18.差配
侍女会議から2日後の朝。
食堂に向かう途中、廊下で侯爵家の侍女とすれ違った。お茶会の時に顔を合わせた方で、手には羊皮紙を持っている。朝のうちに報告を届けに来てくれたらしい。会釈を返しながら、足を速めた。
食堂に入ると、もう始まっていた。
通達と文言が届いた各家の侍女たちが動いて、報告が集まり始めている。食堂の長テーブルの上に羊皮紙が何枚も広がっていて、お嬢様は上座に座って、次々に判断を下していた。
戦場の指揮官みたいに――と言いたいところだけど、指揮官はもう少し静かだろう。お嬢様の場合は、前線が勝手に動くし、兵が口答えするし、しかも刻限がある。それを涼しい顔でさばいているんだから、見ていて少し背筋が冷える。
侍女の1人がテーブルの端に紙を置いて、お嬢様に声をかけた。
「侯爵家の奥方様、勇者庁経由に切り替えたそうです」
「切り替えてくださったのね。よかったですわ。お次は?」
お嬢様は紙を受け取ると、目を通すより先に次を求めた。読むのが速いのではない。読む前に構造が分かっているのだ。報告の形式は昨日の会議で揃えてある。だから中身を確認するだけで済む。
「子爵家の面会申し込み、重複していたものを片方に絞ったとのことです」
「どちらを残したの?」
「勇者庁経由です」
「正解ですわ。王宮経由は取り下げの文面を出してちょうだい。丁寧にね」
昨日集まった40人全員が来ているわけではないけれど、近隣の家の侍女が何人か、朝のうちに報告を持ってきてくれている。誰が来て、何を持ってきて、どう返すのか。その全てをお嬢様は紙の上で回している。回しているというか、配っている。情報を、判断を、言葉を。必要な場所に、必要な分だけ。
水瓶で水を汲んで配るのではなく、水路を作って流す仕事。お嬢様が言っていた『困っている方の周りを片づける仕事』が、今朝ようやく実物として見えた気がする。
別の侍女が、少し困った顔で口を開いた。
「伯爵家の奥方、まだ毎日使いを出しているそうです」
「文言どおりにお伝えしたのですか?」
「はい。『勇者庁経由の方が早い』と伝えたそうですが、まだ納得されていないと」
「では次の手ですわね」
お嬢様が扇の先でテーブルをとんと叩いた。考えているのではない。もう答えが出ている時の仕草だ。この方は時々、考える前に結論が出る。走り始めてから地面を確認する方と同じ理屈だろう。普通は転ぶのだけれど、お嬢様の場合はなぜか転ばない。
「『他の家はもう勇者庁経由に切り替えていらっしゃるそうでございます。我が家だけが直接お使いを出しておりますと、悪目立ちしてしまいます』。そうお伝えしてちょうだい」
侍女が頷いて下がっていく。私はそのやり取りを横で聞きながら、お嬢様の手順を頭の中で整理していた。
『正しいかどうか』が1手目。『早いかどうか』が2手目。そして『目立つかどうか』が3手目。1手目と2手目は理屈で動かして、3手目は感情で動かす。貴族にとっていちばん怖いのは『間違い』でも『遅れ』でもなくて、『自分だけ悪目立ちすること』だ。お嬢様はそこを分かっていて、段階を踏んでいる。
体面を武器にして、断った側が悪く見えるように仕向けて、空気で人を動かす。手法だけ切り取ったら、社交界の嫌がらせと区別がつかないかもしれない。
だけど、やっていることの芯は『全員が同じルールで動ける仕組みを作る』ということ。仕組みに乗らないものだけを、仕組みの外に見えるようにする。悪役の手法で、まっとうなことをやっている。
やっぱりお嬢様は怖い方だと思う。何度でも言いますけど。
報告が一段落した頃、お嬢様が紙の山の中から1枚を引き抜いた。眉がわずかに上がる。面白いものを見つけた時の顔だ。
「フィア。この家、イルデイン領の貴族じゃないのよ」
「はい。他領の男爵家ですね」
「通達が届いていない家だけど、イルデイン領の侍女経由で相談が来てるというわけね」
お嬢様は少しだけ笑った。口元だけが動く、計算が合った時の笑い方だった。私はこの笑い方をずっと見てきたけれど、『笑っている』というよりは『答え合わせに満足している』と思う。
「広がり始めてるのね」
