脂乗る肥舌
「全く! 全く! 全く……!!」
苛つきを言葉にして憤るその男は、でっぷりと出た腹を揺らしながら、地面を踏みつけるようにしてずかずかと小走りに貴族の合間を縫っていく。
彼は先程まで騎士団長である男に不満を言っていたのだが、その当の相手は何処吹く風で聞く様子すら見せず、ただへいへいと気の抜けた返事を返すばかり。
仮にも大臣である自分への応対としては余りに無礼ではないか。
「何だと言うのだ……!」
そもそも、最近は余りに調子が悪い。
壁程度の存在でしかなかったはずの獣人が権利を得、高が二十歳にも満たないような少女が伯爵になり、女王ですらも現状を認めている。
獣人共が暴動を起こさなかった頃が当然の状態であったと言うのに、今となってはどうだ?
獣人がカードなどと言う陳腐な物を振り回して我が物顔で第二街を歩き回り、貴族達の中にも獣人を認める物が増えている。
全く、どうしてこうも汚らわしい現状と成り得てしまったのか。
獣人など、所詮、人に劣る汚物に等しい存在だというのに。
「……む?」
歯軋りする大臣は、ふと、ある光景を目に映した。
それは壁にもたれ掛かるようにして俯く、その身に合わない衣装を身につけた一匹の獣人。
「……くくっ」
軋ませていた口を歪め、大臣は歩先をその獣人の元へと向けた。
でっぷりと出た腹は相変わらず揺れていて、太ましい足は一歩を踏み出す度に床面をぎしりと撓らせる。
同時に、彼の隣を過ぎ去った給仕係の持っているワインを一つ取り、醜い笑みを浮かべたまま、その獣人の元へと歩いて行った。
「あら、貴方が噂の?」
「ハイ」
「お若いのねぇ。好きな宝石はお有り?」
「トクニハ」
「私は最近、魔法石を集めるのが趣味でしてねぇ?」
そちらとは別に、スズカゼは随分と諄い貴族婦人に捕まっていた。
現世でもこっちの世界でも、初老の女性の会話というのはどうにも長ったらしくて仕方ない。
まぁ、こういう人は喋らせておけば自分で満足するので、お偉い方の賢い人、言うならばリドラやメイア、バルドのような人よりも何十倍と楽だ。
とは言え、下手なミスをしないようににこにこしているだけではあるのだが、そろそろ顔が疲れていた。
折角のパーティーで目の前に豪華な料理や見知った人々が居るというのに、自分はこうしてにこにこと立っているだけ。
必要なことだとは解るのだが、どうにも暇になってしまう。
「ん?」
そろそろ強張ってきた笑顔を引き攣らせた彼女は、偶発的に眼前の光景を見た。
一人一人を、という訳ではなく、貴族達が行き交う中を一つの景色として、だ。
何と言う事は無い、暇だから、ただ単に見ただけのこと。
そして、映してしまった。
でっぷりと太った男がワインを持っていて。
ずかずかと、ハドリーの元へと歩いて行くのを。
「……ん?」
あぁ、アレは確か、大臣の男だ。
会ったのもメイアに直談判した時ぐらいで、それ以降は一度も会わなかった人物。
確かあの時は獣人のことを酷く否定していたが、女王に一蹴されていた。
それ以降は特に話題に出るでもなく、今見た時に漸く思い出した程だ。
だが、彼は確か、かなりの獣人否定派だったはずではないか?
