第6幕 『 写真 』
森先生のCastも無事終わり、しばし休息のあと午後の診察が始まった。
「お薬だけです」
医局にいると、早速、知華ちゃんがカルテを持ってやってきた。
カルテを見る。
マルチーズのあつろうくん、MR。
心臓の薬だね。
「変わりがなければ、そのまま出して」
知華ちゃんからボールペンをもらって、カルテに記入する。
「時々呼吸がおかしくなる時があるみたいで、またラシックスも欲しいってことですけど」
「心配なら、しばらくbidで併用してもらおうか。食欲があれば朝晩でも大丈夫って」
「分かりました」
知華ちゃんはカルテを受け取ると、薬局で薬の準備を始めた。
「診察お願いします。2件です」
今度は上田さんがカルテを持ってやってきた。
わたしは2つのカルテを受け取ると、中を確認しないで横にいた森先生に聞いてみる。
「上下、どっちがいい?」
少し悩んで森先生が答えた。
「上」
上のカルテを森先生に渡して、わたしは下にあったカルテを広げた。
「ワクチンだ、ラッキー。へっへー」
すると、既にカルテを広げている森先生がにやりと笑った。
「フィラリアの体重測定です」
「(T-T)」
くすくすと、上田さん。
奥では知華ちゃんが笑いをこらえていた。
「では、行きます」
足取り軽く、森先生は診察室へと向かった。
もう、今度困ってても助けてあげないからね...。
わたしはワクチンを用意するために、診察室のすみにある冷蔵庫に向かった。
その後もしばらく患者さんが続いたけど、厄介なものはなく、順調に流れて行った。
7時頃、患者さんが途切れた。
医局に戻り、『つかれたぁ』と椅子に座る。
「おつかれさまです」
森先生はすでに座って本を読んでいた。
受付もひと段落したようで、上田さんと知華ちゃんもやってきた。
「コーヒー入れましょうか」
知華ちゃんが言う。
「あ、ウメちゃんのおかあさんからもらったケーキがありますよ」
思い出したように、上田さんは医局の冷蔵庫からケーキの入った箱を出した。
テーブルの上で箱を広げる。
みんなが一斉に覗き込む。
「わたしイチゴ!」
「じゃぁ、まず、高原先生」
上田さんがイチゴショートをお皿にのせた。
「森先生は?」
「あ、ボクは何でもいいです」
「あー、そんなんじゃだめですよ。ちゃんと自分の意見を言わなきゃ」
上田さんににらまれて、森先生の目が潤む。
「じゃぁ、モンブランで...」
「じゃぁは余分」
「きゃははは」
知華ちゃんが笑う。
「知華ちゃんは?」
「あたしはイチゴショート。でも、いいですか、上田さんは?」
「わたしはチーズケーキでノープロブレム」
そんな会話を聞きながら、わたしのケーキはすでに最後の一口になっていた。
「いただきままーす」
知華ちゃんが言うと同時にチャイムが鳴った。
「うっそぉ~」
知華ちゃんの動きが止まり、涙目になる。
「いいよ、わたしいくから」
上田さんが立ち上がり、受付へと向かった。
少しして、上田さんがちょっと困った顔をして戻ってきた。
「ネコの木下さんですけど、けがしたハトを拾ったそうです」
あー、またおかしなのが入院室に住み着くのか...。
「わたしやるから。いいよ、みんな食べてて」
すでにケーキを食べ終えていたわたしは、ケーキに後ろ髪ひかれながら立ち上がろうとするみんなを制して医局を出た。
どのみち、ハトさんに飼い主がいるわけじゃないから、そのまま預かって処置することになる。なので、みんなが動く必要はないものね。
木下さんは段ボール箱を抱えて診察室に入ってきた。
「うちの子がやっちゃったのかなぁ」
そーいえば、木下さんとこのネコはよく鳥を捕まえてきてたなぁ。
診察台の上で段ボール箱のふたを開けてみると、中にはぐったりしたハトが横たわっていた。その下には血液が溜まっている。
「こりゃ、ひどいですね」
「だめですかねぇ、もう」
手を入れてハトを持ち上げる。
ぬるっとした感触が指先に伝わった。だらりと下がる右の翼。
右の胸部から翼にかけてざっくりと切れていた。
「出血がひどいから、難しいかもしれません」
「そうですか。仕方ないですね」
かと言ってそのまま返すわけにはいかないので、預かって処置することにした。
木下さんが帰った後、さてどうしようかと段ボール箱の中のハトを見ていたら、知華ちゃんがやってきた。
どうやら別の患者さんも来たみたい。受付で上田さんの声がする。
「もう、食べたの?」
「はい。おいしかったです。何か用意しますか?」
「とりあえず、縫おうか。4-0の針付きナイロン糸用意して」
知華ちゃんはうなずくと縫合の準備のために処置室に向かった。
わたしは段ボール箱を抱えてそのあとに続く。
「右上にして持ってて。そう、そんな感じ」
シンクの上で知華ちゃんがハトを持ち、ぱっくりと開いた傷をこちらに向けた。
無影灯をぐるりと回してフォーカスを当てる。
温めた生食で傷を洗った後、開いた筋肉を少しずつ寄せていく。
「なんか、冷たくない?」
「ちょっと...」
すでに体温が下がってきているみたい。
縫合したら、点滴できるかな?
