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隣人はタコでした。  作者: 手羽本 紗々実(てばもと ささみ)
第2章 タコ、明かす
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15話 ハードモードなミッションその一

 毎日会う人とできるかぎり接触する。


 それが、どれだけ難しいか。今、俺は実感しているところだ。


 いつもの朝の時間の電車内。あの人は確かにいつも見かけるぞ、とか、あの人は確か俺より先の駅、あの人は一つ前の駅で降りるよな、と気づくものの、とても「接触」なんてできそうもなかった。


 当然だ。知り合いでもない人に不自然に触れたら、たちまち不審者扱いだ。その相手が女性だったら、余計にいけない。不審者を通り越して、「痴漢」と叫ばれるに違いない。そして、人生が終わる。


 そうならないためには、不自然ではない状況で相手に触れなければならない。では、電車内で知らない人に触れてもおかしくない状況とは?



「っ! すみません」


「いえ」



 今のように、電車が停車して揺れたときについぶつかってしまう。


 あるいは、停車した駅で客が次々に乗りこんできたときに押される。


 他にはあるだろうか? あるなら教えてくれ!



「……はぁ」



 会社の最寄り駅の神凪駅で降りて、ため息をついた。


 一応、見かけたおぼえのある人とは、できるかぎり触れてみた。もちろん、全員ではないが。


 俺の帰りの時間はまちまちなので、そちらの方面では毎日のように顔を合わせる人はいないだろう。あとは、会社の同僚や先輩たちか。



「おはようございます」


「おはようございます。今日もお願いします」



 事務室に入って、朝のあいさつをする。すでに出勤していた支倉さんから返事があった。


 席についたところで、はっと気づく。


 これ、支倉さんに触れるのが一番難易度高くないか?


 例えば……経費申請かなにかの書類を渡すときについ触れてしまった、とか? いやいや、無理があるだろ!



「名瀬ぇ。そろそろ出るぞー」


「……はーい」



 もやもや考えているうちに、今日の相方である浦上さんに声をかけられた。


 だめだ。だめなものはだめなんだ。諦めよう。


 そう思って立ち上がったそのとき、支倉さんから「名瀬さん」と呼ばれた。



「は、はい?」


「出かける前にすみません。先月分の社用車の使用簿の件で、武田さんから確認しておいてほしいと頼まれまして」


「使用簿? はい。えっと……」



 席を離れて、社用車の使用簿のファイルがある棚に移動し、自分が借りている車のファイルを手にとって広げた。



「先月の一日と十二日、記録がないようですが」


「……ああ、はい。両方とも未使用です。書くの忘れてました。すみません」


「いえ。たぶんそうではないかと武田さんもおっしゃっていたので。ではそのように報告して――あ、すみません。一応見せていただいてもいいですか?」


「はい、どうぞ」



 閉じたファイルを向かい側の席の支倉さんに差し出すと、すぐに彼女が受け取った。



「っ!?」



 瞬間、なんと彼女の手が、俺の手をなぞるように触れた。



「あっ……すみません」


「い、いえいえ。こちらこそ……」



 ドギマギしながらも、なんとか返事をする。


 おい。なんだ、この少女マンガみたいな展開は! 小学生か俺は!


 必死に動揺しているのを隠しつつ、「では行ってきます」とあいさつして、逃げるように事務室を出た。




 ◇◇◇




 害虫駆除――放棄されたハチの巣の片付け――の仕事は順調に進み、昼過ぎに会社に戻った。



「じゃあ、前田のアホと次の現場行ってくるから、報告書頼むな」


「了解です」



 運転席の窓から顔をのぞかせた浦上さんと、助手席から恨めしそうな視線をむけてくる前田を見送り、事務所へとむかった。


 これで新たに仕事が入りさえしなければ、定時まではフリーになれるのだ。のんびり報告書を作って、終わったら定時まで待機。そんな機会を得ようと、前田が躍起にならないわけがなかった。


 じゃんけんでの公正なる選出により、その役を得たのは俺だったが。


 事務室に入ると、作業員は全員出払っていて、いなかった。事務員二人に軽くあいさつして、自分の席のパソコンを起動する。



「名瀬くん、しばらくいてくれる?」



 席についた途端に、事務員の武田さん――支倉さんの隣、俺の席の左斜め前の席――が声をかけてきた。



「そのつもりですけど、なにか?」


「ちょっと私ら二人とも、保険の関係で社長に呼ばれてて。誰か帰ってきたら行こうかって言ってたところなの」


「ああ。いいですよ。どうぞ行ってきてください」



 返事をすると、武田さんが「じゃあ、電話かかってきたらよろしくね」と言い、支倉さんも「お願いします」と言って、すぐに席を立って事務室を出ていった。そうして、俺一人だけになった。


