3話 久しぶりに人と話せて嬉しいらしい
家主が、大きな壺の入った箱に蹴つまずいてその他諸々を破壊する惨事に見舞われはしたが、どうにかこうにか夕方六時すぎには作業を終わらせた。
不用品回収の手筈を整え、梱包した物の運搬については専門業者に依頼するようにと、最初にした説明を繰り返し伝えた。そして、「お礼に夕飯でも」と地獄の誘いをしてきた依頼主をかわして、帰路についた。
もはや精根尽き果てた前田を引きずるようにして帰りの電車に乗せ、自分は逆方向の電車に乗り、最寄り駅の椋原駅に降り立った。
改札を抜けて深呼吸をした途端、どっと疲れが出て項垂れる。
もはや、なにもやる気が起きない。業務報告書のまとめは、今日は無理だ。明日出勤して、仕事に出る前にやって提出すればいいだろう。
そう決めて、駅前のコンビニに滑りこんだ。無糖のレモンサワーとハイボール、鶏の唐揚げとカップ麺を買って、アパートへと向かった。
晩酌をするにしては、まだ少し早い時間だ。シャワーを浴びてさっぱりしてからにしよう、と考えながら階段を上った。
部屋の前に立って鍵を開けていると、ふと隣の角部屋に目がいった。
そういえば、あのタコも同じくらいの時間に出かけていったけれど、もう帰ってきただろうか。どこに行っていたのか。仕事だろうか。
そこで、はたと気づく。
最近、なにかにつけてあのタコについて考えている。すでに癖になりつつある気が……いやいや、冗談ではない。
一人頭を振って邪念を払い、部屋に入った。
レモンサワーとハイボールの缶を一旦冷蔵庫にしまって、寝室でツナギを脱いで、ティーシャツとハーフパンツの姿になる。風呂場でシャワーを存分に浴び、体と頭を洗って出た。
はぁ、さっぱりした。
わくわくしながら、頭をタオルで拭きながら冷蔵庫にむかおうとしたところで、玄関のチャイムが鳴った。
お楽しみの晩酌タイムを邪魔する、鬼の呼び声にしか思えなかった。舌打ちをしつつ、チェーンを外して勢いよくドアを開けた。
「誰だ……よ」
そこには、誰もいなかった。いや、同じ目線の高さには。
視線を下げたところには、健気にこちらを見上げてくる赤い物体。
タコがいた。
「なにか……ご用、ですか」
尋ねると、タコは両手で持っていたあるものを差し出してきた。青いふたに、半透明の直方体型のタッパーだった。
こちらが固まっていると、タコはふたをはずして中身を見せてきた。
薄い黄色のような色の塊。火が通ってくすんだ茶色になったもの、乱切りにされた赤みが強いもの。それから、長くて細い緑色のものと、半透明で麺に似たもの。それらが、一緒くたに存在していた。
その名も、肉じゃが。煮物の中ではメイン料理にもなる、家庭料理では定番の、あの和食だった。
肉じゃがか。実家を出て以来、久しく食べていない。母さんの作る肉じゃがは少し味が濃かったけれど、おかげで白飯が進んだ。懐かしい。
いやいやいや。懐かしい、ではない。
「えと……どうしたんですか? それ」
尋ねると、タコはタッパーのふたをしめてから、また差し出してきた。
ああ。そうか、分かったぞ。「おすそわけ」だな。
「俺に、ですか? いいんですか?」
肯定するかのように、タコはなおもタッパーを突き出してくる。ひとまず、「ありがとうございます」と言って、受け取った。
そして、タコは満足げに頷いて、自分の部屋へと戻っていった。
そのドアがバタンと閉まる音を聞いてから、うちの部屋のドアを閉める。そこに背中を預け、渡されたタッパーに視線を落とす。
遅れてやってきた猛烈な違和感に、脳内がパニック状態に陥った。
なぁなぁなぁなぁ! やっぱおかしい! おかしすぎるだろ!? なんでタコが肉じゃがおすそわけしてくんの!? どういうこと!? 作りすぎちゃったんでよかったら、ってか!? はぁ!?
おもむろにふたを開け、なにも考えずにジャガイモを一つ指でつまんで、食べた。
「……!?」
直後、雷に打たれたような衝撃が走った。
味つけが、絶妙だ!
醤油ベースで、程よい甘さが感じられる。食べたジャガイモは、煮崩れしないぎりぎりのところまで煮こまれているようで、少し硬さを残した食感でちょうどよかった。
これは、と思って、冷蔵庫にある冷えたレモンサワーを開け、飲んだ。
合う! なんか、妙に合うぞ!?