筋肉が縫い終わったところで、森先生が処置室に入ってきた。
そのまま通り過ぎてレントゲン室へ行く。
すると次に院長がネコを抱えてやってきた。
「死んじゃいそ」
院長は一瞬こちらを見ると、ひとこと言ってレントゲン室へ消えた。
「なんだろね」
「院長が働いてるくらいですから、よほど緊急の子でしょうか?」
筋肉を寄せたら、出血は止まった。
さて、あとは皮膚を縫うぞ。
「先生、ひょっとして...」
知華ちゃんが暗い声を出した。
「だね...」
ハトはすでにこと切れていた。
出血が止まったはずだね...。
「このまま皮膚縫うね」
わたしは結節縫合から連続縫合に切り替えて、一気に傷を閉じた。
最後に糸を切り、把針器をおいた。
「木下さんに電話してくるから、あといいかな」
「はい」
片付けを知華ちゃんにまかせて、わたしは処置室を出た。
「知華ちゃん、処置台空けて」
なんだか後ろで森先生の声がする。
ネコ、大丈夫かな?
さっきの院長の言葉が浮かんだけど、そのまま受付に向かった。
そして、受付で木下さんのカルテを探し、わたしは電話をとった。
電話が終わって受付を出ると、診察室で院長が飼い主さんと話をしていた。
シャーカステンには2枚のレントゲン。さっきのネコかな?
そのまま通り過ぎて、処置室に入る。
処置台の上にはネコが横たわり、森先生が酸素のマスクを当てていた。
「あ、高原先生」
森先生がほっとしたような顔を向けた。
「どうしたの?」
「膿胸らしいいんですけど。かなり悪くて...。今、院長が飼い主さんに説明しています」
一生懸命に酸素を取り入れようと胸を動かすネコ。でも、その努力はほとんど報われていない様子だった。
時計を見るとすでに8時を回っていた。これから処置か...。
「先生、これでいいですか?」
知華ちゃんがトレーを持って聞いてきた。
トレーには膿胸の処置に必要なものがそろっていた。ちゃんと準備できるようになったね。
「それで大丈夫。挿管の準備もできてるよね」
「はい」
いつ呼吸が止まってもおかしくない感じ...。
「準備出来たぁ」
そう言いながら院長が入ってきた。手にはレントゲンを持っている。
そのまま壁にあるシャーカステンにレントゲンを挟むと、スイッチを入れた。
すると、真っ黒だったフィルムにコントラストがついた。
ああ、胸が真っ白。
「高原先生、膿胸。あとまかせたから、処置やって」
「はい」
「まぁ、かなりきびしいよって言ってあるから...」
院長が飼い主さんにそう言う時は、十中八九ダメな時。
さっきハトさん死んじゃったばかりなのにな...。
「森先生、まだ診察が少し残ってるみたい。頼むね」
院長はそう言うと、処置室を出ていった。
かわりに上田さんがやってきた。
「知華ちゃん、代わるね」
いくら慣れてきたとは言え、知華ちゃんはとっさの時にはまだ戸惑うことがあった。重要な場面では、
さり気なく上田さんがやってきて交代するのだ。
「まず留置しよう」
上田さんが駆血する。しかし、冷たくさえ感じる腕には血管が出ない。
21Gの針先で切皮する。
痛みに反応してネコが動く。
動かないで。暴れると危ない。
少し動いただけで、ネコの呼吸はさらに苦しそうになった。
眼科用尖刀で皮下を剥離、血管を確実に露出する。
留置針の外套と同じくらいの太さの血管。
薄い血管の壁を突き抜けないように、慎重に針を刺す。
入った...。
外套を滑らせ、同時に内筒を抜く。
そして、ヘパ生の入ったプラグをはめ込む。
聴診器をネコの胸に当てる。
胸の中の膿に遮られ、心臓の音が遠くで聞こえる。
心臓はしっかりしてる。
「ケタ入れよう」
「え?麻酔かけるんですか?」
上田さんの予想とわたしの考えは合わなかったみたい...。
「こんな状態で麻酔かけたら、かえって危なくないですか?」
「危ないから、麻酔をかけよう」
「でも、先に少しでも抜いてあげた方が...」
「確かにそうだけど、この状態じゃ、万が一痛がって動いたらそれこそ一巻の終わりだよ」
「石津先生は、いつも先に抜いてましたよ」
突然の懐かしい名前...。
そうか、上田さんは石津先生っ子だったね。
石津先生...。
わたしがこの病院に新卒でやってきた時に、すでに院長の右腕として(それ以上かな?)働いていた。
