1話
雨の夜は、街の輪郭を曖昧にする。
だからアッシュウォードでは、誰もが少しだけ気を抜き、少しだけ死に近づく。
ヴェルグラード南層区の底にへばりつくその貧民街は、昼間でも薄暗い。崩れかけた煉瓦壁、ひび割れた石畳、詰まりきった排水溝。煙突から吐き出された煤が雨に混ざり、古い水染みの上にまた新しい汚れを重ねていく。夜になると路地はさらに狭く見え、家々は身を寄せ合うように傾き、街全体が濡れた獣みたいに息を潜める。
レオン・ヴェリスは、そんな路地を歩いていた。
急いではいる。けれど、追い立てられているようには見えない速さで。
この街では、それが大事だった。足早すぎれば追われていると思われる。きょろきょろすれば怯えていると見られる。逆にのろのろしていれば、絡んでも大丈夫な人間だと判断される。だから彼は、ただ帰りが遅くなっただけの、どうでもいい男の顔をして進む。その顔の作り方を、もう随分前から知っていた。
「おい、ヴェリス」
角を曲がった先、軒先に凭れた男が声をかけてきた。濡れた帽子、酒臭い息、面倒ごとを仕事にしている目つき。借金取りの下っ端だ。
「昨日の分は?」
「明日には」
「その明日、何回来るんだよ」
「今日を越えたぶんだけ」
男は鼻で笑った。手でも出されるかと思って肩に力が入ったが、向こうはそれ以上動かなかった。殴ったところで金にはならない。そういう計算くらいは、ここらの連中もしている。
「次はないぞ」
「毎回そう言うな」
「効くと思ってるから言ってんだよ」
「じゃあ外れてる」
「口だけは達者だな」
「止まったら困るからな」
舌打ちが返る。そこで話は終わった。
レオンは軽く手を上げ、そのまま歩く。背中に残る視線が消えるまで、歩幅は変えない。二つ先の角を曲がってようやく、喉の奥に詰まっていた息を吐いた。
今日もひとまず無事だ。
それだけで充分だと、昔から何度も自分に言い聞かせてきた。
立派な暮らしが欲しくないわけではない。金があって、清潔な寝台があって、誰にも脅されずに朝を迎えられるなら、その方がいいに決まっている。ただ、アッシュウォードでそういうことを真面目に望むと、大抵ろくな目に遭わない。夢は人を目立たせるし、欲は足元を掬わせる。ここで生き延びるには、最初から手の届かないものを数えない方が楽だった。
その日の飯。
雨漏りの少ない寝床。
借金取りに殴られない程度の金。
衛兵にも組合にも、はっきり顔を覚えられないこと。
今夜の仕事も、たった今それで終わったところだった。
荷をひとつ、酒場裏へ運ぶ。中身は見ない。依頼主の名前も聞かない。受け取る側の顔も覚えない。運び屋に必要なのは腕力より、余計なものを頭に入れない鈍さだ。レオンは自分を器用だと思ったことはないが、その手の処世だけは身についていた。
雨脚が少し強まる。外套の肩に湿り気が増した。
表通りを避け、いつもの裏道へ入る。途中、《くすんだ杯》の前を通りかかった。板看板は斜めに傾き、扉は膨らみ、窓の隙間から漏れる灯りは黄色く濁っている。それでもアッシュウォードでは、明日も同じ場所にありそうな数少ない建物の一つだった。
ちょうど扉が開き、酒場主のマルゴが顔を出す。腕の太い女だ。口は悪いが気前はそこまで悪くない。もっとも、その気前にもきっちり値段をつける種類の人間ではある。
「レオン。今日はもう終わりかい」
「そのつもり」
「ツケ、増やしとくよ」
「増やさないでくれ」
「払わないのに?」
「その言い方だと最初から諦めてるな」
「諦めるだけの実績があるんだよ、お前には」
マルゴはそう言って、手元の布包みを投げてよこした。受け取ってみると、固い黒パンが二切れ入っている。
「明日の昼までは持つだろ」
「……助かる」
「珍しいね。素直じゃないか」
「空腹だと人は丸くなる」
「お前はいつも尖ってるよ」
彼女は鼻を鳴らし、少しだけ真面目な顔になった。
「変なところで死ぬんじゃないよ」
「気をつける」
「気をつけるだけじゃ足りない場所だろ、ここは」
「だから生きてる」
「憎たらしい返しだね」
扉が閉まり、灯りが細い線になって消えた。
