02.後始末
お嬢様が言い切った瞬間、夜会の空気が止まった。
比喩ではなくて。少なくとも私には、そう見えた。
先ほどまでは、あちらで愛想笑い、こちらで腹の探り合い、どこを向いても宝石のような笑顔の下で計算が動いている――そんな会場だったのに、一瞬で静まり返ったのだ。
あれだけ人がいて、あれだけ口があるのに、よくまあ一斉に黙れるものだと思う。変なところで感心してしまった。感心してる場合じゃないんですけど。
近くにいたご婦人なんて、グラスを持ったまま固まっていた。
あのまま台座に乗せたら、題名付きで飾れる。『衝撃を受けた貴婦人』。誰も買わないだろうけど。
旦那様は眉を上げ、奥様は笑顔を崩さないまま目だけでこちらを見た。
あの「また何かやりましたね?」という顔を口角ひとつ動かさずに出せるのは、もはや芸の域だと思う。あの家で育つと、ああなるのだろうか。
そして当の本人――イルデイン家のご令嬢であるラテリナ様はというと、たいへん満足そうだった。頭の跳ね毛がゆらめいている。
悪役令嬢を自称する方が夜会場でいちばん楽しそうにしているのって、どうなんでしょうね。
池に石を投げた子どもが、水面の波紋を待っているような顔。
本人にとっては正式なご挨拶のつもりなのだろうけれど、周囲にとっては衝突でしかなかった。
勇者庁が各地に派遣している勇者は、それこそ数えきれないほどいる。
なりたての新人から歴戦の猛者まで様々で、魔王が倒されて魔物がいなくなった今は、魔族の残党討伐が主な仕事だ。エトル様たちもその一組。
だけど、魔王を倒した張本人というだけで扱いが数段違う。事前に調べた程度の情報ではあるけれど、まさかこんな形で必要になるとは思っていなかった。
その張本人はというと。
勇者エトル様は、お嬢様を見た。
見た、以上の言葉が出てこない。目を丸くするでもなく、怒るでもなく、笑って流すでもない。
ただ静かに視線を向けて、一拍置いた。
この一拍が長く感じたのは、会場が静かすぎたせいか、私の胃が先に悲鳴を上げ始めたせいか。
おそらく両方だ。こういう時に限って、胃だけは仕事が早い。見習ってほしい持ち場はいくつもある。
その横で、戦士ディノ様の銀髪が揺れた。正装を着ているのに肩の力が抜けていなくて、立ち姿ごと「勇者の剣です、盾にもなります」と言っている。口には出していないのに「今なんて言った?」と顔に全て書いてある。こういう分かりやすさは嫌いではない。
聖女イリーシャ様は、亜麻色の髪を横でまとめたサイドアップが上品で、正装も綺麗に着こなしている。遠目には絵画から抜け出したような方なのに、その整った顔でほんの少しだけ笑いをこらえていた。笑ってはいけない場面だと分かっていても、面白いものは面白い、という顔だ。
クランベル様は、背に流れる長い金髪のせいで、正装なのに妙に現実味が薄い。エルフってこういう感じなのか、という説得力がある。人間離れした綺麗さで立ってるのに、口元だけわずかに動いていた。おそらく面白がっている。戦場に放り込まれても最初に地形と退路を確認しそうな方だな、と思った。
全員、正装で見栄えがいい。華やかだし、絵になる。
なのに、お嬢様のひとことで空気だけが修羅場だった。パーティの方々は余裕がありそうだったけれど、会場の方はそうもいかなかったらしい。当人たちより、周りの方がよほど動揺していた。
やがて、エトル様が口を開いた。
声は落ち着いていて、変に飾らない。丁寧だけれど、甘くはない声だった。
「申し訳ありません。仲間は募集していません」
驚くくらいにまっすぐだった。でも、その実直さがかえって誠実だった。
変に笑って流さないし、曖昧に期待を持たせもしない。困らせた相手にも礼は尽くすけれど、譲らないところは譲らない。
なるほど、こういう方なんだ。
そう思ったと同時に、お嬢様がそういう相手を嫌いなはずがない、という嫌な確信も生まれた。
案の定、お嬢様は引かなかった。
「現在は、ということですの?」
「いいえ。そういう意味ではありません」
「では、わたくしが十分な働きをお見せしても?」
「申し訳ありません。そちらも別のお話です」
全部きっちり断ってくるし、言葉を荒げない。
崩す隙がないのだけれど、お嬢様はこういう相手だと逆に燃えるということは分かっている。
ディノ様が小さく咳払いした。
止めに入るべきか迷ってそうな顔をしている。私もまったく同じ気持ちだった。
違うのは、こちらには止めに入る義務があることくらいだ。義務って、便利な言葉だけれど逃げ道がない。
そこへ、奥様が一歩前に出た。
こういう時の奥様には、薄い氷の上をヒールで歩いても転ばないどころか、周りの人まで転ばせずに誘導できるタイプの強さがある。
「娘は素直でして。勇者様がお困りになっていないとよいのですが」
言葉は柔らかいし、声も穏やかだった。
この場はいったん収める、でも誰の顔も潰さない、その両方をひとことでやってのけている。
エトル様は、ほんの少し首を振った。
「いえ。お気遣いありがとうございます」
そのひとことで、止まっていた会場が少しずつ息を吹き返した。