上田さんは、その石津先生に、わたしより先に育てられた子。
わたしより経験が長い分、時々意見を衝突させてくる。
きっと、まだ上田さんの中では、わたしのことを十分信用できないのかもしれないな。
頼りなかった時のわたしを知っているから、いまだに石津先生を慕うのも仕方ないか。
今の森先生みたいに、わたしも上田さんには散々しごかれたものね...。
どんな時も目の前の動物を助けたい...、そんな気持ちの現れだとは思うんだけど...。
でも、わたしとは基本的に合わないのかなぁ。
「きっと、呼吸止まると思うから、すぐに挿管。スムーズに行くように、お願いね」
わたしは注射器に麻酔を吸いながら、上田さんにゆっくりと言った。
上田さんは、口をつむんでそれ以上何も言わない。
それでも、きっとうまくフォローしてくれるはず。
いくよ。
プラグからケタをワンショット。
すぐにヘパリンの注射器に変えて、プラグの中のケタを押し込む。
ネコの四肢が伸びる。強直。
その後、力が抜ける。
「呼吸、止まりました」
上田さんが言いながら、頭部をこちらに向けて固定した。
左右の口角に指を当て、少し口を開いていてくれる。
これだけで、開口器がはめやすい。
一瞬、ネコの胸に手を当てる。
大丈夫、心臓はしっかりしてる。
喉頭鏡をあてると同時に気管チューブを滑り込ませる。
「入った」
わたしがチューブを固定している間に、上田さんは麻酔器に回路をつなぐ。
「酸素だけ。バッグして」
上田さんが呼吸をさせる。
まずは右から。
バリカンで毛を刈り。イソジンのスプレーをかける。
第八肋間で切皮。
ずらして第七肋間に14Gの留置針を垂直に刺す。
膿だらけ、肺と心臓は避けてくれる。
内筒を抜くと一気に膿が吹き出してきた。
このまま抜くか。
10ccのディスポでつないで膿を吸い出す。
針が太いからどんどん抜ける。
「自発出てきました」
ネコの胸が動き出した。
「SpO2がしっかりするまで、時々助けてあげて」
ディスポを外して留置針の外套にカテーテルを入れ、しっかり入ったところで外套を抜く。
これでカテーテルが胸の奥まで入ったことになる。
カテーテルを皮膚に固定後、今度はカテーテルにディスポをつけてさらに膿を吸い出す。
何度かやると、突然吸えなくなる。
右側終了。
「次、左」
一旦麻酔の回路を外し、ネコの体位を変え再び回路をつなぐ。
「麻酔かけますか?」
「お願い」
上田さんが麻酔器のダイヤルを回した。
左胸で、右と同じことを繰り返す。
左胸から膿が吸えなくなる頃には、SpO2も上がり、呼吸もかなり落ち着いてきた。
さて、次は胸の中を洗うぞ。
温めた生食をカテーテルから胸腔内に入れ、すぐに回収することを繰り返す。
最初は抜けた膿と同じような状態だった生食が、徐々に透明になってくる。
根気良く、繰り返す。
「これくらいでいいかな。麻酔もういいや」
なんとかがんばってくれた。
視線をあげると、森先生と知華ちゃんがいた。
「森先生、あとやれる?」
胸に包帯を巻いて、胸から出たカテーテルを隠してもらうのだ。
「は、はい」
ちょっと不安げに答える森先生に場所を譲った。
「知華ちゃん、ビクシリン、コンマ2と、バイトリル、1」
「はい」
しばらくして、ネコが動き出した。
抜管。
そのあとも、酸素を吸わせる。
まわりの後片付けが終わった頃、院長がやってきた。
「なんとか、がんばったか...」
ネコの状態を一通り診る。
「あとはいいよ。見とくから。ごくろうさん」
院長はそう言いながらみんなの顔を見た。
マンションに戻り、途中で買ったコンビニ弁当を食べ終わるともう12時近かった。
シャワーを浴び、そして、髪を乾かす。
でも、途中でめんどくさくなって、半乾きのまま発泡酒を取りに冷蔵庫へ行く。
発泡酒を取り出しドアを閉めたら、勢いが良すぎたのか、マグネットでドアに貼付けてあった大きなメモ用紙がはがれ落ちた。
あ...。
わたしの視線は固定され動きが止まる。
こんなとこに貼ってあったんだ。
メモがはがれたあとに現れた一枚の写真...。
それは、石津先生の送別会のときにスタッフみんなで撮ったものだった。
その場にしゃがみ込んで、目線の高さを合わせてもう一度写真を見る。
