その手に持つは焔の太刀なり
それは、酷く冷たかった。
ここは湖だろうか? 決して狭くは無いが、広くもない。
果てが見えないのにそう感じるのはこれが夢だから?
いや、それにしては余りに感覚がリアル過ぎる。
足先を伝う水は皮膚を沈めていくし、頬を指すような風はとても冷たい。
この場に居るだけで心の何かがガリガリと削れていくようにも感じられる。
異質だ。こんな場所に居てはいけない。今すぐ逃げ出さなければ。
心の中で、そんな危険信号が先程から掻き鳴らされている。
だと言うのに、自らの足はこの真っ黒な水に捕まったかのように動かない。
一歩前に踏み出すことすらままならないのだ。
ーーーーォォン
何かが遠くから近付いてくる。
それは二つの光目を持っていて、途轍もなく大きくて速い。
それが少しずつ近付いてくるに連れて指先は震え奥歯は怯え凍える。
恐怖、と言うのが正しいのだろうか。
この世界に来てから今まで様々な危機には面したけれど、これ程の恐怖は感じたことがない。
あぁ、こんなに怖いなら元の世界に戻ってしまいたい。
様々な小説や漫画、アニメで見たような世界に憧れていた時期もあったはずなのに。
こんな世界なら、いっそーーー……。
……けれど、どうしてだろう。
あの光を見て居ると、頭の中が段々、真っ白になってくる。
何も考えられない。思考全てを放棄してしまいたい衝動に駆られる。
あぁ、この光は余りに恐ろしくて、何処か懐かしいーーー…………。
「……っ!?」
魂が身体に引き戻されるような感覚と共に、スズカゼの意識は醒めた。
見えるのは全く知らない、無機質な天井。
未だあの世界に居るのかと思ってしまうが、指先は動くし足も温かい。
どうやら現実の元に帰ってきたようだ。
「あ、起きました?」
そんな彼女を覗き込むようにして照る、眼鏡のレンズ。
思わず目を見開いたスズカゼの視界に映ったのは、非常に美人な女性だった。
彼女は優しげな微笑みを浮かべながらスズカゼの上から頭を退き、安上がりな椅子から腰を離す。
「もう2日も眠っていたんですよ? その間ずっと魘されていましたし……」
「……え、えっと。貴女は?」
「私はエイラ・アウロッタ、地位は中尉です。……とは言っても、ただの医者なんですけどね」
エイラは小首を傾げながら苦い笑みを見せる。
その手で硝子瓶の蓋を開けて二つの白い陶磁器へと茶黒い粉末を注ぎ、彼女は少し小さめの台の上に乗った容器を持ち上げた。
湯気が上がっていることから、その台の上に乗った容器の中にはお湯が入っているのだろう。
台は小さいながらも鉄が組み込まれており、頑丈なのだろう。
その台の中心には、嘗てスズカゼが見たような赤色の宝石がある。
けれど、その色はファイムの宝石のように燃え盛る火のような色では無い。
淡い、暖炉に灯る火のような色だ。
「あぁ、これ、珍しいですか? 熱を込めた魔法石でお湯を沸かす機械なんです」
「……は、はぁ」
「まだ意識が朦朧としていますか? どうぞ、これを」
エイラが差し出した陶磁器のコップには、茶黒い、暖かな飲み物が入っていた。
香ばしく口内に広がるような薫りには覚えがある。
そう、現世でも飲んだことがある物だ。
「……珈琲?」
「えぇ、安物ですけど」
再び苦い笑みを浮かべたエイラは、やはり美しくも妖艶に見える。
その笑みの苦さは安物の珈琲故か、それともぼうっとしているスズカゼへの困惑故か。
「……私は2日間も寝ていたんですか?」
「えぇ、正しくは1日と半分以上ですね。今は昼頃です」
「昼頃……。そんなに……」
彼女は起き上がろうとベット手を着くが、それに何かが当たって地面へと転がり落ちる。
カシャン、という金属音からして、何かの武器だろうか。
スズカゼは再びベットに寝転がって腕を伸ばし、落ちたそれを拾い上げた。
「……あ」
彼女の手に合ったのは、太刀だった。
木刀と同じほどの長さの、太刀。
柄と鞘は紅蓮を表すかのように炎が刻まれており、それだけで上等な品だと解る。
柄を引いて微かに表した等身は、謂わば炎。
皆ながら、刀身は炎を具現化したかのように紅色だった。
いや、紅色とも言えないような、敢えて言うとしても炎色としか言えない程に。
それは正しく炎だった。
「話には聞いていましたけれど、凄いですね。特別な器具を使ってるでもないのに、魔力を感じます」
エイラはその刀を食い入るように身を乗り出して観察し始める。
医者という、少なからず知識を求める立場上だからだろうか。
少し興奮気味に息を荒げながら、彼女はわきわきと手を動かしている。
「[魔炎の太刀]……、でしたっけ。これ、そんなに凄いんですか?」
見ただけは装飾が凄いだけの太刀に見える。
いや、それは違うだろう。
真剣だというのに重量は木刀並み。刀身は異質な色彩ながらも素晴らしく照り輝いている。
言うまでも無く名刀。現世にあれば歴史に名を残す程の物だ。
そんなに凄いのか、などという問いは確認の行為でしかない。
凄いに決まっている、この品は。
現にエイラと名乗ったこの女性は当然ですと言わんばかりに首を縦に振り続けている。
「……あ、それよりも! 体調はどうですか? 何か頭痛がするだとか吐き気があるだとか」
「あ、いえ……、そんなのは無いです」
「それは良かった。体調不良はなさそうですし、後は様子を見てと言いたいですけれど、他国ですしねぇ……」
「い、いえ。ここまでしていただいただけで充分です。2日間も面倒を見ていただいて……」
「いえいえ! それが仕事ですから。……そうですね、もう意識もハッキリしているようですし、元の衣服に着替えていただいて……」
その後、スズカゼとエイラは事務的な退院手続きを行った。
何と言う事はない、所持品の確認や簡単な検査などの、本当に事務的で単的な確認だ。
けれど、それはこの国に来てから散々な目に遭ってきたスズカゼにとっては、幾分かの心の安らぎとなったのだろう。
エイラも先程までぼうっとしていた少女に元気が戻り始め、溌剌とした様子になった事に少なからず喜びを覚えたらしい。
彼女達の会話は事務的であるにも関わらず、年頃の女性同士の会話のような、とても嬉々とした物だった。
コンコンッ
だが、それは。
彼女達の嬉々とした会話は。
ほんの数度のノックと、それと共に顔を覗かせた男の姿によって打ち切られる事となる。
「やぁ、目覚めたかな?」
にこやかに、年齢に相応しい優しげな笑みを浮かべながら。
その男は特別医務室へと足を踏み入れる。
「ば、バボック大総統っ……!」
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