17話 可愛い可愛い
鈴原さんは、このあと別の用件があり、それを済ませたら直帰するそうで、俺一人で会社に戻った。
車を運転しながら、俺は気が気ではなかった。まさか、彼女のほうから触れてくるとは。
鈴原さんは、支倉さんと比べるとほぼ真逆といっていい性質だ。相手が壁を築いても、その脇をさらっと抜けて乗り越えてしまう、みたいな。しかし、前田ほどのしつこさ(うざさ)はまったくない。
おかげで、これで鈴原さんがスキルの持ち主かどうか、はっきりするだろう。さっさと残りの仕事を終わらせて、帰ってロンに確かめてもらおう。
「ただいま戻りましたぁ」
「お帰りなさい」
会社に到着して、事務室に入ると、俺はその入り口で固まった。
返事をしてくれた支倉さんの足元に、薄茶色と白い毛の、もふもふしたものがいる。犬だ。
その犬は、大人しく支倉さんのデスクの横でおすわりをして、舌をたらしながら速い呼吸をしつつ、尻尾をパタパタと床に軽く叩きつけるように振っていた。首輪にリードがついているが、人が持つ側は床に下ろされている。
「ど、どうしたんですか、その犬」
「社長のご友人の一ノ瀬さんがいらしてるんです。散歩中に通りかかって、社長に相談したいことがあるのを思い出して寄られたそうで」
「一ノ瀬さんが……そうでしたか」
支倉さんの説明を聞いて納得し、自分の席についた。
その人は、社長がこの会社を立ち上げるより前からの知り合いであり、こうしてたまに会いにきては、旅行のお土産のお菓子などを社員分もってきてくれる気前のいい人だ。先日のフリーマーケットでの仕事も、彼から打診があって受注したのだ。
いくつか不動産をもっていて、その収入だけで暮らしていけるほどだそうで、非常に羨ましいかぎりである。
「一ノ瀬さん、犬飼ってたんですね。それ、なんて名前でしたっけ」
「秋田犬です」
「ああ、そうだそうだ。さすが。よくご存じですね」
「いえ。たまたまです」
そう言いながら、支倉さんはゆっくりとした手つきでその犬をなでている。その目は、まるで愛しい我が子にむけるような、優しさが宿っていた。
「…………」
「名瀬さん。社用車の使用簿の記入は?」
「あ……はい。まだでした」
支倉さんと犬に見とれていたら、ずばりと「さっさと仕事しろ」と、いわんばかりに指摘された。はい。きちんと仕事します。
使用簿に必要事項を記入すると、再び自分の席に座った。
犬は、相変わらずじっとしていて動かない。
「ずいぶん大人しいですね」
「そうですね。一ノ瀬さんがうまくしつけなさっているんだと思います」
犬は、パソコンのキーボードを打つ支倉さんの傍らで、ずっと同じ姿勢をたもっている。主人以外の人のそばでじっとしていられるなんて、相当しっかりしつけられているのだろうか。
もふもふした毛が触り心地よさそうで、少し触れてみたくなって、席に座ったまま手をのばした。
途端、
「っ! ワンッ!!」
「うわっ!?」
強い静電気のような衝撃が走り、それに驚いた犬が吠えて、俺が下げようとした手に噛みついてきた。
支倉さんが、すぐに焦りながら「やめなさい!」と言ってリードを引くと、犬はたちまち大人しくなって、俺の手を離してくれた。
「ご、ごめんな。驚かせ――」
「名瀬さん!」
「はいっ?」
犬に謝罪しようと声をかけたが、支倉さんがそれを遮り、血相を変えて駆け寄ってきて、俺の手をとった。
右手小指の付け根のすぐ下あたりから、出血している。痛みもあるが、深い傷ではなさそうだ。すぐに支倉さんが犬を落ち着かせてくれたおかげで、噛まれた時間がほんのわずかだったのが幸いだった。
しかし、患部を見た支倉さんは、大きく目を見開いた。
「……! 早く手当てをしないと! すぐに水で洗ってきてください!」
「は、はい」
厳しい口調で言われ、慌てて給湯室の水道で患部を洗った。血が完全に止まったのを確認して、ティッシュでおさえながら戻った。
支倉さんは、応接スペースのテーブルの上で救急箱を広げていて、ガーゼに消毒薬を噴射していた。
「手を出してください」
支倉さんは、問答無用といった様子だった。
その迫力に尻ごみしつつ、ティッシュをとって患部を差し出す。
俺の手をとった支倉さんは、傷口に優しくガーゼを押し当てた。消毒液が効いているようで、ちりちりと痛みを感じる。
消毒を終えると、別の清潔なガーゼを患部に当てて、白いテープで固定してくれた。
「応急手当は完了しました。早く病院で診てもらってきてください」
「えっ? いや、もう大丈夫ですよ」
