5話 タイミングが良すぎた
あのしじみの味噌汁……美味かったな。美味すぎて衝撃だった。
なんてしみじみ思っている間に(ダジャレではない)、やっと咲いたと思った桜が散り、木々の葉が青々と茂り、まもなく梅雨がやってきた。
季節がすぎるのは、あっという間だ。しかし、その間も人の営みは行われている。俺も仕事に追われ、隣人のタコに振り回されながら、なんとか生活していた。
ロンギヌス二世と名乗ったタコについては、判明した事実がある。どうやら、近所のスーパー「ふくまる」で働いているようだ。
それは、別の日の買い物代行の仕事の際に、他の店員と同じ制服――深緑色のエプロンを着て、同じ色の三角巾を頭に巻いている――姿で、品出しをしているのを目撃して知った。
「ねぇ。仕事、早いでしょう? やっぱ腕が八本もあると違うよねぇ」
俺が啞然としていたのを、感心しているのだと勘違いしたおしゃべりなおばさん店員が、そう言っていた。「確かにそうですね」と、一応同意しておいた。
まさしく、前田の言ったとおりだった。もしもうちの会社にきてくれたら、あらゆる仕事に引っ張りだこだろう。タコだけに。
おすそわけも、ほぼ毎晩のようにもらっている。昨日は、たけのこご飯だった。絶妙な塩加減もさることながら、何気に季節ものを意識している点も感心する。
俺からは、アサリなどの貝類やむきエビなどをお返しにちょくちょく渡しているのだが、初めて渡したときに一番顕著な反応を示してくれた。受け取ったそれをしばし凝視した後、のばした腕で俺の手をつかみ、上下にぶんぶん振り回していたのだ。喜んでもらえたようでなによりだ。
ただ、一つ。ときどき忘れそうになるので言っておくが……相手は、タコである。
海にいる生き物が、なぜ陸上で人間と同じように生活しているのか――できているのか。その点は、未だに謎である。
隣同士に住んでいて、活動範囲もそれほど変わらないせいだろうが、鉢合わせる確率が異常だった。実は宇宙人で、正体がばれないように俺を監視しているのでは、なんて妄想をふくらませてしまうのも無理はないはずだ。
そんな考えをしている俺は今、駅前商店街にある酒屋「大西酒店」で店番をしている。もちろんこれもれっきとした仕事だ。
店長の大西陽介さんは、ひげが濃くて強面だが、よく大きな声で笑う快闊かつたくましい人だ。年齢は五十すぎで、数年前に奥さんと離婚して以来、男手一つで子どもを育てながら店を切り盛りしている。
今日は、入院している母親の見舞いで実家のある山梨まで出かけるため、代わりに店番を頼んできたようだ。わざわざ金をかけて店番係を雇うくらいなら、店を閉めたほうがいい気がするのだが。
余計なお世話かもしれない考えをめぐらせていると、入り口の自動ドアが開いて誰かが入ってきた。背筋をピンと張ったが、それが客ではなく店長の一人息子の宙斗だと分かって、再び気を抜いた。
丸くて大きい瞳と、うなじを隠すほど長くなってきた黒髪が特徴の小学生で、濃い青色のランドセルを背負っている。もうじき、髪を切るだの切らないだのと、父親と一悶着起こすのだろう。否、すでに起きているのかもしれない。
「あゆ兄じゃん」
「おー。おかえり」
すでに顔なじみであり、宙斗は特に気にせずに俺の横を通りすぎ、住居スペースに上がりこんだ。
小学五年生の宙斗とは、初めて会ったときよりは打ち解けたと感じる。「あんた」呼ばわりされていたのが、下の名前に「兄」をつけて呼んでくれるようになったのだから、大きな進歩だろう。機嫌が悪いときは、わざとらしく「おっさん」と呼んできたときもあったくらいなのだから。
「なーおやつは?」
「冷蔵庫にプリンあるって」
「まーたプリンかよ」
文句を言いながらも、宙斗はさっさと自分専用のスプーンをもって、冷蔵庫を開けた。いわずもがな、プリンは彼の好物の一つである。
夢中で好物を頬張る小学生を見ていると、その足元に放りだされたランドセルの中から、ある本が飛びだしているのが見えた。『そんなバカな図鑑 海のいきもの編』と題した本だった。
「海の生き物好きなのか?」
「なに?……ああ、この本? 別に。ちょっと前にアウスタでバズってたやつ。図書館にあったから、借りてみただけ」
「そうなのか」
「知らねぇの? そんなんだからおっさんって呼ばれるんだよ。もっと世間の流行に敏感になったら?」
「俺のことおっさんって呼ぶのお前だけだから」
「俺からしたらおっさんだよ、あゆ兄なんて」
「でしょうね」
小学生の立場で言われれば、納得せざるをえない。
プリンを食べ終わった宙斗は、きちんと容器とスプーンを洗って、かごにふせてから話題に上がった本を手にとった。
「なんかノリで借りてみたけど、がっかりした。俺の好きな深海生物、載ってねーし」
「深海生物好きなのか。深海生物……って、どっからが深海生物になるんだ?」
「一般的には、水深200メートルくらいからが深海って呼ばれてる」
「へー。じゃあ、タコは深海生物になる?」
