目覚める指導者
これは悪い夢だと、心の底から思いたかった。
目を覚まして鏡を覗いた瞬間、自分の姿がムアンマル・カダフィその人になっていたのだから、冗談にもほどがある。こんな最悪の目覚めがあるだろうか?
「まずは……誰に相談すべきか」
重苦しい空気の中、カダフィとなった彼は腕を組み、寝室を歩き回った。頭に真っ先に浮かんだのは「バクル」の名だった。カダフィが政権を握ってからというもの、常に忠誠を尽くし続けてきた男である。
不可解なことに、体がカダフィになったせいか、彼が生きてきた経験や知識が頭の中に流れ込んできていた。知りたくもないことまで鮮明に理解できる自分に、彼は苦笑するしかなかった。
「これから、どうする……」
史実どおりに独裁者として振る舞うなど、精神が保つわけがない。だが、政権の座を放棄すれば、確実に暗殺されるだろう。仮にサウジなどへ亡命しても、生き延びられる保証はない。
もちろん、逃げるための最も簡単な方法もある。拳銃を手に入れ、自らの頭を撃ち抜く――。
自殺すれば王党派からも暗殺者からも逃れられる。そういう考えも一瞬頭をかすめた。だがすぐに彼は首を振る。
「なぜ、自分が死ななきゃならないんだ」
大統領という立場にあるとはいえ、強大な権力をふるった冷戦期のような体制はまだ確立されていない。それでも、自分が国を動かせるという現実に変わりはない。
どうせなら、歴史を少しでも良い方向に変えるために、未来を知る“カダフィ”としての力を使えばいい。そう思うことにした。
とはいえ、リビアの行く末についてのビジョンはまだはっきりしていない。まずは目の前の課題――中東戦争への対応からだ。
未来は変えられる。歴史は一つではない。
「まずは農業と経済の立て直しからだな……資本主義的な要素も必要なら取り入れる。軍は味方につけるが、過剰な拡大は避ける」
敵を増やせば滅びるだけだ。アメリカや周辺国と無意味に対立するのは愚の骨頂である。
社会主義による統治体制が“良いものだ”と国民に思わせる――そのためには、国民を飢餓から救い、生活を安定させる必要がある。
考えるべきことが多すぎて、頭が沸騰しそうだった。
「……バクルを呼ぼう」
そう決めた。全てを明かすわけにはいかないが、それでも彼なら何とかなる。そういう妙な確信があった。
午前九時過ぎ、アブー=バクル・ユーニス・ジャーベルが執務室を訪れた。カダフィは彼を護衛もいない静かな部屋で一人迎えた。
「大佐、どうされましたか?」
いつも通りの口調でバクルは尋ねるが、その目は訝しげだった。昨日骨折していたはずのカダフィの左腕は、何の問題もなく動いていた。
「バクル、君は私が影武者ではないかと疑っているな?」
不意にそう言われ、バクルは言葉を失う。
「私は君を、些細な疑念で失いたくない」
「……大変失礼いたしました」
頭を下げるバクルに、カダフィは穏やかに頷いた。
「昨夜、私は非常に不思議な体験をした。おそらく、左腕が治ったのもその影響だ。そして……未来を見てきたとしたら、君はどう思う?」
突拍子もない言葉に、バクルは沈黙する。だが、目の前にいるのがカダフィである以上、狂ったとは断定できなかった。
「証拠を見せよう。1987年10月、世界的な株価暴落が起きる。中心は香港だ。さらに言えば、1990年代にはソ連が崩壊する」
バクルは目を見開いた。
「……我が国はその影響を受けなかった」
カダフィは静かに言葉を続けた。
「リビアは西側諸国と反体制派によって崩壊した。――だが、それはこのまま歴史が進んだ場合の話だ。未来は我々の手で変えられる」
「……未来が、変えられる……」
「バクル、愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。私は賢者でありたい。そして、君にもそうであってほしい」
深く頷くバクルに、カダフィは新たな決意を込めて語りかけた。
「我々の理想は百年、二百年かかってようやく叶うものであって、急ぎすぎてはならなかった。今こそ、地に足をつけた改革を進めるときだ」
「まずは、人民の飢餓を救うことですね」
「ああ。そして、その先には安定した生活と、豊かな国づくりがある」
その瞳には、未来を見た者の確かな光が宿っていた。
「バクル、君を改めて私の同志としたい。ともにこの国を導いていこう」
「――もちろんです、大佐」
その日から、二人は何時間も未来について語り合った。カダフィが見たという世界の数々――その情報は、今後のリビアを形作るための地図となった。
影武者でも、偽者でもない。
そこにいたのは、未来を知る新たな“カダフィ”だった。