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獣人の姫  作者: MTL2
 
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閑話[水面の魚影]

【サウズ湖のほとり】


ぴくり


微かに揺れた釣り糸に、ジェイドは閉じていた瞼を開いた。

いつの間にか空は赤く染まっており、もう太陽も沈みかけている。

自分は気付かぬ内に眠っていたのだろうか。先程までは太陽は真上にあったと言うのに。


「…………む」


引き上げた釣り糸の針に、餌は無かった。

先ほど揺れたのは、ただ魚が跳ねて波が出来たからか、それとも体が針に当たったからか。

どちらにせよ、これでは魚は掛からないだろう。


「……はぁ」


彼は釣り糸を手元に手繰り寄せ、新たな餌を付けようとした所で思わずため息が出た。

獣人の行商人であるレンに送り届けて貰ってから、既に数日が経過している。

ベルルーク国でスズカゼやゼルはどうなったのか。

そもそもスズカゼはベルルーク国の現状を見てしまうのだろうか。

……いや、見てしまうのは当然だ。

あの国は、必ず彼女に現状を見せる。

彼女はそれに耐えられるのか?

吐き気すら催す人の悪意に、彼女は。


「ジェイド!」


彼の薄暗い思考を中断させたのは、聞き覚えのある女性の声だった。

その声に驚き半分で意識を取り戻した彼の視界にまず映ったのは、釣り糸。

浮き具が深く沈み込み激しく揺れる、釣り糸だった。


「掛かったか……!」


釣り糸は湖の水面を激しくかき回し、右往左往と暴れ回る。

心なしか上下していることからも、かなりの大物が掛かったようだ。


「むぅっ……!」


釣り糸に余裕を持たせては大きく引き、魚の体力を削り取っていく。

一気に引き上げることも出来ない上に、水面上からでも確認できるほど大きな影を持つ大物だ。

かなりの長期戦となるだろう。油断はーーー……。


ぷつんっ


「あ」


耐えきれなかったのは魚ではなく。

耐えきれなかったのはジェイドではなく、

耐えきれなかったのは、釣り糸だった。

魚との力比べの最中だったジェイドは力の行き場を失い、思わずどてんと大きく転げてしまう。

大きな魚の影はその隙に、とばかりに湖の端へと姿を消していった。


「……逃げたか。この釣り糸も暫く変えてなかったからな」


「は、はぁ……」


「……で、誰かと思えばハドリーか。どうした?」


「ま、まずは起き上がっては? その恰好だと間抜けにしか見えませんけど」


ジェイドはハドリーの手を借りながら、身軽に起き上がる。

手にしていた釣り竿を一端隣に置いて、彼はぐーっと背筋を伸ばした。

長らく座っていたせいか、背骨はボキボキと音を立てている。

そんな彼の様子を、ハドリーは少し呆れ気味な様子で眺めていた。


「いつまでも帰ってこないから様子を見に来てみれば、何ですか、これは」


「……釣りを、少し」


「自分の立場を考えてください! スズカゼさんが第三街領主になったとは言え、未だ獣人の心は貴方に寄り添っているんですから」


ハドリーの言う事も尤もだろう。

確かにスズカゼは第三街を一部自治地区として確立させたが、それはあくまで結果の話だ。

過程という部分に置いては、それらを全て支えてきたのは他ならぬジェイドである。

彼は今まで獣人の暴動を支え、獣人達の心を支えていた。

スズカゼという存在が第三街の顔になってこそ居るが、現状的にはジェイドを頼る意識があるのも事実だ。


「だが、第三街領主はスズカゼだ。俺はもう裏の顔でしかない」


「第三街には獣人だけではありません。今は牢屋という制度が出来ましたが、前までは第三街が牢屋と言っても過言ではない状況だったんですよ?」


「解っている。未だ第三街には犯罪者が溢れている事はな」


「何も知らない子供達が何をされるかだって解らないんです。彼等が下手に動かないのはジェイド、貴方の存在もあるんですから」


「……あぁ、そうだな」


彼はそう呟きながらも、隣に置いていた竿を再び手に取った。

釣り糸が切れていた事を思い出して、彼は愛用のケースから代えの釣り糸を取り出す。

アレほどの大物だ。逃がすのは惜しい。


「ジェイド……」


「まぁ、待て。偶には息抜きぐらいさせてくれ」


「息抜きって……」


「なぁ、ハドリーよ」


再び始まった彼女の小言を止めるように、ジェイドはその名を呼んだ。

ハドリー自身も彼のそんな意図を予測してだろうか。

少し不機嫌気味に眉根を寄せるが、ジェイドの眼差しを見るなり、彼女の表情は一変する。


「もうそろそろ、限界だ」


「……例の件ですか」


「隠し通せるとも思っていなかったが、な」


「隠す必要性は、もう無いでしょう? 打ち明けるべきです」


「光と闇は共存し得ない。太陽と月が共に空で輝かないようにな」


釣り糸を結び治し、浮き具を付け、針を付け、餌を付け。

元の状態に戻した釣り糸を、彼は再び湖へと放り込んだ。

波紋を広げたその衝撃は、水面に映った、微かな星の光を揺らし動かす。


「それは……、貴方が闇で無くなれば良いのではないのですか」