これさぁ...。上田さん、ちゃっかり石津先生の横に写ってんだよね。わたしの横なんて院長だしぃ。
発泡酒を開け、一口飲む。
でも、やっぱ麻酔かける前に抜くべきだったかなぁ。
病院でのことが思い出された。
上田さん、ちょっとむっとしてたな。石津先生がいた頃なら、告げ口されてるぞ。
わたしは、えらそうなこと言えるほど偉くないし...。
写真を見つめながら、わたしの視線はそのもっと奥を遡る。
大学を卒業して、国家資格を持って...、
それなりの自信とともに、わたしは『いっこく橋動物病院』にやってきた...。
けど、いざ現場に立ってみると、なーんにも出来なかったなぁ。
なさけないくらいに...。
爪切りすらまともに出来なかった。
そんな時、まぁ院長は当然としても、何でもできる石津先生や上田さんをすごいと思った。
緊急で運ばれてきた動物を前に、石津先生は挿管したり留置したりといった処置を確実にこなし、そしてそれがスムーズにいくように上田さんはしっかりとサポートしてた。
わたしはただ見てるだけで何も出来なかった。
何度も何度もそんな状況に出くわす毎に、そうのうちきっと出来るようになるという自分の甘い気持ちは打ち砕かれ、どんどん自信をなくした。
前に言われた同じことすら出来なくて、失敗して、院長や上田さんにいつも怒られてたなぁ...。
わたしにこの仕事は向いていないんだ...って悲しくなった。
何度も辞めようと思った。
めったに怒らない石津先生に怒られた時は、さすがにもうダメだと。
仕事が終わって、落ち込んで半べそかいてたら、気を使ってか石津先生が食事につれていってくれたっけな。
あ、そーだ。あとでそのことが上田さんの耳に入っちゃって...。
それからかな?風当たりがびゅんびゅんとさらに強くなったのは。
でも、石津先生が怒ったのは、失敗したことじゃなくって、怖じ気づいてやろうとしないわたしの気持ちに対してだったんだよね。
わたしが執刀した手術。突然恐くなって、手が震えて先に進めなくなった時...。
こわいだろ。恐くて当たり前だ。ちょっと油断したら殺しちゃうことだってあるんだからな。
何が恐い?よく考えろ。
そして、恐いものが分かったなら、どうしたら恐くないように出来るか、次にそれを考えるんだ。
そうやって、ひとつひとつ先を読んで進めていくんだ。
恐さは決してなくならない。でも、乗り越えることは出来るぞ。
そう言われても、その頃のわたしには何のことだかよく分からなかった。
だったら...、言われても分からないなら、見てみようと思った。
それから、石津先生の動作から目を離さないようにした。
しばらくして、不思議と少しずつ、その一つ一つの動作の意味が分かってきた。
さり気ない動作にも、必要性があったのだ。
それが分かりはじめた時、院長や上田さんに怒られる回数が減ってきた。
そして、つらかったことが思い出される季節を迎える度に、少しずつ自信が付いてきた。
そんな時、突然石津先生が病院を辞めた。
石津先生を頼っていた院長は、かなり落胆したようだったけど、気持ちを奮い立たせてまた第一線で働き出した。
そんな院長を見て、まぁ、これもありだったのかな?なんて、その時思ったんだけどね。
でも、それもしばしの間だけ。
わたしが石津先生のかわりといかないまでも、ある程度切り盛りできることが分かると、また半隠居生活に戻ってしまった。
同時に、石津先生のしてきたことがそのまま全てわたしに乗っかってきた。
その時はじめて石津先生の苦労が分かった。
こんなにも大変なことしてたんだ。
普段の診療に加えて、わたしのお守や、尻拭いまであったもんね...。
ドアの写真に視線が戻る。
石津先生が辞めてから1年か。
発泡酒を一口飲む。
『石津先生は、いつも先に抜いてましたよ』
上田さんのあの言葉、わかるなぁ...。
石津先生が辞めてからしばらくは、困った時、石津先生ならどうするだろうっていつも考えながらやってたもの。
そうだね。石津先生の行動には意味があった。
石津先生のまねをして、ちょっとした指の動きを変えるだけで、手術がとてもやりやすくなることもあった。
まぁ、時にはおかしなこともしてたけど...。
石津先生...。
先生が病院を辞めたのにも、なにか意味があってのことだったのかな?