 一人きりの事務室は、なんだかとても新鮮だった。聞こえるのは、俺がパソコンのキーボードをタイピングする音、時計の針が動く音、ときおり外で車が走っていく音くらいだった。


 静かな空間は、好きなほうだ。邪魔するものがないので、集中して考えをまとめられる。前田は逆に、「静かすぎると落ちつかねー」と、以前ぼやいていたが。



「ただいま戻りましたー」



 入力し終えた報告書を、印刷前に確認していると、誰かが帰ってきた。


 振り向くと、そこには珍しい人がいた。



「お帰りなさい」


「あ、名瀬さん。ご無沙汰してます」



 元気な声の主は、鈴原和(すずはらのどか)さん。


 身長は、150センチちょうどらしく、かなり小柄。顔は丸くて小さめで、太めの眉が特徴的だ。薄茶色の長い髪をうしろでまとめてシュシュをつけ、カールした毛先を右肩に流している。天然パーマらしく、梅雨などの湿気が多い時期はとても苦労しているのだとか。


 彼女は、作業員の中では紅一点かつ最年少の二十三歳で、唯一の臨時職員。そして、なんと社長の娘であり、今は家事支援士と整理収納アドバイザーの資格取得のため勉強中の身だ。


 ちなみに、家事支援士とは、家事代行の仕事で重宝する民間資格だそうな。ただ、数ある資格の中でも比較的新しいものであり、世間の認知度は低い。ネットで検索しても、別の似た資格――家政士が出てきてしまうのが現状だ。



「っていうか、名瀬さんだけですか? 事務の二人は?」


「今、ちょっと社長に呼ばれてて」


「そうなんですか……聞きたいことあったから、飛ばしてきたのに」


「安全運転で頼みますよ。じきに戻ってくると思いますけど」


「じゃあ、待ちますか」



 鈴原さんは、そう言いながら事務所入り口の隣にある給湯室に入って、自分と俺の分のコーヒーをいれてきてくれた。



「ありがとうございます」


「いいえー。あ、そういえば。この前の土曜日のフリマ、どうだったんですか?」


「へっ? ど……どうって?」



 マグカップを受け取って一口飲んだあと、ドキッとして思わずカップを落としそうになった。


 どう、とは? まさか、あの「人前でスキル初披露」の件を言っているのか?



「盛況だったんですか? 私も行きたかったんですけど、都合つかなくて」


「あ、ああ。はい。それはもう」



 違ったようで、ほっと安堵しつつ、あの日の出来事を思い浮かべた。



「暑かったじゃないですか。おかげで、着ぐるみ入った森下さんがヒーヒー言ってましたよ」


「森下さんが着ぐるみ!? なんの着ぐるみですか?」


「ほら、『凪ニャン』っていうご当地ゆるキャラの……」


「あー! あれか!……え、マジですか? あれを森下さんが?……待って、なんかジワる……っ! もう一回着てくださいって頼んでみようかな」


「やめてあげてください。相当きつかったみたいなんで、いろんな意味で」



 応接スペースのソファに座った鈴原さんを振り返ると、彼女は体を少し丸めて肩を震わせていた。必死に笑いをこらえている様子だ。



「はー面白い……あ、そういえば、なんかトラブルもあったって聞きましたけど?」


「……トラブル、ですか?」


「はい。名瀬さん、子どもが放しちゃった風船とろうとして、はしごから落ちそうになったって前田さんから聞きましたけど」



 あのおしゃべり野郎。


 俺は動揺しながらも、それを悟られないようにパソコンの画面を見つづけた。



「そう、ですね。ちょっと突風が吹いて倒れそうになったんですけど、なんとかもちなおしました」


「ならよかった……いや、よくないですよ」


「ですね。危うく労災になるところでした」


「そこじゃなくて。名瀬さんは貴重な人材だから、ケガして出てこられなくなったら困るってお父――じゃない、社長が言ってましたよ」


「へっ?……社長、が?」


「はい。社交辞令抜きで、名瀬さんのこと気に入ってるみたいですから」



 ソファから立ち上がった鈴原さんが近寄ってきて、俺の肩に手を置いた。


 見上げた先にあった彼女の顔には、柔らかな笑みがあり、そのまま互いに見つめあった。


 ……え? この間は、なんだ?



「戻りました」



 そこへ、タイミング良く(悪く?)支倉さんと武田さんが戻ってきた。


 気づいた鈴原さんは、すぐに「お二人とも聞いてくださいよー」と言いながら、俺のそばから離れていった。


 変な汗が出るような感覚がする。気持ちをなんとか落ち着けようと、ひたすらわけのわからない言葉をパソコンに打ちこんだ。

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