19話 帰還の朝 ― 女神なき世界で ―
リリアを失った夜のあと、アレンたちは“女神のいない世界”に帰還する。
だがそれは、かつての故郷ではなかった。
加護を失った王都は荒れ、人々は祈りを忘れ、ただ生き延びることだけを願っている。
胸の中に残る“空白”。
失われたはずの記憶の奥で、アレンは誰かを探していた。
――彼女の名も、声も、もう思い出せないのに。
「俺は、何を失ったんだ……?」
この章では、失われた日常と“喪失の静けさ”が描かれる。
そしてラストで、遠い場所で目を覚ます“彼女”が再び物語を動かし始める。
絶望の朝は、やがて再誕の夜明けへと変わっていく――
夜が明けた。
だが、世界はどこか灰色に沈んでいた。
アレンが目を覚ますと、焚き火はすでに消え、冷たい風が頬を撫でていた。
辺りには誰もいない。
セレナも、カイも、そして――リリアの姿も。
彼は胸に違和感を覚えた。
心臓の奥が、何かを失ったように空っぽだった。
「……俺は、何を……探してた?」
言葉にしても、霧のように溶けて消える。
焚き火の跡に落ちていた“白い花”を拾い上げても、どうしてか涙がこぼれた。
その理由を、彼は知らない。
「アレン!」
後ろからセレナの声が響いた。彼女は息を切らせ、険しい顔で駆け寄ってくる。
「もう、勝手に動かないで! この辺り、魔物の反応が増えてるのよ!」
アレンは振り返り、ぼんやりと頷いた。
セレナは眉をひそめ、彼の手に握られた花に気づいた。
「それ……どこで?」
「ここに落ちてた。……なんだか、懐かしい気がする」
「……そう」
セレナは一瞬、言葉を失う。
“女神の涙”――その名を、彼女だけは知っていた。だが、それを口に出すことができなかった。
この世界では、忘れられた者の痕跡を思い出すこと自体が、禁忌だからだ。
「行こう、セレナ。……早く、王都へ戻らないと」
アレンが背を向ける。
セレナは小さく頷き、歩き出した彼の背を追った。
風が吹き抜けるたび、彼の手の中の白い花びらが震える。
その震えが、まるで“彼女”の声のように思えた。
⸻
数日後――。
王都ヴァルティア。
城壁の外には、数百人の民が集まり、崩れゆく女神像を見上げていた。
“女神の加護”が消えたのだ。大地は裂け、祈りは届かなくなった。
アレンたちが帰還したとき、街は沈黙に包まれていた。
王の代理を務める老司祭が、疲れ果てたように言った。
「……封印都市は、どうなった?」
アレンは俯いたまま答える。
「……消えました。すべて、光の中に」
「そうか……では、女神は……」
「……わかりません。ただ……彼女は、もう戻らない気がします」
老司祭の目が静かに揺れた。
「そうか。ならば、我らは“女神なき世界”を生きねばならぬということじゃ」
その言葉に、アレンは顔を上げた。
胸の中で、なぜか一つの言葉が響いていた。
――『また、逢おうね』。
誰の声かもわからない。
けれど、その響きだけが、彼を前へ進ませた。
⸻
夜、王都の塔の上。
セレナが月を見上げながら言った。
「ねえ、アレン。これから、どうするの?」
「……まだ、わからない。でも……探したい気がする」
「探す?」
「そう。何かを。誰かを。……この花の“主”を」
手の中の白い花が、月明かりに透けて光る。
セレナはその姿を見て、心の奥に小さな痛みを覚えた。
自分でも理由はわからない。ただ、アレンのその瞳の奥に、誰かの影を見た気がした。
「ふふ、そう。……じゃあ、私も付き合う」
「セレナ……」
「あなたひとりに任せるのは、心配だから」
アレンが微笑む。
風が吹き、塔の鐘が鳴った。
その音は、まるで“新しい物語”の始まりを告げるかのように響いていた。
⸻
そして、夜空の彼方――。
失われた記憶の深淵で、ひとりの少女が目を覚ます。
名もなき神殿。
彼女は静かに呟いた。
「アレン……?」
その声は届かない。
だが確かに、二つの魂は再び動き始めていた。
“女神なき世界”で、
新たな運命が交わる――
「女神なき世界で」――この章のタイトルは、リリアを喪っただけでなく、信仰そのものを失った人間たちの姿を象徴しています。
彼女がいなくなったあと、アレンは“彼女の記憶が抜け落ちた世界”を歩いています。
しかし、失われたものは、決して“消えた”わけではない。
物語の裏側では、リリアが“女神の欠片”として転生しようとしています。
彼女の意識はまだ眠っている――だが、アレンの心の奥に残った“微かな記憶の光”が、それを呼び覚まそうとしているのです。




