1話 世界に一人置いてきぼりにされた感が半端ない
日曜日の朝七時すぎ。鳴るはずのない玄関のチャイムが、鳴った。
こんな朝早くにやってくる知り合いに、覚えはない。なにかの勧誘の可能性を疑い、玄関扉に近づいて、ドアスコープをのぞいた。
誰もいない。
やられたか。そう思って踵を返したが、直後に再度鳴らされるチャイム。
振り返り、再度ドアスコープをのぞく。やはり、誰もいない。
気味の悪さを感じつつ、なぜ誰もいないのに鳴るのか、と考えた。
ここは、築三十年越えのボロアパートの一室。しかし、壊れた可能性は万に一つもない。なぜなら、つい先日調子が悪い――宅配業者がいくら押しても鳴らなかった――として、新しいものに付け替えてもらったばかりだからだ。
他になにか可能性は、と考えているうちに、三回目の音が鳴り響いた。
言い知れぬ不安に飲みこまれそうになりつつも、とうとう好奇心が手を動かした。ドアチェーンを外し、鍵を回して開錠。そして、ドアノブに手をかけた。
ごくり、と音を立てて唾を飲みこむ。そして、勢いよくドアを内側に引いて、開けた。
目が合った!
それは、まっすぐ俺を見上げたまま、手に抱えていた平べったい箱のようなものを差し出してきた。
俺の膝の高さにも満たない、低くて赤い体。黒くて大きな穴のような目。そして――ひょっとこのような口と、複数ある足。
タコだった。
「……は?」
理解が、追いつかなかった。
何度目をこすってみても、頬をつねってみても、目の前の光景が変わる様子はなかった。
そこにいるのは、間違いなくタコだった。
タコは、なおも手にしている箱を突き出してくるので、つい反射で受け取ってしまった。それを見て満足そうに頷いたタコは、次に一本の足だか腕だかを伸ばして、こちらから見て左側をさして動かした。
「……あ……昨日、引っ越してきた……?」
聞くと、タコは頷いた。
確かに、先日隣の角部屋に新しい入居者がきたのは知っている。どんな人だろうか、うるさくない人だといいな、と思いつつ、すれ違った業者の人に、「お疲れ様です」と声をかけたのも覚えている。
そこで、ようやく理解した。こいつは、引っ越してきた隣人――の、ペットだ。そうだ。そうとしか考えられない。
しかし、妙に芸達者なタコがいたものだな。相当仕込まれたのだろうか。
感心していると、次にタコは、俺のほうに腕を伸ばしてきた。あいさつの一環、握手を求めているのだと気づいて、おそるおそるそれをつかんだ。
「っ!?」
瞬間、電気が走ったような衝撃を感じ、手を離した。
静電気か? 感じたのは一瞬だが、今まで感じたおぼえのないほどの強い衝撃だった。
「ご、ごめんな。痛かったか?」
「…………」
当然だが、タコはなにも喋らなかった。
つぶらな瞳を吊り上げて細め、じとり、と訝しげにしばらく凝視したのち、丁寧にお辞儀をして去っていった。
身を乗り出して顔をのぞかせてみると、確かにタコは、隣の角部屋へ向かっていく。そして、自分で鍵を使って器用にドアを開け、部屋の中へと入っていった。
なんだったんだ、アレは。
疑問を抱えつつ、ドアを閉めて、受け取った箱を見る。包装をはいで開けてみると、中に入っていたのは二組のフェイスタオルだった。なるほど、引っ越しのあいさつ用の品か。律儀だな。
淡い青とピンク色のそのタオルを見つめ、しばらく考える。
おい、隣人。ペットになにさせてんだ。
◇◇◇
その日の仕事を終えた帰りの電車の中で、流れる景色をぼんやりと見ていた。
大自然とはいえない程度の自然があり、大都会とはいえない程度に建物が立ち並ぶ。俺が住む神凪町は、東京都に属する町でありながら、そんな中途半端な町だった。
二十三区からもはずれていて、めぼしい観光名所もない。しいていうなら、数十年前に発見されて話題となった、隕石らしきものを展示している町立博物館くらいか。
なぜ、こんな辺鄙なところに住んでいるのか。答えは、「住み慣れた場所だから」だ。それ以上でもそれ以下でもない。
出会いや刺激を求めるのであれば、正真正銘の大都会と呼ばれる場所に出向く必要がある。学生時代は、実際そうやって友人たちと遊びに出かけていた。
しかし、学生の身分から出て、自分で働いて生活するようになってからは、「自分の時間」の大切さに気づき、平穏を求める気持ちのほうが強くなっていた。
そのために高卒で就職した会社は、残念ながら明らかなるブラック企業だった。なにかあったら自己責任で、上司が上司をしない。ミスは給料カットに直結。平気でサービス残業をさせる。その他、パワハラのオンパレード。
