19.変装
鏡に映ったのは、見知らぬ魔導師。
暗い色のローブ。深いフード。裾が長くて、足首まで隠せてる。腰まであるピンクブロンドの髪は全部まとめてフードの中に押し込んだのよ。跳ね毛ごとね。
これならスタイルも隠れてる。いつもはドレスで見せるところを全部ローブの下に閉じ込めてるから、ぱっと見で女だってことも分からなそうよね。
うん、完璧じゃない。自画自賛だけど、完璧よ。
「お嬢様」
後ろに立ったフィアが、ため息まじりに言った。
「いえ、魔導師見習い、といったところでしょうか?」
「何言ってるの。大物魔導師よ」
「大物感はありませんね。ローブは大きいですけど」
「大きい方が隠せるでしょ。隠すものが多いんだし」
「そうかもしれませんが、裾を踏みそうですよ」
「踏まないし。そんな間抜けじゃないんだから。雰囲気は歩き方でカバーするのよ」
「魔導師の歩き方ってあるんですか?」
「堂々としていればいいのよ。魔導師って、そういうものでしょ」
「お嬢様の魔導師観、雑ですね」
フィアはいつもの侍女服からブローチだけ外してる。紺色のワンピースに白い襟。イルデイン家の紋章がないと、どこの家に仕えているかは分からない。この子は勇者庁に何度も行ってるから、顔は知られてても侍女が来ること自体は不自然じゃないの。
わたしだけが問題なのよね。五大貴族の令嬢が勇者庁をうろついていたら、それだけで話が大きくなる。だから魔導師のローブなのよね。わたしは魔法が使えるし、嘘ではないの。嘘ではないから堂々としていいのよ。
「お嬢様。最後にもういちどだけ言わせてください」
「なに?」
「声を出さないでください。何があっても」
「分かってるから」
「お嬢様の声は、特にお嬢様言葉の方の声は、いちど聞いたら忘れられません。廊下に響いた瞬間に終わりますよ」
「大げさね」
「事実だけを申し上げています」
フィアの目が真剣だった。本気で止めに来てる。止まらないけど、止まらないことを承知で言ってくれるのが、この子のいいところなのよね。
「分かったから。喋らないから。黙って見るだけだから。約束するから」
「約束、ですか?」
「うん。約束よ」
「では、その約束を信じて参りましょう」
信じてないでしょ、あなたの目。別にいいけど。
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馬車から降りた瞬間に、鼻先の空気が変わった。
貴族街を離れると、匂いが違うのよね。花壇の甘い香りが消えて、代わりに革と紙と石と、人の気配が混ざった匂いが鼻に届くの。道の幅も違うし。石畳の継ぎ目が荒くて、馬車の轍が深いのよね。
勇者庁の建物は飾り気がないぶん、うちの屋敷の門よりも地味ね。でも壁は厚いし、窓の配置も整ってる。ここは人を見せるための場所じゃなくて、仕事をするための場所なのよね。
正面には人が出入りしてて、役人らしい男性が書類を抱えて走っていったかと思えば、革の鎧を着た女性が大股で入っていく。商人らしい男が受付の前で何か説明している横を、伝令の少年がすり抜けていった。
ここに来たかったのよね。自分の目で見たかったの。フィアの報告で聞く勇者庁と、自分の足で立つ勇者庁は、やっぱり別物ね。
フィアの半歩後ろを歩いて、中に入った。
魔導師が顔を隠しているのは珍しくないから、すれ違う人は特に気にしない。受付の横を通り過ぎるとき、フィアが軽く会釈しただけで通された。信用ってこういうところに出るのよね。何度も来て、毎回筋を通してきた積み重ねが、受付の表情ひとつに現れてる。
廊下に入ると、石の壁に高い天井。窓から差し込む午後の光が、廊下の片側だけを照らしてる。人の行き来は思ったより多いのね。でも混雑というより、流れている感じ。全員がどこかに向かっていて、立ち止まっている人がいないの。
エトル様以外の勇者様たちに関する業務も、ここでは動いてる。魔族の残党討伐の報告、次の派遣先の調整、物資の手配。全部がこの建物の中で同時に進んでる。わたしが整えたのは、この巨大な仕組みのほんの一角に過ぎないのよね。
フィアが足を止めずに歩調を緩めた。何かを見つけたときの動き方ね。
視線の先を追った途端に、心臓が大きく跳ねた。