ゼルより事前に注意された話では、この男に何を言われても適当な受け答えをしておけ、との事だった。
それ程までに彼は大臣のことを鬱陶しがっており、また警戒もしている。
「あら、どうかしたの?」
「……い、いえ!」
スズカゼは貴婦人の方へと向き直り、再び笑顔を作り直す。
幾何かの不安はあるが、それを気にしている余裕はない。
今の自分は人形のように、ただ、にこにことしているしかないのだから。
「……獣人」
ハドリーに声を掛けたのは、でっぷりとした腹を華美な衣で覆った一人の男だった。
彼女はこの男に見覚えがある。獣人否定派筆頭とも言える、サウズ王国大臣だ。
確か、名前はナーゾル・パクラーダ。地位は公爵であり、スズカゼよりも上のはず。
この人物はゼルから事前通告も受けているし、受け答えは無難な物にすべきだろう。
「これはこれは、ナーゾル・パクラーダ公爵大臣。ご機嫌麗しゅうございます」
「受け答えだけは一人前だな。……で? ここで何をしている」
「私はスズカゼ・クレハ伯爵第三街領主様の秘書として同席しました。ですが、彼女は今、他貴族様と御会話中の様子。ですので、こうして端で待機している次第です」
「……ふん。貴様等が居ると飯が不味くなる」
「真に申し訳ございません。私達もこの国の民となって日が浅く、未だ皆様に慣れていただくには時間がーーー……」
彼女の言葉を遮ったのは、葡萄色の水だった。
装飾の施された純白のスーツを深紫色に染め上げ、髪先より滴る葡萄色の雫。
大臣は空となったワイングラスを振り払い、それを机に乱雑に叩き付けた。
「この国の民だと!? ふざけるな!!」
唾液が飛散することも厭わず、醜く歯茎を露出させて。
血走る眼をぎょろりと向きながら、その男、ナーゾルは叫び出す。
「貴様のような獣など壁だ! 人間様を守る為に消費され続ける壁でしか無い!! それが民だと!? 石と糊で作られるような物が民を名乗るのか!?」
ハドリーは何も言わなかった。
自らの髪先を滴り落ちる雫が眉間より流れ落ちようとも。
その男の醜悪に歪曲した言葉を向けられようとも。
周囲から大臣であるナーゾルに賛同する声が上げられようとも。
醜い、汚らしい、失せろ、と徐々に罵声が上げられ始めても。
彼女は、何も言わなかった。
「……ふん」
料理の乗った皿を片手に持っていたファナは、その光景に何の感慨も持つことはない。
獣人を否定していた彼女が喜びを持つ事も、少しずつ獣人を認め始めた彼女が怒りを持つ事も、ない。
だが、そんな彼女と、少しばかり離れた場所に居た男は違った。
「放せ、リドラ」
「駄目だ……!」
ゼルは牙を剥き、義手が軋むほどに拳を握り締め、声には憤怒を孕んでいた。
こんな状態で彼を大臣の元には向かわせられない、とリドラは彼を必死に制止している。
もし行かせれば最後。公爵位を持つ大臣を殴り倒した男爵の、それも一介の騎士団長の末路など言わずとも知れた物だ。
だからこそ、この男を行かせるわけにはいかない。
「落ち着け、ゼル! ここで貴様が暴れてどうする!? ハドリーの我慢を無駄にするつもりか!?」
「黙ってっつーのか……? あそこまでされて、黙ってろと!?」
「黙らなければならんのだ……! ここで、黙らなければ全てが無駄になる!」
「だからって、こんな……!!」
ゼルはリドラに食って掛かろうと踵を返すが、それと同時に大音が鳴り響いた。
机が倒され、その上にあった皿やワイングラスの数々が引っ繰り返って割れ砕ける音と、誰かが横転したらしい衝撃音。
それは、もしリドラがゼルを止めなければ鳴り響いていたであろう、騒音だった。
「……えっ」
恐る恐る振り返ったリドラの目に映ったのは、真っ赤に腫れた頬を抑え、怯えた目付きで何かを見上げる大臣ことナーゾル・パクラーダ公爵。
彼の周囲に散乱する白のシーツや食物、皿やワイングラスの破片と、それらの背後で目を丸くして口を開いたまま立ち尽くすハドリー。
そして、それら全てを制するかのように拳を振り抜いた、スズカゼの姿だった。
「立てぇや、デブ」
リドラの顔面から血の気が一気に引いていき、ゼルはよくやったと言わんばかりに親指を立て。
周囲の貴族達からは悲鳴や罵声が飛び交い、当の本人であるハドリーは既に涙目となり。
先程まで優雅に賑やかなパーティー会場は少女の拳一つでカオスの渦へと飲み込まれ始めていた。
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