2話 人間より役に立つ気がする生き物、その名は
タコ。頭足綱八腕形目に属する軟体動物の総称で、八本の腕を持ち、吸盤で物をつかむのが特徴。イカと同様に貝の仲間だが、固い貝殻はない。食用にもされ、世界中で人気のある食材。
「……へー。貝の仲間なのか」
ネットで、「タコとは」と検索して出てきた説明文を読んで、感心する。
さらに調べてみると、「多様な機能を持つ筋肉に富んだ八本の腕と、脊椎動物に匹敵する大きな脳を持つ頭部をそなえている」とも出ていた。
確かに、柔軟性のある腕が八本もあれば、日常生活を送るうえでは困りはしないだろう。いや、むしろ重宝するに違いない。そして、「脊椎動物に匹敵する大きな脳を持つ」ならば、人間の言葉を理解するのも頷ける。なるほど。
……頷けるか!
寝転んでいたベッドの上で、スマホを持った手を受け身のように下ろした。
そもそも、タコは海洋生物。すなわち、海で生活する生き物だ。つまり、「海でしか生きられない」はずだ。それが、なぜ陸上にいるのか。エラ呼吸ではないのか。肺呼吸もできる人魚のようなハイブリッドな種類も存在する、とでもいうのか。
呼吸器うんぬんの前に、見た目が変だ。
図鑑に載っている写真のタコと、昨日隣に引っ越してきたタコは、どう見ても別物だった。茹でられた後のように赤い体も、ひょっとこのようにすぼまった口も。
つまり、あれはタコに似た、肺呼吸ができる別の生き物なのだろうか。仮にそうだとしても、一人暮らしをしている――否、「できている」のは、明らかにおかしい。実は、高度な文明の中で生きてきた宇宙人、とでもいうのなら納得できなくはないが。
いや、ねぇよ。物語や絵本の世界じゃあるまいし。
脱力し、しばらく呆然と天井を見つめる。ふと、再度スマホを見る。時刻は、まもなく八時になろうとしていた。
「うおっ! やっば、遅刻する!」
急いで飛び起きて、着替えた。今日は、朝一で引っ越し作業の手伝いの仕事が入っているのだ。
自宅を出る前に、一旦会社へ連絡。現場の個人宅に直行する旨を伝えて、会社のツナギ姿で外に出た。
と、同時に、隣の部屋のドアが開いた。振り向くと、そこには例のタコがいた。
胴体と足の付け根の境目あたりに当たるように、ホタテ貝型の白いショルダーポーチ(?)を提げている、シュールな姿だった。
俺とそのタコは、そのまましばらく見つめあった。
「あ、お……おはようござい、ます」
先に頭を下げたそのタコに、軽く動揺しながら朝のあいさつをした。
タコは、きちんと施錠すると、足をうねうね動かして俺の部屋の前を通りすぎ、階段へと歩いていった。
その姿を追いかけて下をのぞきこむと、アパートの脇の道に出たタコが、犬を散歩させている人とすれ違って軽くあいさつを交わした姿が見えた。そして、まもなく見えなくなった。
……おい、犬! お前、それでも犬か!? 吠えろよ! 目の前に不審な生物が現れたんだぞ!?
仕事モードに切り替わりつつあった頭が、別の方向に切り替わってしまい、また混乱した。
◇◇◇
年度初めの時期。引っ越し業界は繁忙期をむかえていて、どこも人手不足がシャレにならないレベルだそうだ。その分費用は高額になりがちで、それを払う余裕がない客は、うちのような便利屋に頼む場合がある。
うちでできるのは、会社が有する資格でできる範囲――荷物の梱包や仕分けの手伝いと、不用品の処分だ。梱包した物の運搬に関しては、許認可を受けた業者でないとできない。大手では、煩雑な手続きのもと、その許可を得ているところもあるらしいが。
ただ、荷物の運搬は確かに大変だが、それ以前の作業である梱包や仕分け作業も、想像以上に億劫なのだ。特に仕分けについては、引っ越し作業の中で、一番労力を使うといっても過言ではない。なにしろ、家にあるもの「すべて」を分別しなければならないのだから。
実際、「こんなに大変だとは思わなかった」とぼやく人は少なくない。また、最初からそれが分かっている人もいるため、俺たちのような業者は欠かせない存在になっているのだと思う。
その日の現場は、事前に聞いていたとおり大変な現場であった。
平屋建てで、広さでいえば五十平米ほどの狭い家だったのだが、皿や壺、掛け軸などの骨董品が無造作に「飾って」あって、中にお邪魔した瞬間から「あ、ここはヤバい」と、悟った。隣にいた今日の相方も、同じ気持ちだったに違いない。