「深海生物に属するやつもいるよ。メンダコとか超有名じゃん。マジでなんも知らねーの」
「へーへー。悪うござんした」
怪訝そうに眉を寄せ、ばかにするような口調で言う宙斗に、投げやりに返事をする。直後、入ってきた客にむけて、「いらっしゃいませ」とにこやかにあいさつをした。
日本酒を買っていったその客が帰ると、再び居住スペースのほうを向いた。宙斗は、ゲーム機の画面を真剣な表情で見つめていた。
「なぁ。タコの中に陸上生活できるやつっているのか?」
「……知らね。いるんじゃねぇの、中には」
いるのか。じゃあ、普通なのか。あの隣に住んでいるタコは。
宙斗はてきとうに答えただけ、と否定したい気持ちと、いや実際存在するし、といった事実が混ざりあって、俺の中で複雑化していった。
◇◇◇
夕方六時すぎになって、店長もとい宙斗の父親が帰ってきたので、そこで今日の仕事は終わった。
帰り際、どこかさっぱりした顔の店主から、厚意で缶ビール一缶と小袋入りの柿の種をいくつかもらった。もちろん、店番をしていた分の費用は別途支払いが生じるが。
外は、雨が降っていた。天気予報によれば、この一週間はほぼ雨降りだそうだ。
社用車に乗りこみ、ワイパーを二段目の早さにするため、レバーを下げた。早々に夏本番がやってきた去年とは大違いだな、と思いつつ、会社へと車を走らせた。
会社に戻り、報告書を作成して支倉さんに提出した。
彼女は経理担当だが、もう一人の総務担当の事務員――中年でふくよかな体型の武田千波さんがいないときは、報告書の処理の業務も兼務している。
「あと、店長からお礼っつってもらったんですけど」
もらったものが入ったビニール袋を広げて見せると、支倉さんはわずかに眉を寄せた。
「ビール、ですか? 危ないですね」
「危ない?」
「途中でもしも警察官から職務質問されていたら、飲酒運転を疑われていたかもしれませんよ」
「え……そんなまさか」
「実際それで捕まりそうになったと、知人が言っていました。最終的には、絶対に乗りながら飲まないようにと強く注意されて終わったそうですが」
「……マジすか」
支倉さんは、ふう、と呆れたように息を吐いた。
「次からは断ってくださいね。あちらの店長さんはそんな方ではありませんが、ひきかえに値引きを強要してくるお客様もいらっしゃるので」
「う……はい、気をつけます」
きちんと頭を下げて、謝罪した。
値引きを強要してくる客の話は、聞いている。へたに断れば、印象を悪くして悪評を広められるおそれがあるので、対応に苦慮しているとも。
このようなおみやげをもらったのは、初めてではない。すぐに消費できてしまう小袋入りのお菓子や飲み物が主流だったので、なにも考えず受け取っていた。
しかし、今後は気をつけねば。支倉さんだけでなく、会社にたいして迷惑につながってしまうかもしれない。
支倉さんは、「よろしくお願いします」と言って、再び俺の作成した報告書に目を向け、チェック作業に入った。
「……問題ありません。お疲れ様でした」
「お疲れ様でした……と、そういえば、支倉さん」
立ち上がり、背後の棚からファイルをとろうとした支倉さんが振り返る。
「手は大丈夫ですか?」
「え?……手、ですか?」
「あ、はい。ちょっと前までばんそうこうだらけでしたよね?」
尋ねると、支倉さんは右手で左手を覆い隠すように重ね、俯いた。
今も、その左手には二つのばんそうこうが貼られている。ずっと気にはなっていたのだが、なかなか尋ねられずにいたのだ。前田が何度か尋ねていたようだったが、結局真相は分からずじまいだったそうだ。
反応を見るに、やはり理由は人には知られたくない様子だ。まさか……DVではあるまいな?
「なんともないならいいんですけど……あの、誰かになにかされたとかじゃ――」
「それはありません」
「あ、そうですか」
厳しい声で即答された。
支倉さんは、下を向いたままずれためがねのブリッジを指でつまんで、押し上げた。
「ちょっと、慣れないことをしただけです。私が一人でやらかした傷ですので、お気になさらず」
「そうですか。ならよかった」
全然よくねぇけど。
手がばんそうこうだらけになるなんて、一体なにをしていたのか。よくケガをするなにか……格闘技か? いや、ねぇわ。
気になっていたから尋ねたのに、余計気になってしまう事態に陥るとは。なぜそうなった。
「ところで……隣人の方とは、最近はどうですか?」
「え? ああ、はい。しょっちゅう料理もらうんで、まぁ……だいぶ慣れました」
「しょっちゅう……」
支倉さんは、独り言のように俺の言葉を繰り返し、また俯いた。
口元を引き締め、床の一点を見つめている。なにを考えているのかさっぱり分からない。
いや。今はそれよりも、「隣人」についてきちんと話しておくべきだ。
「あの、その人についてなんですけど――」
「では。私はこれで」
支倉さんは、俺が打ち明けようとしたのを遮り、きりっとした目であいさつして事務室を出ていった。
「……タコ、なんです」
一人残された事務室で、俺は無意味に呟くしかなかった。