第8幕 『 寄り道 』
昼食の後、乳腺腫の手術。
ベトルファールとアトロピンで前処置後、プロポフォールで導入。
胸部レントゲン。2方向。
手術中、疼痛からか、麻酔の効きが悪い。
「これ以上あげると、急に心拍下がっちゃうんですよねぇ...」
麻酔についている森先生が言う。
年齢を考えてアセプロ使わなかったからかな?
ここのとこ、ずっと麻酔がスムーズに行ってたけど、平穏無事がずっと続くわけにはいかないか...。
「ドルミカム、静注してみて」
これが功をなしたのか、しばらくして麻酔が落ち着いてくれた。
その後は、問題なく無事終了。
アセプロを使わなかったからか、逆に覚醒は早かった。
スクラブのまま医局へ行き、一息つくためにコーヒーを入れた。
一口飲んだところで、森先生がやってきた。
「おつかれさまでした」
「固定しておいてくれた」
「はい。大きかったので、割入れてホンルマリンにつけておきました。明日にでも切り出します」
森先生もシンクに行くと、自分のコーヒーを入れた。
そしてコーヒーをテーブルにおき、座った。
「かなり大きく切除しましたけど、ドレーンはいらないんですか?」
森先生が聞いてきた。
さっきの乳腺腫の切除後の縫合で、皮下に死腔ができていないか心配しているのだろう。
「皮下でしっかり縫えば大丈夫。ドレーン入れる隙間もないくらいね」
「死腔をなくしながら、皮下で皮膚を寄せていくんですね。ウォーキングなんとか...」
「縫う時に足の固定を外してもらうと寄せやすくなるね」
「そうか、だから外してもらってたんですね」
「まぁ、やってることにはそれなりに意味があるってこと...」
「なるほど...」
森先生はなにやらぶつぶつ言いながら立ち上がるとロッカールームへ行き、本を探しはじめた。
きっと、気になったところを自分なりに調べてみるつもりなんだろう。
わたしはまたコーヒーを一口飲むと、ぴーちゃんのカルテを書きはじめた。
夜の診察も朝と同じようにのんびりと過ぎて行った。
空いた時間に膿胸の洗浄をする。
まだ、しばらくは膿が出るね。
森先生に噛み付いたハムスターも、午後手術した乳腺腫のぴーちゃんも問題なく退院していった。
途中、ハサミで毛玉を取ろうとして皮膚まで大きく切ってしまったネコが来た。
傷も大きく、毛布をまとったような全身毛玉状態だったので、そのまま預かって麻酔をかけて丸刈りにすることになった。
縫合は森先生にしてもらう。朝の汚名挽回ね。
毛玉もとれ、さっぱりとした姿になったネコの麻酔が覚めた頃、夜の診察時間が終わった。
AHTのみんなが後片付けをしている時間に、医局で森先生に明日の申し送りをする。
明日、わたしはお休みなのだ!
申し送りと言っても、取り立ててないかな。
ハムスターは、もしまた出るようなら切除って言ってあるし。
乳腺腫は何もなければ明日は来ないはず。なにかあれば臨機応変にね。
あ、そうか、中島さんがいたな。
いったん話しをやめ、受付にいってカルテを持ってきて、森先生に渡す。
「中島さんは、いつもみたいにダミーで練習してる。明日も同じでいいかな」
「自分でやってみるって時は、やってもらってもいいですか?」
「どんどんやってもらって。でも、もし失敗したら、オーバードーズになるといけないから、再チャレンジはなしってことでね」
森先生がカルテに記入する。
「そんなとこかな」
「何か分からないことがあれば、電話します」
「しなくていいから...」
わたしは立ち上がると白衣を脱ぎならがロッカールームへ向かった。
「おつかれさまでした」
森先生がうしろで言った。
「おつかれさま」
外の空気は少しひんやりとしていた。
ジャケットの前を閉じる。
空を見上げると、たくさんの星。
心が騒ぐ。
ドアにキーを差し込みロックを解除し、車に乗り込む。
エンジンをかける。
いつもは暖機がすむまでぼーっと待っているけど、今日はこれから聴く音楽の選択。
音楽が決まった頃、水温計が動き出した。