「カミさんと娘にしょっちゅう怒られてたんですよ。いい加減やめようって何度も思ったんだけど、いい品入ったよってなじみの骨董屋から連絡もらったら、もうだめなんですよね。おかげでカミさんも娘も出てっちゃって……ああ、いや、離婚じゃなくて別居ですよ? 家にある物をきっちり全部処分して、こっちに引っ越してこれるようになったら許してもいいって言うもんで。それではっとしたんですよ。骨董品と家族どっちとるのかって言ったら、そりゃ家族でしょ?」
定年間近の家主の身の上話を聞きつつ、手だけはちゃっちゃか動かしていく。
しかし、当然ながら、これはどうする、必要なのか不要なのか、と確認は欠かせない。おまけに、「あ、これ懐かしいなぁ!」などと、家主が品を手に取って長い長い思い出話を語りだす場面もあったので、予想以上に作業は進まなかった。
「これ、ぜってー今日中に終わらなくね?」
「終わらすんだよ、なにがなんでも」
休憩時、近くのコンビニに寄って一息ついたとき、とうとう相方の前田が弱音を吐いた。俺は、奴の肩を強めに叩いて激励した。
フルネームは、前田隼斗。一番年が近い――あちらのほうが学年でいうと一つ下――なので、入社当初からよくつるんでいた。いや、「あちらのほうから絡んできた」といったほうが正しいか。
丸顔に垂れ目で、毛先をワックスで無造作にはねさせている。身長は、170を越えている俺より頭半分ほど低くて、小柄な体型だ。体育会系には見えないが、本人曰く「体を動かすのは超好き」だそうだ。
しかし、便利屋に勤めていると、今回の依頼主のように(無駄)話が長い人に当たる場合は多い。むしろ、単純に「話を聞いてほしい」と依頼してくる独居老人もいる。俺は比較的慣れたほうだが、前田にとっては、いちいち弱音を吐かなければやっていられないのだろう。
ただ、今回は俺にとっても事情が違った。例の懸念事項――正体不明な隣人について――を抱えているため、いつも以上に憂鬱だったのだ。「今日中には無理」だと考えている様子の前田に、表では激励しつつも、同意したい気持ちが大きかった。
あのタコの手を借りられたら、早く仕事が進みそうだけど。
なんて、アホな考えをしてしまうほどに、モチベーションは下がりまくっていた。
「……なぁ」
「ん-?」
コンビニで買った、500ミリリットルペットボトルのスポーツドリンクを一口飲んだ後、前田に話しかけた。
「頭おかしいのかって思うかもしんねぇんだけどさ」
「なに? つーか、今さらだろ」
回し蹴りをくりだそうと足を軽く上げた俺から、奴は素早い身のこなしで離れた。
足を地面に下ろしつつ、へらへら笑っている前田を見て舌打ちをする。
「うちの隣の部屋に、タコが引っ越してきたんだよ」
「なにが?」
「タコが」
「へーそうなの」
生返事をする前田を、横目で見る。奴は、しゃがんだ状態で小さな瓶入りの栄養ドリンクをあおっていた。
その見た目どおりと言うべきか、前田は人懐っこくて割と八方美人な奴で、俗にいう「チャラ男」の部類に入る人間だった。しかし、どれだけ酒を飲んで酔っ払ったときでも、決して人の悪口は言わない。そんな根っからの明るい性格の持ち主で、常識ある人物であった。
だからこそ、俺の言葉を理解していない、または「くだらない嘘をついている」などと一蹴しているとは思えなかった。
「人の話聞いてた?」
「聞いてた。タコが引っ越してきたんだろ? いいよなー。腕八本もあったら、日常生活めっちゃイージーじゃね? うらやましっ」
前田、お前もか。
「いや……まぁ、そうかもしんねぇけど」
「会ったのか?」
「会ったっていうか……むこうがあいさつしにきた。タオルもらった」
「タオルって」
前田は、栄養ドリンクの空き瓶を落としそうになりながら、腹を抱えて笑った。笑って済む話ではない。
「律儀だなー。はぁ。うちの会社に来てくんねーかな。したら、たぶん社長も大喜びだし、俺らももうちょい楽になるのにな」
「どうだかな」
「なにしてる人――いや、タコなんだ? 仕事は?」
「知らねーよ。まだ会ったばっかだし」
「そりゃそうだ……寿司屋とかだったらウケるんですけど」
前田は、「共食いになっちまう!」などと言って、勝手に吹きだしていた。
だめだ、こいつ。
肩を落とし、空になったペットボトルをゴミ箱に入れた。
直後、現場の家のほうから、なにやら大きな音と誰かの焦っているような声が聞こえたので、前田と顔を見合わせてから駆けだした。
更新は毎日20時を予定しています。
よろしければ明日もご覧ください。