廊下の奥。人の流れの中に、暗い茶色の髪が見えた。
エトル様だった。
ディノ様と並んで歩いてる。正装じゃない。襟なしの上着に、細身の革帯。銀の飾り緒もない、ただの軽装。それなのに、背筋のまっすぐさと歩幅の一定さだけで、すぐに分かってしまった。夜会でも舞踏会でもない、普段着のエトル様。初めて見る姿なのに、目が吸い寄せられて離れない。
明日、出立するのよね。だったら、今日は勇者庁で最後の準備をしているに決まってる。ここにいるのは当然のこと。そうよね。偶然なんかじゃない、当然のことよ。
……でもね。当然だって分かっていても、こうして実際に目の前にいると、心臓は理屈で動いてくれないのよ。どこかで期待してた。期待してた自分を、ちゃんと知ってる。今日ここに来た理由の半分は好奇心で、もう半分はこれだった。
やっぱり、この方なのよ。
わたしが選んだ方は、間違っていなかった。普段着でも、石の廊下でも、視線を外せないんだから。
ローブの中で拳を握った。呼吸を整えなきゃ。ここで声を出したら全部台無しよ。分かってる。分かってるから、黙るのよ。黙って、見る。見るだけなのよ。
エトル様とディノ様が近づいてくる。
すれ違うだけよ。すれ違うだけなんだから。
ディノ様の視線が一瞬だけフィアに止まった。2人は何度も顔を合わせてる。でも声はかけられなかった。この場で侍女に声をかける理由がないと判断したのね。フィアも軽く会釈だけして、そのまま歩いた。
エトル様は、わたしの方を見なかった。
ローブを被った魔導師なんて、この廊下では風景の一部なんでしょうね。視界には入ったかもしれないけど。ただ、それだけ。
すれ違った。
背中が遠ざかっていく。あの歩き方。静かで、まっすぐで、無駄がないの。夜会で見た時と同じ。舞踏会で追いかけた時と同じ。ただ歩いているだけなのに、目が追ってしまうのよ。
話しかけたかった。
ご武運を、とひとことだけでも。でも、声を出した瞬間にこの変装は終わるのよ。フィアに約束もしたんだし。黙って見るだけだって。それに、五大貴族の令嬢が魔導師のふりをして勇者庁をうろついてたなんて知れたら、お父様の胃に穴が開くどころじゃ済まないんだから。
そのまま廊下の角を曲がろうとしたところで、後ろから声が聞こえた。
甲高い。切迫している。しかもよく通る。
貴族令嬢の声ね。しかも、社交の場で使う声じゃない。言い募ってる声よ。
「少しだけお時間をいただけませんか。ほんの少しだけでございます」
振り返ると、さっきすれ違ったはずのエトル様が、廊下で引き止められてた。
相手は若い令嬢だった。薄い紫のドレスに、宝石の耳飾り。髪は凝った巻き方をして、手には布で包んだ何かを持ってる。勇者庁の石の廊下にはどう見ても場違いな装い。贈り物を直接渡しに来たのね。後ろに家の使用人が1人控えてる。
エトル様は立ち止まって、丁寧に何か答えようとしてる。きっと、断るにしても相手を傷つけない言い方を選ぼうとしてる。ディノ様が横で苦い顔をしているのが見えた。でも、令嬢は止まらない。
「父がぜひ勇者様にお会いしたいと申しておりまして。それと、このお品はわたくしからの――」
長い。「少しだけ」と言っておいて、全然少しじゃない。面会の約束を取り付けようとしてるし、贈り物も直接渡そうとしてる。どっちも勇者庁を通さずに、廊下で直接。わたしが通達で止めようとしたのは、まさにこれよ。
顔が記憶にないから、イルデイン領の貴族じゃなくて他領の家ね。
身体の奥で、何かが熱くなった。怒りとは少し違う。もっと鋭くて、もっとまっすぐなもの。
わたしがイルデイン領の全家に出した通達を、この令嬢は知らない。勇者庁の正規経路を通すこと、直接のお渡しは家の恥だということ。何も知らない。知らないまま、エトル様の時間を奪っている。
ディノ様が口を開いたけど、すぐに閉じて何も言わなかった。令嬢の後ろには家の使用人がいる。ここで強く断れば、あとで『勇者の護衛に拒絶された』って歪んで広まる。ディノ様はそれが分かってるから、踏み込めない。エトル様も同じ。丁寧に、丁寧に、壊れ物を扱うように対応してる。あの人はいつもそうなのよ。正しくて、優しくて、だから付け込まれるのよ。