これが侍女会議でお嬢様が言っていたことだ。イルデイン領の貴族がしていることは、他の領の貴族も見ている。自分もそうした方がいいと気づいた家が、向こうから相談に来る。通達の強制力ではなく、空気の力で動き始めている。
1軒の家が庭を整えれば、隣の家も自分の庭が気になり始める。お嬢様が最初に整えたのはイルデイン領だけだったけれど、整えた庭の見栄えが良いと、荒れた庭の方が目につく。お嬢様の狙いは、最初からそこにあったのだろう。
「うちから指図はできないけど、同じ文言をお伝えすることはできるのよ。『もしよろしければ、こちらの文言をお使いください』という形でね」
「押しつけではなく、お裾分けですね」
「うん。受け取るかどうかは向こうが決めることだけど、受け取った方が楽だと分かれば使ってくれるのよ」
押しつけではなく、お裾分け。お嬢様はそういう包み方が上手い。中身は同じ『こちらのやり方に従ってください』なのに、渡し方を変えるだけで受け取る側の気持ちが変わる。悪役令嬢の仮面と同じ理屈だ。見せ方を変えて、同じことを通す。
私はお嬢様の隣で紙を回しながら、食堂の風景を眺めていた。
昨日まで、ここはただの食堂だった。長テーブルと椅子があるだけの、食事を取るためだけの場所。それが今日は、窓から差し込む午前の光の下で、羊皮紙とお茶と侍女たちが行き交う、妙に品のいい指揮所のようになっている。
お嬢様は剣も魔法も使っていない。だけど、ここで起きていることは、王都の社交界の流れを少しずつ、でも確実に変えている。
誇らしい、と思った。
自分が何か大きなことをしたわけではない。私は繋いで、聞いて、紙を回しているだけだ。だけど、その紙の上でお嬢様が回しているものが、きちんと形になって返ってきている。水路を作ったのはお嬢様で、水を運んだのは侍女たち。私はその間を繋ぐ細い水路のようなもの。でも繋ぎがなければ水は届かない。
自分を細い水路に喩えるのはどうかと思うけれど、お嬢様の隣にいてこういう景色を見られるのは、役得といえるだろう。
「フィアマリナ、少しいいですか」
不意に名前を呼ばれた。声がした方向を見ると、食堂の入口に使用人が立っていた。
「勇者庁からお使いの方がいらしています。勇者パーティのディノ様が、お時間をいただきたいとのことです」
お嬢様が紙の山から顔を上げて、こちらを見た。来るべきものが来た、という顔だった。
私が勇者庁に呼ばれることは、仕掛けた結果が返ってくる段階として想定の範囲内なのだろう。罠に獲物がかかったかを確認しに行く係ですね、とは言わないでおいた。
---
勇者庁に着いた頃には、日が傾き始めていた。
職員に案内されて、前と同じ小部屋に通された。テーブルがひとつ、椅子が向かい合わせに2脚。窓がひとつ開いていて、外から風が入ってくる。この部屋に来るのはこれで3回目だ。1回目はイリーシャ様、2回目と今回はディノ様。回を重ねるごとに、座る時の重心が少し変わっている気がする。
少し待つと、ディノ様が入ってきた。
「フィアマリナ。急に呼んで済まないな。座ってくれ」
相変わらず愛想のない歩き方だった。
ディノ様が奥の席に座ったので、私も向かいに座る。
「聞きたいことがあるんだが」
「はい」
前置きがない。ディノ様はいつもそうで、必要なことから入る。
「ここ2日ほど、毎日来ていた使いがぱったり来なくなった。廊下で声をかけてくる連中も、何人かは挨拶だけで済ませるようになった」
ディノ様の目が、静かに鋭くなった。普段は帳簿を眺めているような淡さなのに、焦点が合った瞬間に刃物の冷たさになる。この方の目は、そういう切り替わり方をするんですよね。
「あんたのところの令嬢が、何かしたんだな?」
評価ではなく、確認だった。変化には気づいているけれど、誰が何をしたのかはまだ把握していない。前回もそうだった。『全部つながっている』と言った時の正確さ。この方は現場の空気の変化に対して、鼻が利く。原因が分からなくても、何かが変わったことには気づく。
「はい。お嬢様がイルデイン領の貴族全家に通達を出しました。勇者庁の正規経路を通すこと、という内容です。同時に、各家の侍女宛に、主人を止める際の文言を配りました」
「通達、か」
