9話 触れてはいけない華 ― 記憶の代償 ―
「触れてはいけない華」。
それは、愛と記憶を秤にかける“迷宮の罠”。
誰かを救うために、何かを失わなければならない――
女神アリエルの最後の意志が、三人の運命を試す。
迷宮の奥、光も届かぬ静寂の階層。
そこに、ひとつだけ鮮やかな色が咲いていた。
――黒紫の花。
まるで夜そのものが形を取ったかのような、美しすぎる華。
「……なんだ、あれ」
リリアが剣を構える。
花弁からは淡い光が漂い、空気が静電気のようにざわめいていた。
「危険……触れちゃダメ」
セレナが低く言った。
彼女の瞳は、魔力の流れを見通す“叡眼”の光を帯びている。
「“触れてはいけない華”――記録にあった。
アリエルが遺した最後の試練。
触れた者は、“一番大切な記憶”を奪われる」
「記憶を……?」
カイの胸が、どくんと脈打った。
女神の残した封印。
そこに眠るのは、愛の呪いそのものだった。
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しかし、運命は残酷だった。
足元の岩が崩れ、リリアがよろめく。
バランスを崩した彼女の手が、華の花弁に――触れた。
「――っ!」
光が弾け、風が巻き起こる。
リリアの体が一瞬光に包まれ、そして、何事もなかったかのように立ち尽くした。
「リリア!? 大丈夫か!?」
「……あれ? カイ……?」
彼女の目が、空を泳いだ。
そこに、俺を“知らない”視線があった。
「お前、誰……?」
その瞬間、胸の奥が凍りついた。
――彼女は、俺の記憶を失った。
たった一輪の華に触れただけで。
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セレナが駆け寄り、涙をこらえながら魔法を展開する。
「ダメ……記憶の系統が完全に断ち切られてる。
呪いのレベルが違う。封印じゃなく、“代償”そのものよ」
「代償……?」
「アリエルが言ってた。愛と契約は、常に“何かを失う”って」
リリアは混乱したまま、セレナにしがみついた。
「セレナ……ここ、どこ? 私たち、何してるの?」
「リリア……っ」
セレナの表情が崩れ、涙が落ちた。
カイは拳を握りしめ、華を見つめる。
「どうすれば、戻せるんだ……?」
そのとき、風のような声が響いた。
――『戻したいなら、また“触れろ”』
「アリエル……!」
女神の残響が、迷宮の壁にこだまする。
『触れればいい。ただし、奪われるのは“お前の記憶”。
お前がリリアを覚えている限り、彼女は思い出せない。
どちらかが忘れねば、愛は釣り合わない。』
冷たい声が胸を貫いた。
選択の余地は――ない。
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カイは一歩、華に近づいた。
セレナが叫ぶ。
「カイ、ダメ! あなたまで失ったら――!」
「彼女が俺を忘れたまま苦しむ方が、ずっと……嫌なんだよ」
そう言って、手を伸ばした。
花弁に触れる瞬間、光が弾ける。
心の奥から何かが引き剥がされる感覚。
“出会いの記憶”
“戦いの日々”
“笑い合った夜”
全てが、薄れていく――。
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光が収まると、リリアが倒れ込んでいた。
セレナが抱きとめ、息を呑む。
「……記憶が……戻ってる……!」
だがそのすぐ隣で、カイが膝をついた。
「……リリア?」
「カイ!? 思い出した……全部……! でも、どうして――?」
カイは微笑んだ。
「よかった……戻ったんだな」
「そんな顔しないで……カイ……?」
――彼は、もう彼女の名前を覚えていなかった。
⸻
焚き火の明かりの中で、セレナは小さく呟く。
「“触れてはいけない華”……それは愛の試練。
誰かのために、何を忘れられるか――」
カイは静かに夜空を見上げる。
目に映る星の数も、どこか懐かしいのに名前が出てこない。
ただ、胸の奥が温かい。
“誰かを守れた”という確かな想いだけが、残っていた。
“記憶”という愛のかたち。
カイはリリアを救ったが、彼自身の想いはもう彼女には届かない。
だが、セレナの瞳にはまだ涙が残っている。
その理由は、誰も知らない。
次回、第十話――
「再会の夜 ― 忘れられた想い ―」