「無理だ。紅色に染まった白が、再び白に染まることはない」


「で、でも」


「その紅色が血液ならば、尚更な」


ハドリーは何も言えなかった。

言葉だけでも、彼の過去を知っている彼女は。

全てを紅色に照らす闇月が自らを封じている事を知っている彼女は。

それ以上、何もーーー……。


「……む!?」


瞬間、ジェイドの持つ釣り竿が激しく撓り曲がる。

釣り糸は激しく水面をかき回し、水面に幾百の波紋を作り出す。

魚影はかなり大きい。間違いなく先程の獲物だ。


「掛かったかっ……!!」


「じぇ、ジェイド! 大きいですよ!!」


「解っている!」


先程のように釣り糸を切られることはない。

ならば完全な体力と技術の勝負だ。

技術はこちらに分がある。体力は水棲の向こうに分がある。

ならば勝負は互角。こちらの技術か、向こうの体力か。


「むぅっ……!!」


だが、体力ならば負ける謂われはない。

こちらは獣人だ。人間よりも遙かに体力はある。

力任せに釣り竿を引き上げれば竿が折れかねない。

だが、こうして徐々に体力を削り行けば、魚に負けるはずはない。


「くっ、ぐ……!!」


段々と、魚の速度は落ちてくる。

魚影も大きくなってくることから、水面に浮かび上がり始めているのだろう。

確実に体力を削れている。

もう暫くすれば、確実に釣り上げることが出来るはずだ。


「っ!?」


だが、その魚も釣り上げられまいとしてか、一気に釣り糸を水面に引き込んでいく。

その力は、まるで人一人に引っ張られているのかと思うほどだ。

凄まじい力。正しくこの湖の主だ。

人間が数人集まっても引き上げるのは難しいかも知れない。

だが、自分は獣人だ。人間よりも遙かに力がある。


「今だーーー……ッ!」


微かに、釣り糸が弛んだ一瞬。

ジェイドは全力で釣り竿を引っ張り上げた。

釣り糸が悲鳴を上げると同時に全力で伸びきり、魚を住処から引き摺り出す。


「釣れーーー……っ!」


魚影は消え去り、水面より巨大な姿を現した。

釣り針を飲み込んだ魚の口はかなり大きい。

鱗やその魚顔を見るに、種は竜魚だろう。


「……」


だが、ジェイドもハドリーも、その竜魚に注目はしていなかった。

そもそも、その竜魚は非常に平均的な大きさで、とてもアレほどの影を作る事はないはずだ。

尤も、その魚に食い付いている男の姿が無ければ、だが。


「……何をしている、メタル」


「ふぉごふぉふふお」


「魚を放せ。……放すんだ」


「ふぉぺっ」


魚から口を離し、彼は水面に落下する。

どぼんと音を立てて沈みこそするが、再び浮上してきた彼の表情はかなり不満そうだった。


「俺の晩飯!」


「黙れ。貴様、城に居るはずだろう」


「いや、最近、タダ飯ばっか喰ってたら王城守護部隊の連中の目が冷たくなってきてさぁ」


「それで自分で食事を取りに来たんですか……」


「何と憐れな……」


「所で、俺の晩飯は?」


「……この魚をくれてやるから、さっさと失せろ」


「扱い酷い! でもありがとう!」


竜魚を貰って満足そうに去りゆくメタルを、彼等はただ憐れみの瞳で見て居た。

恐らく、最初の糸を切ったのもあの男なのだろうが、ジェイドからすれば最早、そんな事はどうでも良い。

あの男が憐れ過ぎて殆どの思考は吹っ飛んでしまいそうだった。


「……はぁ、全く。所で、何の話をしていたんだったか」


「え、えーっと、何でしたっけ?」


「あの男が憐れ過ぎて……。あぁ、そうだ。レンから聞いた話がある」


「あぁ、彼女ですか。そう言えばシーシャ国に行くのに使ったんでしたね」


「確か、ハドリーが俺に奥手すぎる、と」


その言葉を彼が言った刹那、周囲の空気が一変した。

それと同時にジェイドはしまったと言わんばかりにハドリーから視線を逸らす。

何が何だか解らないが、どうにも地雷を踏み抜いたらしい。

因みに彼はこの地雷が自分が爆心源だという事に気付いていない。


「あの子は余計な事ばかり……! ちょっと色を見せればそれに食い付いてぇええええええ……!!」


「あ、あの、ハドリー?」


「ジェイド」


「アッ、ハイ」


「レンはまだ近くに居ますか?」


「ま、まだ国近くに居ると思うが」


「少し席を外します。月が昇りきる前には帰ってくださいね」


「ど、何処に行」


「帰ってくださいね?」


「……ハイ」


両腕の翼を大きく羽ばたかせながら、彼女は空へと舞い上がっていく。

ジェイドは何も言えずその後ろ姿を眺めながら、呆然と口を開いていた。

主に次会った時にレンが生きて居るかどうかという不安のせいで、だ。


「おーいジェイドぉー! 何か変な木の実取れた-!! 魚もっと釣ってくれー!!」


「まだ帰ってなかったのか、貴様……」


そして彼は未だ魚を要求してくるメタルの為にあと数時間ほど魚釣りに専念する事になる。

後日、この一件をジェイドから報告されたバルドは、王城守護部隊の面々へメタルにもう少し優しくするよう、命令を下したんだとか。



読んでいただきありがとうございました

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