黙って見てればいい。他領の家に指図する権限はない。声を出したらバレるし、フィアと約束した。黙って見るだけ。頭では分かってるのよ。
フィアの手が、袖をそっと掴んだ。
振り返ると、フィアの目が「駄目です」と言っていた。声には出してない。でも目だけで全部伝えてきてる。
前を向くと、令嬢がエトル様の前に包みを差し出してた。エトル様の手が、受け取るでも突き返すでもなく、宙で止まっている。あの手が、あんなふうに迷っているのを見たことがなかった。この人は決断が速い人のはずなのに。困ってる。わたしが好きになった、あの静かで実直な人が、困っている。
フードの下で息を吸った。深く。胸の底まで。
一歩、前に出た。
フィアの手が袖を引いた。
ごめんね。
「失礼いたしますわ」
声が出た瞬間、廊下の空気が止まった。
自分でも驚くほど、声がするりと出てきた。お嬢様言葉の声。悪役令嬢の声。何度も社交界で場を凍らせた声。悪党を黙らせた声。制御しようとしたのに、身体が先に動いてた。
令嬢がこちらを向く。ディノ様の目がこちらに動く。
エトル様が、わたしを見た。
「勇者様たちへのご用件は、勇者庁の窓口をお通しくださいませ」
歩みは止めない。令嬢の前まで進む。フードの影で顔は見えないはずだけど、声だけで充分すぎるくらい伝わっているでしょうね。
「こちらで直接お渡しになりますと、かえってご自身の印象を下げてしまいますのよ。ご存じなかったかしら?」
令嬢の目が丸くなった。包みを持つ手が下がる。
「あなたはどなたなの? 私を誰だと――」
「勇者庁を通していただければ、きちんと記録され、きちんとお届けされますの。直接お渡しになるより、ずっと確実ですわ」
丁寧で、正しくて、断りにくい。善意の顔をしているのに、従わない方が悪く見えるような言い方。侍女たちに配った文言と、同じ論理。同じ切れ味。でも今は、紙の上の言葉じゃなくて、わたしの口から直接出てる。
令嬢がわたしを見つめてる。声を聞いたことぐらいはあるでしょうね。でも顔が分からない。どう対応すればいいか分からない。その迷いが、足を止めてる。
「あ、あなたはもしかして――」
「お気持ちは分かりますわ。ですが、勇者様たちのお時間は限られておりますの。ここでお引き止めすることは、ご厚意ではなく無作法ですのよ」
最後のひと押し。ここで引いてくれれば、この令嬢の体面も守れる。わたしが潰したいのはこの子じゃない。無秩序な行為の方なのよ。
令嬢が一歩下がった。包みを胸元に引き寄せて、少し俯く。
「……窓口に、出直しますわ」
小さな声だった。悔しそうだったけど、取り乱してはいない。この子は素直な方なのかもしれない。使用人と一緒に、廊下を戻っていった。
静かになった。
ディノ様が腕を組んだまま、こちらを見ていた。眉が片方だけ上がっている。あの表情は「知ってる声だ」と言ってる。フィアから聞いた話と照合しているのだろう。
そしてエトル様。
黒い目が、フードの奥を覗き込むように、こちらを見ていた。
ぶれない目。夜会の時も、舞踏会で一瞬だけ交わした時も、この人の目はいつもこう。流さない。ちゃんと見る。見てくれる。見られると、呼吸が勝手に止まっちゃうのよ。
もう、確実にバレてる。
フィアが後ろで小さく息を吐いた。音にはなっていなかったけれど、空気の動きで分かるのよ。「やっぱり喋りましたね」って。18年の付き合いだと、ため息の種類まで分かるのよね。
わたしはフードを少しだけ上げた。全部は取らない。髪は出さない。でも、顔だけ見せた。隠したまま逃げるのは、もっと格好悪いから。
「……失礼いたしましたわ。わたくし、少し見学に来ただけですの」
エトル様が、ほんの一瞬だけ目を見開いた。それから、いつもの静かな表情に戻った。
「ラテリナ様」
名前を呼ばれた。あの落ち着いた声で。石の廊下に、その声だけが静かに響いた。
「……変装してたのか」
ディノ様が額を押さえた。この仕草、フィアもよくやるんだけど、似た者同士なのかも。苦労人の連帯ね。
「してましたわ。すっかり台無しですけれど」
エトル様は、少しだけ口元が動いた。笑った、とまでは言えない。でも、険しくはなかった。困惑と、何か別のものが混ざっているような。そのまま、わたしに言った。