もう少しすると、走り出すまでにもっと時間がかかる季節になるね。
ゆっくりと病院の駐車場を出る。
帰るときにいつもお弁当を買うコンビニ。今日はそのまま走り抜ける。
マンションに向かう道。途中で左折。すると、正面には左右に広がる山が見える。
今夜は少し寄り道。
山が近付くにつれ、道路の周囲は徐々に建物が疎らになり、稲刈りを待つたんぼが広がるようになる。
しばらく走ったところで、道が左右に分かれる。
左へ。
いつものコース、今日は右回りで...。
その後、道がやや狭くなり、ハンドルを切る回数が徐々に多くなる。
上り坂。
2速で走る。
3速だと、失速してしまう。
わたしの能力に応じたペース。
右、緩やかなカーブ。
それを過ぎると左に急カーブ。
そこ、舗装が悪いとこがあるから減速。
そして、右に大きく曲がる。ずっと続く、大きな大きなカーブ。体がドアに押し付けられそうになる。
次は直線。強めにアクセルを踏んで、やっと3速。
落ちている石のひとつひとつまでって分けにはいかないけど、頭に入っているコースの状態。
しばらく続く直線は、空に向かっている。
ヘッドライトが空を照らす。でも空の暗さにはかなわない。
その暗さの中で存在感を示すように輝くたくさんの星。
もうすぐ上りの終点。
そのまま飛び出したくなる気持ちを抑えて、減速。
続く下り坂。
すると、目の前に広がる街の灯り。
これ、右回りコースの特典。
でもすぐに道は左に曲がる。
崖側の木々が街を隠す。
何も考えずに、ただたらたら走るだけ。
木々の切れ間から、時折見える街の光
きれいだけど、それを見ているわけにはいかない。
次々とやってくるカーブに集中しないと、道から飛び出してしまう。
徐々に高度が下がる。
遠かった街の光が近付き、空がさらに遠くなる。
現実へ戻される時。
やがて、さっき左に曲がったところ。
もう一度左に曲がると、寄り道のおわり。
寄り道をした時は、いつものコンビニとは別のところでお弁当を買う。
ついでに、明日の朝のパンも買っておこう。
休日くらいは、朝ご飯食べたいものね。
コンビニを出て、マンションへの道を走る。
急に前の車が大きく中央よりにコースをとった。
何かを避けた?!
空いた路上に突然現れる平たい影。
わたしの車のヘッドライトが照らす。
?!
前の車と同じようにそれを避ける。
通り過ぎる瞬間に確認。
ネコ。
轢かれたんだ。
遠ざかる影。
葛藤。
そして、左折。
細い裏道に入る。
さらに左折。
しばらく走る。
もうそろそろいいかな?
左折。
さっきの道に出る。左折。
目標の前でハザードをつけ車を寄せた。
後ろの車が追い越していく。
踏まないでよ。
ドアポケットから、使い捨ての手袋を出す。
そうだ、何に入れよう。
これでくるんであげればいいか。
助手席の後ろに押し込んであるやや大きめのタオルを引っ張り出した。
手袋をはめながら周囲を見る。
車が途切れている今のうちに。
車から出ると、ヘッドライトに照らされた影へ向かう。
白と黒のネコ。
全く動く気配はない。
少し開いた口から、血が出ていた。
タオルをひろげ、そしてネコを抱き上げる。
冷たくなってるけど、まだ柔らかい。
潰れる前でよかった。
うげ、目が飛び出てる...。
頭打って即死か。
タオルでくるんで車まで行き、助手席の足下に置いた。
車で走っていて、路上で死んでいるネコを見つけると、そのままその場を離れることが出来なくなる。
通り過ぎて、ネコから離れれば離れるほど、胸を締め付けられるような気持ちが強まっていく。
そして、いつも引き返す。
わたしがやらなきゃいけないなんて思わないし、これが獣医の仕事だとも思わない。
でも、わたしが獣医やってるから、出来るのかな...とは、思う。
そーいえば、石津先生もよく拾ってたなぁ。
入れるものがなかったって言っては、直接車に乗っけてたっけ...。
まぁ、そーいう車だったけどさ。
また、石津先生のことを思い出しちゃったな...。