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14.聖女の秤

 ノックを2回。いつもの間隔で。


「入って」


 昨日のお嬢様は、悔しさと確信が半々だった。

 悔しい方は目に出ていて、確信の方は声に出ていた。どちらが本音かと聞かれたら、どちらも本音だと思う。あの方は感情を1種類ずつ出すような器用さを持ち合わせていない。

 一晩経って、お嬢様がどうなっているか。沈んでいるか、燃えているか。聞くまでもない気はするけれど。


 扉を開けると、お嬢様はテーブルに向かっていた。昨日はなかった羊皮紙が3枚。いつ書いたのだろう。寝る前か、起きてすぐか。どちらにしても、頭の回転が止まっていない。止まらないのがこの方の長所で、止めるのが私の仕事だ。長所の始末をする係。手当に見合っているかは考えないことにしています。


「おはようございます」

「おはよう、フィア」

「お茶を持ってきました」

「ありがとう。置いといて。座って」


 一瞬こちらを見たお嬢様の顔が、いつもと違った。

 子どもの顔ではない。おもちゃ箱を開ける前の顔でも、悪戯を思いついた顔でもない。帳簿を読んで相手の急所を見つけた時や、イカサマ神父の嘘を破った時のような、悪役令嬢が本気で仕事をしている時の顔だった。


 今回は相手が悪党ではなく、正しくて忙しいだけの方だ。同じ切れ味の目で、違う相手に向かっている。それが少しだけ面白くて、少しだけ心配でもある。


「お嬢様、その紙はなんですか?」

「昨日の反省と、これからの案。次の段取りよ」

「3枚もありますけど」

「足りないくらいよ」


 悔しさはまだある。だけど、すでに素材として組み込まれている。昨日の帰りの馬車で窓の外を見ていた、あの生の悔しさとは違う。一晩で、計画の中に溶けていた。鷹が獲物を見失ったあと、巣に戻らずに高度を上げ直す、あの切り替えに似ている。


 お嬢様が3枚目の紙を裏返したところで、扉を叩く音がした。


「お嬢様、勇者エトル様のお仲間である聖女イリーシャ様のお使いの方がお見えです。フィアマリナにお時間をいただきたいとのことです」


 イリーシャ様が、お嬢様ではなく、私を?


「今度はイリーシャ様がお会いしたいみたいね」

「ディノ様のときのようにですか?」

「たぶんね。聞いてきて」


 イリーシャ様は舞踏会にもいらしていた。あの場でのお嬢様の動きも見ていたはずだ。それで今、私に会いたいということは、何か確認したいことでもあるのだろうか。


---


 午後の勇者庁は、前に来た時と同じ空気だった。

 お嬢様の言った通り、イリーシャ様ご本人が会いたいとのことだった。


 石造りの建物の中は少しひんやりしていて、廊下には書類を抱えた役人がすれ違う。前にディノ様に呼ばれた時は中庭だったけれど、今日は受付で名前を告げると、奥の小部屋に通された。


 応接室、とまでは言えない広さだ。テーブルが1つと、椅子が向かい合わせに2脚。窓が1つ開いていて、外から風が入ってくる。壁は石だけど、光の入り方で圧迫感はない。テーブルの上にはお茶が用意されていた。


 少し待つと、扉が開いた。

 イリーシャ様だった。


 亜麻色の髪をきちんとまとめて、白い修道服に近い衣装。優しい聖女様というよりは、見透かす聖女様。この方の前では、曖昧な嘘は居場所をなくすのだろう。


「フィアマリナさん。来てくれてありがとうございます。お座りになって」

「失礼します」


 椅子に腰を下ろし、背筋は伸ばしておく。お嬢様の隣で過ごした年月のおかげで、こういう場での姿勢だけは板についた。ほかに何が身についたかと聞かれると困るけれど。毒耐性とか、不意打ち耐性とか。列挙してみると、結構身についていますね。