甘めの味つけの肉じゃがは、酒のアテにはならないと思っていた。しかし、さっぱりした無糖のレモンサワーならむしろ相性がいいのだと知った。
これ、あのタコの手作りなのだろうか。
キッチンにむかって野菜などを切っている姿を想像し、不思議な気持ちになりながらも、その晩はもらった肉じゃがを加えた晩酌を楽しんだ。
◇◇◇
洗ったタッパーを返すときにお礼に渡せるものはなにかないかと探したが、ろくなものがなかった件で絶望した日の翌朝。
早まるな、俺。そもそも、あげたら喜んでもらえるものなんて分からないだろう。人間感覚で考えるな。相手はタコだぞ。タコ。
皮肉ってたこ焼きでも買ってプレゼントしようか、などと邪悪な考えをしながら家を出たが、その日は行き会えなかった。
一晩たっても体調に異常は表れず、食べた後で気づいた懸念「目に見えない変なものが入っているのではないか」問題は、今のところ杞憂に終わりそうだった。
本当に、なんなのだろう。あのタコは。
前田の言っていたとおり、八本腕を駆使してイージーモードの日常生活を送っているのだろうか。しかし、材料を切ったり煮こんだりするのはお手の物だとしても、人間の口に合う味つけを再現できるとは。どこで習ったのか。料理教室か、はたまたテレビや動画、レシピサイトか。
いや、待て。そもそも、本当にあいつが作ったのか? どこかで買ってきたものかもしれないだろう。スーパーかお惣菜屋かどこかで買ってきたそれを、タッパーに詰めて……なんて手間、わざわざかけるだろうか? なんのために? 俺におすそわけするため? 大家さんならともかく、なぜ俺? 隣の部屋だからか?
「名瀬さん。さっきから手が進んでいませんが、なにかありましたか?」
「……! あ、いえ。なんでもないです」
考えるほうに集中しすぎて、キーボードを打つ手が止まっていたらしく、向かい側の席に座る眼鏡美女に指摘された。
名前は、支倉あかり。必要最低限の会話しかせず、仕事を淡々とこなすタイプだ。
切れ長の吊り上がった目と、整えられた眉。フレームが赤のオーバル型のメガネ――小ぶりの楕円形のレンズがついたもの――をかけていて、胸の位置くらいまでの長くてつやのある黒髪を、うなじのあたりで一つにまとめてゴムで縛っている。
コミュ力異常マンの前田は、「あかりさん」と気安く下の名前で呼んでいるが、俺にはそんな度胸はない。休憩時の雑談にもあまり参加してこないので、未だにはっきりとした年齢さえも知らないほどだった。
入社順だと、俺のほうが一年早いのだが。前田の見立てによれば、
「そーだなぁ……二十代後半……いっても三十代入ったばっかってとこじゃね? とかいって、実は四十代だったらどうする?」
だそうだ。別にどうもしない。
「珍しいですね。名瀬さんが仕事に集中できないなんて」
「え? そうですか?」
「社長が言ってましたよ。『名瀬くんは、仕事が早くてしかも丁寧。言うことなしだ』と」
「へ……」
俺は、二つの意味でショックを受けた。
まず一つ目は、陰で社長に褒められていた事実。二つ目は、先程言ったように、必要最低限の会話しかしないはずの支倉さんからその話を聞かされた事実。とんでもない衝撃だった。
最近の俺の心をかき乱している、「隣にタコが引っ越してきた」事実よりかはインパクトとしては薄いが。いや、比べる対象が間違っている。
「なにか悩み事でも?」
「……悩み、といいますか……」
俺は、迷った。
支倉さんに、「隣にタコが引っ越してきた」と軽々しく話して、なんと言われるか。前田や大家さんと同じ反応をされても嫌だし、正常に「ありえない」などと一蹴され、頭がおかしい奴認定されてもダメージがでかい。
「まぁ、別に言いたくないのでしたら無理にとは言いませんが」
支倉さんは、口ごもる俺を一瞥して、また自身のパソコンに目を戻した。
そこで、はっと気づく。
これは、チャンスではないか? あの仕事人間なクールビューティーの支倉さんと、まともな会話をするためのいいきっかけになるのでは?
「いえ! よければ聞いていただけませんか!」
「……どうぞ」
立ち上がって身を乗り出して言うと、支倉さんは少し仰け反りつつも、受け入れてくれた。
アホか。落ち着け。詰め寄りすぎるのはだめだ。
一呼吸おいてから、話しだした。
「……実はこの前、俺の住んでるアパートの部屋の隣に引っ越してきた奴がいるんですけど。そいつのことが気になっちゃってて」
「隣に引っ越してきた人……が、気になる? どんな方なんですか?」
いや、人じゃなくてタコなんですけど。とは、言えなかった。
「えっと……ほっとんど喋らないんですけど、礼儀正しくて……あいさつもしっかりするし。あとそう、さっそく料理をおすそわけしてもらいました」
「おすそわけ? 今どき珍しいですね」
「ですよね。俺も初めてでした」
「なにをもらったんですか?」
「肉じゃがです。それがなんか、めちゃくちゃうまかったんですよ」
「肉じゃが……」
支倉さんが、キーボードを叩く手を止めて、こちらをじっと見つめてきた。
「名瀬さんは、肉じゃが好きなんですか?」
「えっ? あ、はい。普通に好きですけど」
「……そうですか」
そう呟いて、俺から再びパソコンの画面に目を戻した支倉さんは、なにか考えているのかしばらく固まった。
と、思ったら、マウスを少し操作したのち、静かに立ち上がった。
「その人のことが気にならなくなる方法、少し考えてみます」
「えっ? い、いえいえ! そんなマジな話じゃないんで!」
「真面目な話じゃないですか。仕事に身が入らなくなるくらい気になるんですよね?」
支倉さんはそう言って、印刷された書類をプリンターから手にとって、颯爽と事務室を出ていった。
人じゃないんです、タコなんです!
その事実を伝えるため、慌てて席を立って追いかけた。
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