「先ほどの方へのご対応、ありがとうございました」
胸の奥がじわっと熱くなった。泣きそうなのとは違う。もっと深いところが、ぎゅっと掴まれるような熱さ。
ここで長話をしたらわたし自身がさっき令嬢に言ったことと矛盾する。勇者様たちの時間を奪わない。それがルール。自分で周知して、自分で守る。
「お気になさらないでくださいまし。勇者庁をお通しいただくのは、皆様のためですもの」
一呼吸おいて、言い足した。
「ご武運を、お祈りしておりますわ」
「はい。ありがとうございます」
本当はもっと言いたいことがある。明日出立されるのですね。お気をつけて。また王都にいらしてくださいませ。その時はもっと――。
全部飲み込んだ。今はこのひとことだけ。
お辞儀をした。短く、浅く。そして背を向けて歩き出した。
背中にエトル様の視線を感じる。振り返りたい。振り返って、もういちどあの目を見たい。でも、振り返ったら止まれなくなる。それが分かってるから、前を向いたまま歩いた。
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馬車の中で、フードを取った。
まとめてた髪がほどけて、背中に落ちた。ローブの中に閉じ込めていた自分が、やっと戻ってきた感じ。
扇がないのよね。口元を隠すものがないと、顔の管理が難しいのよ。今どんな顔をしてるか、自分でも分からない。
フィアが向かいの席から、わたしを見てた。
「喋りましたね」
「うん」
「約束してましたよね」
「うん、してた」
「してましたよね」
「でもね」
「でも?」
「あの人が困ってるのを、黙って見てることなんてできないのよ」
フィアが黙った。それから、小さく息をついた。怒っているのとは違う。呆れているのとも少し違う。わたしには分かる。「知ってました」ってことよね。
「お嬢様らしかったとは思います」
「褒めてるの?」
「半分くらいです」
「残りの半分は?」
「胃が痛いです」
わたしは少し笑った。フィアも笑った。笑ったら、なんだか色々なものが緩んだ。
エトル様の目を思い出した。フードの奥を見た、あの静かな目。驚いていたけど、嫌がってなかった。少なくとも、そう見えたのよね。見えただけかもしれないけど。でも、あの一瞬の目の動きを、わたしは忘れない。「先ほどの方へのご対応、ありがとうございました」って、たったそれだけ。でも、あの声で、あの目で言われたら、それだけで充分なのよ。
わたしがやったことは、自分のルールを守りながら、ルールを破る人を止めること。
次にエトル様が王都に戻った時に、わたしはもっと大きな舞台を用意する。整えた仕組みは、わたしがいなくても動き続ける。次に帰還された時には、イルデイン領だけじゃなくて、王都全体の流れが変わっているかもしれない。
そうなった時、エトル様はきっと思い出すのよ。最初にその流れを作ったのが誰かをね。ただの願望かもしれないけど。
種を蒔いて水をやって、それでも芽が出るか分からないのが、恋っていうやつなんでしょうね。わたしはそういう、結果がすぐに分からないものって得意じゃないの。帳簿みたいに数字で答えが出ればいいのに。
「お嬢様」
「なに?」
「明日は出立ですね」
「うん」
「見送りには行けませんよ。勇者庁が見送りの場を設けていないそうですから」
「うん。静かに出立されるんでしょ」
「はい」
「いいのよ。今日、見れたから」
窓の外を見ると、王都の屋根が夕焼けに染まってた。
明日の朝、エトル様たちは王都を去る。次にいつ戻ってくるかは、誰にも分からない。
「でもね、フィア」
「はい」
「次は、もっと上手くやるから」
フィアは少しだけ黙って、それから頷いた。
「はい。分かってます」
悔しくないかって聞かれたら、悔しいのよ。こんなに近くにいたのに、声を出せたのはたった数分。もっと話したかったし、もっと見ていたかった。
でも、わたしはルールを守ったし、ルールを破る人を止めた。それをエトル様に見てもらえた。
まだ仲間にはなれてない。踊ることもできなかった。
でも、種は蒔いた。次にあの方が王都に戻った時、芽が出ていればいいのよ。
ううん、芽を出すの。それがわたしの仕事なんだから。