 イリーシャ様は向かいに座って、少しの間こちらを見ていた。値踏みとは違う。距離感を測っているのだろう。この方にとってどこまで話していいか、その線を引いている。


「お茶会のときから、あなたと話してみたいと思っていたんです」


 少し意外だった。お嬢様のことを聞きたいのだと構えていたけれど、最初のひとことが私に向いている。


「お嬢様のお茶会のときですか」

「ええ。ラテリナ様の後ろにいらしたでしょう。あの方が暴走しかけるたびに、小さく咳払いをしたり、空気を整えたりされていましたよね」

「お恥ずかしいです」

「いいえ。主を見れば人が分かるけれど、傍にいる人を見れば、もっとよく分かります」


 なるほど。この方はお嬢様だけでなく、お嬢様の周りごと観察していたんですね。


「昨日の舞踏会も、大変だったでしょう」

「……どのあたりでしょうか」


 聞き返すと、イリーシャ様の口元がわずかに動いた。笑った、でいいのだろうか。この方の笑いは幅が狭い。でも狭いぶん、本物だと思う。


「全部、ですね」


 ですよね。


「ええ、まあ、はい」

「ラテリナ様、あの場でもずっと本気でいらっしゃったでしょう」

「そうですね。本気ではないときのあの方を見たことがないので、比較が難しいのですが」

「ふふ」

「それはもう、本気も本気。いつもより特別本気でした」


 イリーシャ様はお茶に手を添えたまま、少し間を置いた。それから、少しだけ声の温度を落とした。


「正直に言いますとね」

「はい」

「弟は、見た目で人を惹きつけるような子ではないですから。魔王を討ったという勇者の肩書きを外したら、ただの真面目な青年です」


 それは、姉としての声だった。肩書きの外にいる人間を知っている声。


「名声に人が集まるのは、もう慣れています。でも、ラテリナ様のような方が、本気で弟に惹かれるというのが、最初は信じられなかったのですよ」


 ラテリナ様のような方。その言い方に含まれているものは分かる。五大貴族の令嬢で、非の打ち所がない美しさを持ち、自分で道を切り開ける人。エトル様以外に選択肢はいくらでもあるはずという意味だ。


 私は少し考えて、正直に答えることにした。この方相手に嘘を混ぜても、水に墨を垂らすようなもので、すぐに広がって見つかる。


「お嬢様は、旦那様にも奥様にも早く相手を見つけるよう言われています」

「ええ」

「王族から求婚されたこともあります」


 イリーシャ様の眉がわずかに動いた。


「ですが、即日蹴りました」

「蹴りましたか」

「はい。理由は聞いていませんが、興味がなかったのだと思います。あの方にとって、家格も肩書きも、判断基準の頂点には来ないのです」


 これは私がずっと見てきたことだ。お嬢様は人を測る時、相手が何を持っているかではなく、相手が何をする人間かを見る。帳簿で不正を見抜く時と同じ目で、人の中身を見る。だから悪党の嘘は見逃さないし、真摯な人間も見逃さない。


「ですが、よりによって、自分からエトル様に向かって走っていきました。仲間にしてくださいと初対面で申し込んで、断られて、それでもまだ走っています」


 イリーシャ様が黙った。考えている、というより、答え合わせをしている様子だ。自分の中にあった仮説と、今聞いた話を照合している。


「つまり、肩書きではないのですね」

「はい。エトル様ご本人に惹かれていらっしゃいます」


 言い切った。言い切れた。これだけは嘘ではない。お嬢様の動機について、私が確かに言えることだ。あの人は真の勇者という肩書きに惚れたのではなく、エトルという人間に惚れた。そこだけは、傍で見てきた私が保証できます。


「面白い方ですね」


 嫌っている相手を『面白い』とは言わない。『迷惑』で止まる。面白い、というのは、少なくとも観察する気があるということだ。


「あなたにとっては面倒でもあるでしょうけど」


 イリーシャ様が付け足した。


「はい。とても面倒です」

「否定しないのですね」

「事実ですので」


 イリーシャ様が、今度ははっきりと笑った。本当に笑う幅が狭い人だ。でも、そのぶん1回ごとの笑いが確かに存在している。作れない笑いだと思います。


「舞踏会では結局、弟と踊れなかったようですけれど」

「ご覧になっていましたか」

「全てではありませんが。エトルは、ああいう場だとどうしても捕まるのです。本人が望んでいないというより、立場がそうさせるのですね」

「そうですね。昨日、それは嫌というほど見ました」


 勇者庁、王宮の要人、有力貴族。どれも正当な相手で、どれも断れない。断らないのがエトル様なのだと思うし、正しく忙しい方だ。お嬢様が昨日悔しがっていた理由が、ここに全部ある。