レオンは黒パンを外套の内側へ押し込みながら、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。こういう短いやり取りがあるだけで、自分がまだ街の中の人間でいられる気がする。借金はあるし、寝床は湿っているし、先のことなんてろくに考えていない。それでも完全に何も持っていないわけではない、と思える瞬間が稀にある。
ただ、その感覚を大事にしすぎると、だいたい足元をすくわれる。
酒場を離れた先の二階から、皿の割れる音が落ちてきた。女の罵声と男の怒鳴り声が重なる。夫婦喧嘩か、酔客の揉め事か、どちらでも同じだ。関わる理由はない。視線も向けずに通り過ぎる。
さらに先、壊れた露店の陰では、痩せた孤児が膝を抱えて雨を避けていた。昼ならパンの欠片くらい投げてやれたかもしれないが、今は自分のぶんしかない。目が合う前に歩く角度を少しずらす。
優しいわけではない。
かといって冷たくもなりきれない。
そこが面倒だと、レオンは昔から思っていた。困っている相手を見ると気にはなる。けれど自分から背負いにいく覚悟はない。だから見ないふりをする。見ないふりをしたあとで、嫌な気分だけが残る。そういうことばかり積み重ねてきた。
仕方ない。
そうするしかない。
自分の手に余る。
その言い訳でここまで来た。
その日の最後の角を曲がりかけたとき、レオンは足を止めた。
最初に気づいたのは音だった。
雨音の中に、別のリズムが混じっている。靴音ではない。排水を踏む水音とも違う。もっと弱く、途切れがちで、今にも消えそうな呼吸だった。
嫌な感じがした。
細い路地の先、崩れた壁際に人影が倒れている。左には煉瓦、右には壊れた荷車と木箱。上では洗濯紐が雨に揺れ、その影が石畳を横切っていた。
レオンは即座に周囲を見回した。屋根。脇道。窓。木箱の裏。誰かが潜んでいないか、見張っていないか。こういう形で転がっている人間が、穏やかな事情を抱えていることはまずない。
遠くで怒声がした。近くではない。けれど安心できるほど遠くもない。
放っておけ。
頭の中で、いつもの声が言う。
知らない血に触るな。死にそうな他人の事情は、生きてる自分よりずっと重い。
レオンはその場で踵を返しかけた。
だが、その影がわずかに動いた。
泥に濡れた指先が、石畳を掻く。助けを求めるというより、死にたくない身体だけが勝手にそうしてしまったみたいな弱い動きだった。
「……面倒だな」
小さく呟き、舌の先で奥歯を押す。
見なかったことにしたかった。今ならまだ間に合うはずだ。そう思いながらも、足はそちらへ向いてしまう。
近づいた瞬間、血の匂いが鼻を刺した。倒れていたのは若い少女だった。十代半ばくらい。濡れた髪が頬に張りつき、覗く腕は驚くほど細い。
脇腹が裂けていた。
深い。服の下まで血が回っている。息は浅く、顔色は青い。長くは保たないと一目で分かった。
このままなら死ぬ。
闇医者のところへ運ぶ?
無理だ、とすぐに考えが続く。距離がある。金もない。何より、途中で見つかれば自分まで終わる。
少女の手には、細いガラス瓶が握られていた。
指二本ほどの長さしかない小瓶。その中の液体は、暗がりでも埋もれない青白さを帯びている。安物の鎮痛剤とも、酒場の奥で回る興奮剤とも違う。見た瞬間、背骨の内側を冷たいものが撫でた。
ろくな代物じゃない。
少女の瞼がかすかに震え、薄く開いた。焦点の合わない目がレオンの方を向く。
「……あ……」
息みたいな音だった。
何か言おうとしているらしいが、声にならない。唇の端から赤いものが滲む。
「喋るな」
そう言ったところで意味があるのかは分からない。
少女は言葉の代わりに、小瓶を離すまいとするように指先へ力を込めた。金目のものを守るというより、それを失えば終わると思っている握り方だった。
レオンは眉を寄せる。
厄介事だ。
しかも筋の悪い種類の。
立ち去れば終わる。
少なくとも、自分の一日までは巻き込まれずに済む。
そう思った瞬間、胸の奥が妙にざわついた。
また少し遅れた気がする。
意味は分からない。雨の匂いとも、血の色とも関係のない焦りだけが一瞬刺さる。耳の奥で金属が軋むような音がして、見知らぬ景色の欠片が視界の端を掠めた。すぐに消える。