二年が限界だった。いや、よく我慢したほうだと思う。
そうして、覚悟を決めて出した退職願いを、「いいからさっさと仕事しろよ」と言われながら破り捨てられるといった一悶着を経て、なんとか今の会社に転職した。
社名は、『お助け本舗リンリン』。いわゆる便利屋だ。
暦とは関係のない業種のため、土日祝日の出勤もザラにある。前の会社と違うのは、別できっちり休みを確保させてもらえるところだ。もちろん、残業代も出る。
仕事内容は、体力勝負のものが多く、相手にする客の中には、理不尽な要求を突きつけてくる人も少なくはない。しかし、それでもやりがいは感じていた。かつて求めていた「平穏」とは程遠い気がするが、悪い気はしなかった。
その忙しくもささやかな日常が、こんなにも早く崩れ去るとは思わなかった。
今朝会った、タコの姿を思い浮かべる。
赤くてずんぐりむっくりとした体型に似合った、黒い点のようなマヌケな目。それが一瞬で、某漫画に出てくる殺し屋にそっくりな、鋭さを帯びていた。ギャップが激しすぎる。
同僚に話してみたくなったものの、寝ぼけていたのだろうと一蹴されるのがオチだと思い、誰にも言えなかった。
会社のある神凪駅から二つ先、椋原駅を下りて、徒歩十分弱の自宅に向かって歩く。すると、途中である事実に気づいて足を止めた。
うちのアパートは、ペット禁止じゃなかったか?
すぐさま、制服のツナギのポケットからスマホを取り出して、電話帳から「手塚孝史(大家さん)」を選んで、電話をかけた。
……いや、待て。電話してどうする。「隣に越してきた人、タコをペットとして飼ってるみたいですよ」とでも、告げ口するのか?
それで、もし引っ越してきたばかりのその人が退去するはめになったら、俺が疑われるかもしれない。へたをすれば、逆恨みされかねない。
電話を切る赤いボタンをタップしようとしたが、それより前に、「もしもし?」と初老の男性が応答する声が聞こえた。遅かった。
「あ、こんばんは。お疲れ様です」
「お疲れ様。なにかあった? まだ呼び鈴調子悪い?」
「いえ、そっちは大丈夫なんですけど……あの、なんて言ったらいいか……」
「なに?……あ、そういえば隣の部屋、入居者決まったんだよ。もう会った?」
核心をつく話になり、これはまずいと思いつつも、うまく話題をそらす方法は思いつかなかった。
「ああ、はい。会いました」
「びっくりしたでしょ? でも、割と話が分かるタイプだから。なんていうか……意思表示はしっかりしてくれるんだよね」
「……すみません。それって、角部屋に越してきた人の話ですよね?」
「そうだよ。人じゃなくて、タコだけど」
「……はい?」
「いや、だから。タコだよタコ。たこ焼きのタコ。スーパーとかで刺身で売ってるタコ」
それは知ってるっつーの!
わけが分からなかった。思わず、耳に当てていたスマホを落としそうになり、持っていたほうの右手に左手を添えた。
「タコってなんですか? いや、タコがなにかは知ってますけどね!?」
「どうしたの、名瀬くん。そんな慌てて」
「いやだって! タコですよ!? タコがアパートに住んでるってことですか!? 一人――じゃない、一匹で!?」
「そうだよ? それのどこがおかしいの?」
「……はぁ!?」
頭が混乱した。
大家の手塚さんは、まるで「俺が」おかしなことを言っているかのような口ぶりだった。
タコが一匹で、アパートの部屋を借りて住んでいる。この理解不能な事実が、おかしくないと?
あんたの頭のほうがおかしいだろ、と叫んでやりたくなった気持ちを必死におさえる。
「ちょ、ま、待ってくださいよ……!」
「大丈夫だよ。あのタコさん、悪い人――ああ、えっと、悪いタコじゃないから。喋らないからうるさくしないし、礼儀正しいし。引っ越しの日にね、わざわざ菓子折り持ってきてくれたんだよ。律儀でしょう? 今どきそんな人なかなかいないよ」
「そういう問題じゃなくて!」
「で、用事はそれだけ? なら悪いけど、もう切るね。これから出かけるんだよ。子どもたちが久々に遊びにきたから、みんなでご飯食べにいこうって話になってね。じゃ、お隣さんと仲良くね!」
そこで、一方的に電話を切られた。
電話が切れた音が鳴り続けているスマホを、信じられない気持ちで呆然と見つめた。
これは、ドッキリかなにかなのか? 俺は一体、なにに騙されているんだ!?
次回は明日の20時に投稿予定です。
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