「ですから、昨日のことを『拒絶された』とは受け取らないでほしいのです」

「……はい」

「あれはエトルの意思ではなく、王宮の都合が入ってしまっただけだと。ラテリナ様に、そうお伝えいただけますか」


 一瞬、言葉が出なかった。

 驚きが先に来て、そのあとに『これをそのまま伝えたらお嬢様が燃え上がる』という確信が来た。燃え上がるというか、発火しますね。物理的にではないけれど、体感としてはそれに近い何かが起きてしまいます。


「お伝えしたら、お喜びになられます」


 私がそう言うと、イリーシャ様はあっさり頷いた。


「それでいいと思います」

「頑張る理由が増えるのは確かですが、その頑張り方が騒がしい方です」

「それは、本当にそうですね」


 この方は、穏やかな顔でこういうことをおっしゃる。厳しいだけではない。見ているし、笑うし、困ってもいる。エトル様のお仲間の中でいちばん『人の温度』を測れるのは、この方なのだ。測って、記録して、必要な時に正確に返す。聖女というより、精密な秤だ。聖女様に秤は失礼だけど、褒めてます。


「あの、イリーシャ様」

「なんでしょう?」

「皆様方は、まだしばらくは王都にいらっしゃるんでしょうか。詮索ではなくてですね、お嬢様の行動計画に関わりますので」

「行動計画」

「はい、行動の計画です」

「それは、関わるでしょうね」


 イリーシャ様は少しの間窓の外を見て、こちらに視線を戻した。


「正式に発表された話ではないのですけれど。王都での報告と挨拶が済んだら、また動くことになると思います」

「やはりですか」

「魔族の残党討伐もありますし、各地との調整もあります。長くは留まれないのです」


 胸の奥が、少しだけ冷えた。

 分かっていたことだ。エトル様たちは王都の飾りではない。舞踏会に出て、挨拶をして、令嬢に囲まれて終わる方たちではない。勇者としての仕事がある。


 つまり、時間には限りがある。お嬢様がいつもの速度で走って、失敗して、悔しがって、また走り直す時間は、思っているほど残されていない。


「教えてくださって、ありがとうございます」

「フィアマリナさん」

「はい」

「よく見ていますよね」

「……そうでしょうか」

「ラテリナ様のことも、周りのことも」

「見ていないと、壁に向かって走っていくのがお嬢様ですので」


 反射で言ってしまった。でも、イリーシャ様は小さく笑っただけだった。


「その調子で、支えてあげてくださいね」

「はい」


 支える、と言えば聞こえはいいけれど。本来のお嬢様は自分で扉を見つけられる方だ。だけど速度が落ちないので、扉を通り過ぎないように見張る係はまだまだ必要なんですよね。


---


 勇者庁を出て、馬車に揺られながら、私は頭の中で報告の順序を組んだ。


 イリーシャ様の評価は『面白い方』。

 舞踏会については『見ていた』。

 エトル様については『拒絶されたと思わないで』。

 そして――時間がないこと。


 お嬢様はこれを聞いたら、すぐに計画を組み直すだろう。あの方は感情を次の1手に変えてしまう。その切り替えの速さに助けられることもあるけれど、全てを注ぎ込んでしまっていないかと、心配になることもある。


 だけど、あの方の目には、悔しさが残っている。昨日の帰りの馬車の中、扇を握ったまま窓の外を見ていたあの横顔。あれは、次の1手ではなかった。ただ、悔しかっただけだ。ああいう顔を見ると、この方はちゃんとした人間なんだなと思う。


 それでいい。少しくらい、ただ悔しがる時間があった方がいい。

 帰って報告したらすぐに計画に変わるんだろうけれど。


 馬車の窓から屋敷の門が見えた。

 今日のこの報告は、朗報であると同時に、終わりの始まりでもある。


 エトル様たち、もう長くは王都にいられないそうです。


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