疲れているだけだ、とレオンは思おうとした。
だがその違和感のせいで、足が動かなかった。
ここで背を向けたあとに残るものが、どうしても嫌だった。罪悪感と言うには少し違う。ただ、自分の都合でまた見ないふりをしたという感触だけは、ひどく不快だった。
「……勘弁してくれ」
吐き捨てるように言って、レオンはしゃがみ込む。
せめて物陰へ。そう考えて少女の肩へ手を伸ばした、そのときだった。
少女の指が小瓶を握り直し、レオンの手とぶつかる。
乾いた音がした。
ガラスが割れたのか、栓が飛んだのか、レオンには分からなかった。ただ次の瞬間、青白い液体が霧みたいに散り、少女の傷口へ、レオンの手の甲へ、濡れた空気の中へ広がった。
「っ――」
冷たいというより、皮膚の裏に直接何かを流し込まれるような感覚が走る。
少女の身体が小さく震えた。途切れかけていた呼吸が一度だけ大きく戻り、胸がかすかに上下する。助かったと呼ぶには早い。だが確実に死の側から少しだけ戻った。
同時に、レオンの頭の芯へ何かが落ちた。
視界が澄む。
雨粒の落ちる場所。石畳の欠け目。荷車の影。木箱の高さ。壁際の死角。遠くの怒声の位置。自分の足の置き場。少女の体重。全部が順番を持って頭へ流れ込んでくる。
「何だよ、これ……」
怖い。
気味が悪い。
なのに分かってしまう。
正面に三歩、右へ半歩。木箱の影へ。次に左。崩れた壁際を抜ける。そこから二十数歩先の石炭置き場。途中の排水口は避ける。怒声は三人。まだこちらを見失っている。今なら間に合う。
考えたわけじゃない。最初からそうすればいいと世界の方が教えてくるみたいだった。
レオンは少女を抱き上げた。軽い。驚くほどに。
そのまま駆ける。
背後で声が上がる。
「いたぞ!」
追手。
だが遅い、とレオンはなぜか確信した。右。次に左。壁際。洗濯紐の影。崩れた煉瓦。そこを越えれば視線が切れる。足場も距離も、全部が勝手に頭の中で整っていく。
自分が自分でなくなったみたいだった。
石炭置き場の裏へ滑り込んだとき、ようやく息を吐いた。肺は焼けつくように苦しいのに、思考だけが妙に冷えている。
腕の中の少女は、まだ生きていた。
安堵より先に、遅れてきた恐怖が背中を這い上がる。
あれは何だ。
薬か。
毒か。
ろくでもないものには違いない。
レオンは濡れた手を見る。青白い光はもう消えている。だが指先の奥がまだざわついていた。
そのとき、頭上で小さく靴音がした。
反射的に顔を上げる。
石炭置き場の屋根の上、雨の向こうに人影が立っている。黒い外套。顔は見えない。けれど胸元で揺れる白い灯の飾りだけは、暗がりの中でもよく分かった。
白灯組合。
アッシュウォードでその印を知らない者はいない。
男は何も言わず、しばらくこちらを見下ろしていた。さっきの追手とは空気が違う。荒いというより、静かで、冷たくて、こちらの値段でも測っているみたいな目だった。
やがて男は踵を返し、雨の奥へ姿を消した。
それだけで、十分だった。
よりによって、白灯か。
目の前で死にかけていたから、見過ごしたあとが寝覚め悪そうだったから、ただそれだけの理由で手を出した。立派な覚悟があったわけでもない。むしろ避けたかった。
なのに、得体の知れないものに触れ、追手に見つかり、白灯組合に顔を見られた。
笑えない。
腕の中の少女は熱を帯びたまま、かすかな呼吸を繰り返している。さっきまで今にも切れそうだった命が、まだ細く繋がっていた。
今ここで置いていくか。
そうすれば、自分だけならまだ逃げ切れるかもしれない。
レオンはそれを考えた。考えたうえで、すぐに諦める。
もう遅い。
高潔だからではない。
優しいからでもない。
ここで手を離したあと、自分がどんな顔で朝を迎えるのか、それを想像したくなかっただけだ。
「……ひとまず死ぬな」
雨はまだ細く降っていた。
アッシュウォードの夜は何事もなかったように濡れ続け、崩れた壁も、詰まった溝も、酒場の灯りも、いつも通りそこにある。
けれどレオン・ヴェリスにとって、その夜は確かに境目になった。
拾わなければ済んだものを拾った。
触れてはいけないものに触れた。
そして何より、見られてしまった。
白灯組合に。