「はい。イルデイン家の名前で、領内の全家に対してです」
ディノ様は少し黙った。情報を一つずつ確かめるように、正確に飲み込もうとしている沈黙だった。
「公爵家の通達か。道理で効くわけだ」
このひとことに、いくつかの意味が重なっていた。公爵家の権限を使ったことへの納得。それが正規の手順であることの確認。そして、それを思いついて実行した人間への、まだ言葉にならない何か。
「お嬢様は、自領の貴族に指示を出すのは当主の娘として当然の権限だとおっしゃっています」
「そりゃそうだな」
ディノ様は腕を組んだ。表情は相変わらず読みにくいけれど、前に会った時のような『全部が詰まっている』という疲労感は薄まっている。荷が詰まった棚から、いくつか荷を下ろした後の顔、という感じだろうか。棚自体はまだ重いけれど、少なくとも新しい荷を置く場所ができた。
「それで、他の領の家は?」
この質問が出ること自体、ディノ様がきちんと先を見ている証拠だ。自領だけ整えても、他領が散らかっていたら効果は限定的。そこまで考えた上で聞いている。
「通達は届いていません。ですが、イルデイン領の家がルールを厳守していることが広まり始めて、イルデイン家に相談してくる家が出始めています」
「波及してるのか」
「はい。空気が変われば他の家もついてくるとのことです」
ディノ様はしばらく考えてから、短く頷いた。
「なるほどな」
それだけだった。この方が「なるほど」と言う時は『納得した。認めた。でも言葉にはまだしない』という意味だ。
お嬢様に伝えたら「なるほど止まりなの?」と言うだろうけれど、あの方の「なるほど」は軽くないんですよね。次に会った時には、きっともう一段階進んだ言葉が出てくる。重い扉を少しずつ押し開けるタイプの方だ。
「この話は上に報告する。そうなれば、正式に確認したいと連絡がいくだろうな」
これは警告ではなく、予告だ。先に教えてくれるのは、この方なりの気遣いなのだろう。
「俺の話は終わりだが、そちらからは何かあるか?」
「いえ、充分です。ありがとうございました」
「分かった。では送ろう」
それだけ言って、ディノ様は立ち上がった。言葉を無駄に使わない。必要なことを必要な分だけ渡して、終わったら切る。お嬢様が必要な量の3倍は喋る方なので、並べると落差が際立つ。
私も立ち上がると、ディノ様は先に扉を開けて廊下に出た。
送ると言っても、並んで歩くわけではない。半歩前を、いつもの愛想のない歩き方で進んでいく。これがこの方なりの礼儀なのだろう。不器用だけれど、不快ではない。
廊下に出たところで、クランベル様が壁にもたれていた。いつからいたのだろう。この方はいつも、廊下の壁に最初から描いてあったかのような、そういう自然さで立っている。
「ディノ。またフィアマリナさんを呼び出してるの?」
「呼んだんじゃない。来てもらっただけだ」
「同じだよ」
ディノ様が面倒そうに返すのに、クランベル様は目を細めて笑っている。
「しかも送ってあげるんだ。優しいね」
「送ってるんじゃない。方向が同じなだけだ」
「ふうん」
そのまま楽しそうに壁から背を離した。ディノ様が2回否定するのを、2回とも軽く受け流す。クランベル様は常にこうだ。自分の手は見せないまま、他人の手を楽しそうに眺める。参謀というより観戦者。でも、観戦者のくせに時々ひとことだけ横から口を出してくるから、油断ならないんですよね。
「フィアマリナさん」
「はい」
「ラテリナ嬢、忙しそう?」
「はい。とても」
「楽しそう?」
少し考えた。正確に答えるなら、楽しいだけではない。でも、楽しくないかと言われると、それも違う。
「はい。とても」
「ふふ。そうだろうね」
クランベル様はそのまま廊下の奥に消えていった。歩く音がしない。この方は本当に、壁に描いてある絵なのかもしれない。
ディノ様は黙って歩き続けていた。クランベル様のからかいには何も返さない。でも、足は止めなかった。勇者庁の出口まで、そのまま送ってくれた。
---
帰りの馬車の中で、窓の外を見ながら頭の中を整理した。
ディノ様は変化に気づいていた。私に確認をして、何が起きたかも把握した。評価はまだ言葉にしなかったけれど、否定もしなかった。「なるほどな」が今日いちばんの収穫だった。
