城守護部隊は何をやっている!? どうして獣人が、壁がここまで来た!? 女王は何処に行った!?」
醜く喚き、周囲の貴族達にすら避けられているのも気に留めず、その男はぎゃあぎゃあと喚き続けている。
ここに来るまでに人混みの中で足を挫いただの、あの無礼な餓鬼は死んだのかだの、と。
聞くだけで不快感を催す下劣な言葉を彼は吐き続ける。
「あぁ、くそ、くそ、くそ! 何がどうなっているというのだ!!」
ぎゃあぎゃあと喚き立てるナーゾル。
その喚きは殆どが獣人への侮辱とスズカゼに対する恨み辛み。
そして、現状に対する不満だった。
それが恐怖に恐れを成しての喚きだと言う事は周囲の貴族達にもよく解っている。
だが、今は子供ですら口には出すまいと黙っているというのに、何と情けない事だろうか。
「……ナーゾル大臣公爵」
そんな彼を見かねてか、リドラは曲がった背筋のままのそりのそりとナーゾル大臣へ近付いていく。
大臣を囲んでいた貴族達も、リドラの様子を察してか、怯えるように道を開けていった。
やがてリドラが彼の前に辿り着いても、ナーゾル大臣は喚くのを止める事はない。
「今は皆が不安なのです……。どうかお静かにしていただけませんか? 貴方の声は、些か五月蠅過ぎる」
「黙れ子爵風情が!! 貴様に何が解る!!」
「解りますとも。……今は不安で仕方ないのもパーティーが中断されて不満なのも解ります。しかし、ここで喚いても何の解決にもならないでしょう」
「私は大臣だぞ!? この国の大臣だ! それが、あんな小娘に面目を折られて黙っていろと言うのか!!」
「……不満が溜まるのは解りますが、先程も言ったように喚いても」
「黙ってろ鑑定士風情! 貴様のような何もかも見通したような男が!!」
ばちん、と。
鑑定士らしい、決して強靱では無い細腕が。
その男の顔面を捕らえ、振り抜かれる。
「ぽばっ!?」
情けない声を落として、大臣は一歩二歩と仰け反った。
リドラの一撃は重くない。精々、その辺りの女性のビンタの方が強いぐらいだ。
だからこそハドリーには彼の行動が理解出来なかったし、周囲の貴族達も顔を青くしていた。
伯爵位を持つスズカゼならばまだしも、高が子爵の男が彼を殴ったのだ。
彼は、鑑定士は自らに与えられる処罰が怖くないのか、と。
だが、今のリドラの瞳に、そんな事を気にする色は一片としてない。
「黙れ、と。そう言っているのです」
「きっ、きさっ、貴様!」
「貴方が獣人どうこう言う事については何も言いません。個人の思想論理まで制する権利は私にはない。……ただ、時と場所を考えろ、と。そう述べているのですよ」
「と、とっ!」
「呂律すら回らなくなりましたか。丁度良い。そのまま黙っていろ」
踵を返し、自らの額に掛かった前髪を払いのけて。
リドラはゆっくりと、しかし確かな足取りでナーゾル大臣から遠のいて行く。
彼の纏う、異質な雰囲気を理解した貴族達は、自ずと彼の道を空け始めていた。
「……り、リドラさ」
「知るか。男など一度限りの感情で動かねば男ではない。打算などしてられるか」
彼はそう言い切ってから、何処か気恥ずかしそうにボサボサの髪の毛を掻き毟った。
貴族達はそんな彼の様子に何も言えず、ナーゾル大臣もまた、絶句して腰を抜かしたまま、呂律の回っていない暴言だけを吐き続けている。
だが、彼も周囲の反応もなく自分が取り残されているのをやがて認識し始め、そして。
その口を噤み、自らの弛んだ首に顎を沈めていった。
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