遠くから順番に声が戻ってくる。凍った水面にひびが入って、その下の流れがまた動き出すかのようだった。
私はその隙を逃さず、お嬢様の袖をそっと引く。
「お嬢様。いったん下がりましょう」
「まだお話の途中よ」
「会場全体が止まっていました」
「それは勇者様の返答が簡潔すぎたからじゃないの?」
「原因の10割はお嬢様です」
「10割って全部じゃない」
「全部です」
お嬢様は一瞬だけ私を見て、小さく息をついた。
納得したのか、保留にしたのか。おそらく両方だけれど、とりあえず今は引いてくれるらしい。
私はそのまま、お嬢様を会話の輪から外した。
お嬢様を夜会から引き離すのは、なんというか、熱い鍋を運ぶのに似ている。こぼさないように慎重に、でも手早く運ばないといけないのに、途中で「やっぱり戻す」と言われる可能性がある。神経を使うわりに褒められない仕事だ。
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廊下に出ると、ようやく空気が軽くなった。
会場の光と音が扉1枚で遠くなって、石の壁に灯る燭台の明かりだけが静かに揺れていた。廊下の空気はひんやりしていて、会場にいた間はずっと肩に力が入っていたことに今さら気づいた。
お嬢様は扇を閉じたまま、少し考え込んでいた。こういう時は、次の手を組み立てている。反省する力がそのまま次の行動力に変わる方だから、止まっている時間は短い。
去年、悪徳商会を叩き潰した時もそうだった。恐ろしいほど正確に手順を組んで、合法的に容赦なく干し上げた。その後処理で、私は3日間書類の山と格闘する羽目になったのだけれど。不本意ながら、後始末は侍女の私の仕事なのである。
しばらく黙っていたお嬢様が、不意にこちらを向いた。考え込む時間が終わったらしい。
「……断られたのよ」
「はい。綺麗に」
「綺麗に、は余計よ」
「事実ですから」
「んんーっ」
お嬢様は悔しそうだった。頭の跳ね毛が、持ち主の気分に合わせるように小さく揺れた。負けたと思いたくない時はいつもこうだ。
だけど、認めたくない現実を放置しないところが、この方のいいところでもある。見なかったことにして終わる方なら、ここまで人を振り回せない。それはそれで平和だったかもしれないんですけど。
同じ年に生まれて、同じ屋根の下で育って、18年の付き合いだ。この方が引くかどうかくらいは顔を見れば分かる。今は、引かない時の顔だった。
「おかしいのよ」
「なにがですか?」
「条件としては悪くないでしょ、わたし」
「そこに入る前の問題ですよ」
「問題って、なに?」
「結婚前提で仲間にしてください、です」
「でも、最終的に言うことは同じじゃない」
「初手で過程を全て飛ばしたからですよ」
「効率的でしょ?」
「省略しすぎです」
普段のお嬢様は、扉を見つけるのが上手な方だ。扉がなければ自分で作る。なのに今回は、扉を探す前に壁に向かって走っている。私は横から「扉を使ってください」と言う役になった気がする。
お嬢様は廊下の窓に映る自分を一瞬だけ見て、少しだけ首を傾げた。
「でも、反応は悪くなかったのよね」
「どこがですか?」
「笑わなかったのよ」
「それは……そうですね」
「変な慰めもなく、ちゃんと断ったし。あれは誠実よ」
そこを見るんだ、と少し驚いた。
お嬢様は勢いで動く方に見えるけれど、相手の値打ちはちゃんと見ている。そこは雑ではない。だからこそ本気で目をつけるし、本気で追いかける。困った話ではあるのだけれど、そういうところを私は嫌いになれない。
「本気なんですね」
「うん。本気なのよ」
「仲間入りするんですか?」
「もちろん。結婚前提でね」
「そこは外さないんですね」
「大事でしょ」
即答だった。はい、知ってました。
結婚前提で勇者の仲間入り。文字にしたら正気を疑われる目標を、この方は本気で言っている。そして私は、それを止める側ではなく支える側にいる。
私は小さくため息をついた。
諦めのため息というより、覚悟を決める前の深呼吸に近い。これから忙しくなる。かなりの確率で。今のうちに心の中で段取りを組んでおきたい。
だけど、お嬢様はそんな準備なんて待ってはくれない。扇の先で空中に見えない図を描きながら、いかにも「簡単なことに気づきました」という調子で言った。
「……単純な話かもしれないのよね」
「なにがですか?」
嫌な予感しかしない。
お嬢様の言う『単純な話』は、聞いている時は「なるほど」と思うのに、話が終わったあとに待っているのは山ほどの段取りと走り回る日々だ。走るのは基本的に私です。誠に遺憾ながら。
「仲間が3人いるから断られるのよ」
「はい?」
「空きがないから入れないってこと。理屈は合ってるでしょ?」
「理屈だけは。はい」
「そうでしょ。つまりね」
隠し扉の仕掛けに気づいた子どものような晴れやかな顔で、お嬢様は言った。
「1人減れば、1人分の枠ができるってことでしょ?」
この方から嫌な予感がした時は、それは予兆であると認識を改めた方がいいのかもしれない。
そしてその予兆が来た時には、もう走る準備をしておくべきなのだろう。