そして、勇者庁の上にこの件が報告される。正式な連絡が来る前に、ディノ様が先に教えてくれた。
お嬢様が聞いたら、間違いなく目が輝く。計算と情熱が同時に走る、あの目になる。
お茶を出すのは、報告の前にした方がいいかもしれない。でないと、カップに手をつける前に立ち上がりかねない。お嬢様の行動速度は、良い知らせを受け取った直後がいちばん危険なんですよね。
馬車が屋敷の前に着いた。
歩きながら、報告の順番を考えた。まずディノ様の反応。次に勇者庁の話。順番を間違えると、勇者庁の話でお嬢様が点火して、ディノ様の反応を聞く耳がなくなる──というのは少し前のお嬢様の話か。
食堂の扉を開けると、お嬢様はまだ同じ場所にいた。紙の山は朝より増えている。散らかっているのではなく、積み上がっている。処理済みの山と、これからの山が分かれていて、お嬢様はその境目に座っている。
朝は指揮所だと思ったけれど、今は少し印象が変わっている。紙と文言で組み上げた、社交界の砦のようだった。お嬢様はその砦の中心で、まだ働いている。
「おかえりなさい」
お嬢様が顔を上げた。目の下に少しだけ影がある。長時間、紙を見続けていた証拠だ。でも、疲れてはいない。むしろ冴えていると思う。
「で、何だったの?」
私はまずお茶を淹れた。お嬢様が怪訝そうにこちらを見る。
「先にお茶を」
「なんでよ」
「報告を聞いたら手が止まらなくなると思いますので」
「失礼ね。そんなことないし」
そんなことあるんですけど。18年の経験が言っている。
お嬢様がお茶をひとくち飲んだことを確認してから、報告を始めた。
「ディノ様が変化に気づいていらっしゃいました。毎日来ていた使いが来なくなったこと、廊下で長話をする貴族が減ったこと。お嬢様の通達の話をしたら『道理で効くわけだ』と」
「ふうん」
「それと、ディノ様がこの件を勇者庁の上に報告するそうです。そうなれば、正式に確認の連絡が来るだろうと」
お嬢様の手が止まった。カップを持ったまま、視線が宙に固定される。情報を受け取って、処理して、判断を組み立てている。
「勇者庁が、わたしに?」
「はい。これはディノ様の予想の話ですが、お嬢様が出した通達が勇者庁の業務に影響を与えていますから、正式に把握しておきたいのだろうと」
お嬢様の目が光った。予想はしていたけれど、それでもやはりこの速さには驚く。報告が終わる前に、もう頭の中で動き始めている。
「そういえば」
お嬢様がカップを置いた。
「勇者庁ってどんなところなの?」
「え」
「わたし、行ったことがないのよ。フィアの話だけで動いてきたけど、いちどは自分の目で見てみたいのよね」
「お嬢様が勇者庁に行ったら、確実に目立ちますよ」
「だったら、分からないように変装すればいいじゃない」
「五大貴族の令嬢が変装してる方が逆に目立ちますよ。すぐにバレますから」
「なんで変装がバレる前提なのよ」
「そのピンクブロンドの髪は、イルデイン家の看板のようなものですから」
お嬢様は一瞬だけ考えて、すぐに切り替えた。
「じゃあ髪を隠せばいいのよね。魔導師のローブならフードも深いし、この出るとこ出てる身体の線も隠せるでしょ」
「魔導師、ですか」
「わたし、魔法使えるし。嘘ではないでしょ」
「使えるのと魔導師なのは別の話ですけど」
「細かいのね」
止めても無駄だろう。もう行くことが決まっている。
「お嬢様。行くのは構いませんが、ひとつだけいいですか」
「なに?」
「絶対に喋らないでください。声でバレますから」
「わたしって声に特徴あるの?」
「あります」
「そんなに?」
「はい。特に、お嬢様言葉の声は」
お嬢様は少し唇を尖らせたけれど、否定はしなかった。自覚はあるらしい。
「あと2日ですね」
「うん。分かってる」
「お茶、冷めますよ」
「……ん」
カップを持ち直してひとくち飲むと、またすぐ紙に目を落とした。この方にとって、お茶は燃料の補給であって休憩ではないのだろう。
やることが変わっても、隣にいるのは変わらない。
明日、お嬢様は勇者庁に行く。変装して、魔導師の格好で。
……止められなかった時点で、私の負けですね。