「いいえ。犬に噛まれたときは、油断できないんです。なにか菌に感染しているかもしれませんから。化膿して腫れて、強い痛みが出るか……最悪、破傷風になって、命にかかわるほどの重体に陥る可能性も否定できませんよ」
「い……命にかかわるって、そんな」
リアルな病名が出てきて、顔が引きつった。
破傷風は、名前を知っているだけで具体的にどんな病気かは知らない。しかし、それが余計に恐怖心をあおった。
ドン引きしている俺に、たたみかけるように支倉さんが詰め寄ってくる。
「ですから。そうならないためにも、今のうちに病院へ。駅を南方向に、まっすぐいったところに皮膚科のクリニックがあるので、そこでいいと思います。名瀬さん、マイナンバーカードは?」
「持ってます……けど」
「ならよかった。では、私が車でお送りします」
「え!? いえいえ! 大丈夫です! 一人で行けます! 場所知ってますし!」
社用車の鍵を手にして、早足で出ていこうとする支倉さんを止めるように、彼女の前に立ち塞がって首を振り、必死に断った。
俺が不用意に手を出したせいで負ったケガなのだから、支倉さんにそこまでしてもらうわけにはいかない。
「……そうですか。では、お気をつけて。社長への報告は私がしておきますので」
「は……え!? 社長に報告するんですか!?」
「当然ですよ。これは立派な労災ですから」
「いいい、いやいやいや! 労災なんて――」
「当然です。業務時間中にしたケガで病院にかかるんですから。隠せば、労基署から厳しく処罰されます」
「…………」
えらいこっちゃや!
なんて、せめて心の中だけでもおちゃらけていないと、申し訳なさでどうにかなりそうだった。
「必ず診てもらってくださいね。終わったら、そのまま直帰でかまいません。ただし、診察後に報告を入れてください」
絶対ですよ、と支倉さんに念を押され、見送られながら、俺はとぼとぼと事務室を出た。
◇◇◇
言われたとおり、会社の最寄り駅の近くにある皮膚科のクリニックを受診した。
再び消毒をしてもらって軟膏を塗られ、傷が塞がるまでは定期的にガーゼを交換するように言われた。さらに、抗生物質の内服薬も出された。
「傷が浅くてよかったですね。思いっきり噛まれると、神経や筋肉が傷ついて止血がなかなかうまくいかない場合もあるんですよ」
中年男性の医師に言われ、すぐに受診したのは大正解だったと確信した。支倉さんに感謝。
診察が終わり、支払いを済ませて外に出てから会社に連絡をした。
「手続きは進めておきますので。あと、社長から。気にしないでいいからとにかくお大事に、だそうです。一ノ瀬さんからは、お詫びの品をいただいていますので後日お渡ししますね」
「はい……ありがとうございます」
電話を切り、膝に手をついて、大きなため息を一つ。
犬に噛まれるのは、大事なのだとは分かった。だがしかし、これは俺自身の不注意で起こった事態だ。
明日……前田にでも知られたら、めちゃくちゃからかわれるだろうなぁ。
罪悪感にさいなまれながら、帰宅した。
時刻は、まだ夕方五時前。しかし、十二月も間近の今の時期は、すでに日はとっぷりと暮れていた。
「むっ? どうした。今日はやけに早――」
例によって、人の部屋に不法侵入していたタコは、これから夕飯の支度をしようとしていたのか、エコバッグの中身をキッチン台で広げているところだった。しかし、なぜか言葉を途中で切って、固まった。
「なんでもねぇよ。ちょっとトラブルが……あって、さ?」
わけを話している途中で、ロンが駆け寄ってきて、ガーゼが貼られた俺の右手をつかんで凝視した。
なんだ? まさか、心配してくれているのか?
「たいしたことねぇよ? ちょっと犬に噛まれただけで、傷も浅――」
「見つけたぞ!」
「……なにを?」
「もう一人の、スキルの持ち主だ!」
「……えっ」
ロンの言葉を聞いて、俺は空いた口が塞がらなかった。
唖然としている俺をよそに、ロンは俺の手を興味深そうにしげしげと眺めている。
「これだけ濃厚な気配がするとは……じかに触れたな? 心当たりがあるだろう? 誰だ!?」
「…………」
今日、この手に直接触れた人とは。
袖をまくってほしい、と頼んできた鈴原さんと、犬に噛まれたケガを手当てしてくれた支倉さんの二人だ。
早くも二人に絞れた、と喜ぶべきなのに、なぜか俺は追い打ちをかけられたような気分だった。
読んでいただきありがとうございました。
書きながら、主人公がちょっと羨ましくなりました。私もロンにご飯作ってもらいたい……!
毎日20時に更新予定です。明日もよければお読みください!