18話 忘却の聖杯 ― 失われた誓い ―
女神の封印都市を後にしたアレンたち。
彼らの旅は終わりを迎えるどころか、さらに深く、痛みに満ちた選択の時へと進んでいく。
仲間のひとり、リリアに刻まれた“黒き聖印”。
それはただの呪いではなく、記憶と引き換えに力を得る“忘却の聖杯”の契約印だった。
誰かを救うために、自分を失う。
愛する者を守るために、すべてを手放す。
この章では、リリアとアレンの絆が、もっとも残酷な形で試される。
そして、失われた誓いの果てに、新たな物語の扉が静かに開く――
夜風が、山脈の稜線をなぞるように吹き抜けていた。
月は欠け、雲の隙間から淡い光を零している。焚き火の赤が、わずかに仲間たちの顔を照らしていた。
「……リリア、顔色が悪い。やっぱり、無理してるんじゃないか?」
少年――アレンは、焚き火の向こうで膝を抱える少女に声をかけた。
リリアはうっすらと笑った。
「……だいじょうぶ。少し、寒いだけよ」
だがその手は震えていた。火の熱にもかかわらず、彼女の頬は青ざめ、胸元のペンダントが微かに脈動している。
セレナがそっと寄り添い、彼女の背中に手を当てた。
「リリア……また、印が疼いてるのね」
「……ええ。もう隠せそうにないわ」
衣の下から、黒い光が滲む。まるで墨が皮膚の内側を流れていくように。
その中心に、円環の印――古文書で見た“忘却の聖杯”の象徴が浮かび上がっていた。
アレンの表情が険しくなる。
「まさか、封印都市で……おまえ、あのとき」
「……ええ。あのとき、女神の声が聞こえたの。
“代償を払う覚悟があるなら、仲間を救え”って」
沈黙が降りる。
リリアは焚き火の光に手をかざしながら、遠くを見つめた。
「だから私は契約したの。――自分の“記憶”を代償に、あなたたちを生かすって」
「……そんなこと、俺は頼んでない!」
アレンが立ち上がる。拳が震え、唇が震えていた。
リリアは静かに首を振る。
「知ってる。でも……あなたの“あの顔”を見たら、どうしても放っておけなかったの」
「俺の……顔?」
「泣いてた。誰かを失う恐怖に、子どものように泣いてた。だから――私が守るって、決めたの」
その言葉に、アレンは何も返せなかった。
ただ、風の音と、火の爆ぜる音だけが夜に響いた。
やがて、リリアはそっとアレンの手を取った。
「ねえ、もし私が――この先、あなたを忘れてしまったら」
「そんなこと……言うなよ」
「いいの。聞いて。もしそうなったら、あなたは私を……嫌いになってもいい。でもね」
リリアは涙を堪えながら、微笑んだ。
「そのとき、もう一度……出会って。私を好きになって」
アレンはその言葉に、息を呑む。
言葉にならない想いが喉の奥で詰まる。
「……約束する。何度でも。たとえ、おまえが俺を忘れても――俺は、もう一度、好きになる」
月光が二人の影を重ねる。
リリアの胸の印が、静かに光を放った。
「ありがとう、アレン……」
その瞬間、黒い光が爆ぜ、彼女の体を包み込む。
アレンは思わず手を伸ばすが、触れた瞬間、記憶が溶けていくような感覚に襲われた。
名前。声。笑顔。
全てが霧に変わり、指の間から零れ落ちていく。
「リリア……! 待ってくれ――!」
最後に聞こえたのは、彼女の優しい声だった。
「また、逢おうね……」
光が消えたとき、そこにはもう彼女の姿はなかった。
代わりに、焚き火のそばに一輪の白い花が落ちていた。
それは――“女神の涙”と呼ばれる幻の花。
セレナが静かにそれを拾い上げ、震える声で言った。
「彼女は……忘却の聖杯に選ばれたのね」
アレンはただ、夜空を見上げていた。
誰も言葉をかけられない。
月が沈み、夜が明ける。
そして、空が薄明るくなる頃、
彼は呟いた。
「リリア……俺は、もう一度、おまえを見つける」
風がその言葉を運び、遠くへ消えていった。
その先に、まだ見ぬ“帰還の朝”が待っていることを、誰も知らなかった。
リリアの“消失”は、この物語の大きな転換点です。
彼女は死んだわけではなく、“忘れられる存在”となった。
アレンの記憶からも、仲間の記憶からも、少しずつ彼女の輪郭が薄れていく。
しかし――物語のどこかで、彼女はきっと再び現れます。
名も知らぬ少女として、あるいは敵として。
彼女が“女神の欠片”の一部を宿していることは、まだ誰も気づいていないのです。
次章、
第十九話『帰還の朝 ― 女神なき世界で ―』。
世界は光を失い、アレンたちは“希望”という名の迷宮へと歩き出す――




