第5幕 『 不機嫌な朝 』
「あー、なんだか目の回りちょっと浮腫んでないかぁ」
鏡に映る自分の顔を見る。
昨日の夜のお風呂上がり、ひと缶多かったかな?
ちょっと後悔しながら慌てて簡単に化粧をして、そのまま部屋を飛び出す。
朝食はとらない、ってゆうか、時間がないのでとれない。
病院に着いて、車を降りたところで院長の奥さんに会った。朝から縁起悪ぅ。
「おはようございまーす」
「高原先生」
うげ、呼び止められた。
「先月はちょっと収入が落ちてたから、今月はもっとがんばって下さいね」
「あ、はい。すみません」
って、なんでわたしが謝らなきゃいけないんだろう?
「努力します」
そう言って、ぺこりと頭を下げ、急いで病院に走っていく。
来てくれた患者さんからもっと搾り取れってことか?
必要がなきゃ、動物だって病院には来ないものね。駅前で呼び込みするわけにもいかないし。
でも、いざとなったら、あの奥さんならそんな命令をくだすかもしれないな。
裏の扉を開けてロッカールームに入る。
まだこの病院が小さかった頃、ずいぶん前だけど、その時は院長と奥さんと二人でやってたって話。
そんなだから、病院の経営状態に口を出したくなる気持ちは分かるんだけど、今は現場を離れてるんだから、あんまりあれこれ言われるのもねぇ。
時々、治療にも口出すこともあるしさ。
そーいうのって、従業員としては、すこぶるやりづらいぞ。
「おはようございます」
急に後ろで声がしてちょっとびっくり。
「あ、森先生か。おはよう」
「朝からご機嫌悪そうな顔付きですね」
「そお? 目の回り浮腫んでるからじゃないかな?」
「飲み過ぎですか?」
「まぁ、歳取るとね」
白衣を着たあと聴診器を取りロッカーを閉める。
ばたんと思ったよりも大きな音がした。
やっぱり機嫌悪いかな?
ちょっと気にしながら医局へ向かった。
受付の時計が9時を知らせる。
カルテが並んでる。
院長はまだ院長室から出てこない。森先生は処置室かな?
今日は彩ちゃんが休みの日なので、AHTが一人少ない。その分、森先生が動いてくれるといいんだけど...。
がんばれ、森先生。
上田さんは受付の仕事。知華ちゃんはまだ入院室の掃除中だね。
こんな日は、出来るだけヒトをあてにせず働かなきゃ。
最初のカルテを取る。
中島タロくん。昨日退院した糖尿病の子だ。
待合室に続く扉を開け、名前を呼ぶ。
「タロくん、どうぞ」
タロくんを抱いた中島さんはイスから立ち上がると、おはようございますと挨拶しながら診察室に入ってきた。
「どうでした? 昨日、戻られてからは」
診察台に下ろされたタロくんは、短い尻尾を振りながら首をのばし、わたしに挨拶をしている。
「ええ、元気で元気で。食欲もあって、今までと全く変わりがないようです」
中島さんの声はうれしそうだ。
「それでは、今日から注射のうち方を説明しますね」
糖尿病のタロくんは、血糖値を下げるために毎日インシュリンの注射を飼い主さんにうってもらわないといけない。
わたしはいったん診察室を離れ、処置室の冷蔵庫からインシュリンのバイアルを持ってきた。そして、診察室の棚からインシュリン用の注射器を取り出す。
「これがインシュリンです。保存は冷蔵庫です。そしてこっちがインシュリン用の注射器です」
交互にとって中島さんに見せる。
中島さんは緊張した面持ちでそれを見つめる。診察台の上のタロくんは相変わらず短い尻尾を振っている。
「インシュリンの扱い方ですけど...」
インシュリンを混ぜる時の注意点、注射器に吸う時の注意点、メモリの見方...。
できるだけゆっくりと、そして分かりやすい言葉で話すけど...、中島さんの表情が徐々に曇っていくのが分かる。
無理もないね。はじめてのことなんだから。
「大丈夫ですよ。必ずできるようになりますから」
中島さんの目がちょっと潤んでる。
「わたしも最初は、注射に慣れるまでよく手が震えました。患者さんにばれないようにするのが大変だったんですよ」
「先生がですか?」
そう言いながら中島さんはやっと笑顔になった。
今日はこのままわたしが注射をうとう。ゆっくりやればいいものね。
説明を続けながら、わたしはタロくんにインシュリンを注射した。
「ああ、ありがとうございます。一気に緊張がとれました」
「少しずつやっていきましょう。あ、食餌の与え方は大丈夫ですか」
インシュリンの注射の後、血糖値は低下しはじめる。それに合わせて食餌を与えて、低血糖にならないようにしないといけない。
念のため、わたしはもう一度フードの与え方を説明した。
中島さんはバッグから小さなノートを取り出すと、それに書いてあることと照らし合わせながら聞いていた。
「じゃぁ、今日はいいですよ」
「また、明日来ます。ありがとうございました」
中島さんはそう言ってタロくんを抱き上げると、ほっとした様子で診察室を出ていった。
カルテを書く。
仕切りの向こうで院長の声がする。
ちゃんと働いてるな。感心、感心...。
カルテをもって受け付けに行き、上田さんに渡す。
「森先生、何してる?」
ついでに聞いてみた。
「器具の滅菌してると思います」
上田さんがモニターを見ながら答えた。
「あれ? 何か手術あったっけ?」
「ネコのCastが入ってますよ」
「あ、そっか」
ネコのCastは森先生の担当だから、すっかり忘れてた。
わたしは受付を離れると、診察待ちのカルテがおいてある場所に行き一番上のカルテを取った。
主訴をみる。
元気がない...か。
こーいう漠然としたのって、一番やりにくかったりするんだよね...。
時計を見ると、まだ9時半だった。
そうか、まだ中島さん一人しか見てないもんね。
説明で疲れたからか、なんだかすごく時間が経ったような気がするな。
ひとつ息を吸って気合いを入れ直す。
そして、待合室への扉を開けた。
お昼まで、まだ先は長いなぁ...。
12時を少し回って、長く感じた午前の診療が終わった。
「おなかすいたぁ...」
そう言いながら医局に行くと、テーブルにはすでにお弁当がみんなの座る位置に配置してあった。
シンクでは知華ちゃんがお茶の用意をしている。
基本的にわたしと森先生はお弁当の配達を利用してる。
AHTさんたちは、その時によって同じように配達のお弁当を利用したり、自分でお弁当をもってきたりしてる。
今日は、上田さんも知華ちゃんもわたしたちと同じお弁当だ。
「今日のおかずは何だっけ?」
白衣を脱ぎながらわたしが言う。
「今日は、確か唐揚げだったと思いますよ」
受付から上田さんがそう言いながらやってきた。
「この唐揚げおいしいんですよね。もうちょっと量があるとなおいいんですけど」
森先生もやってきた。
「男のヒトには量が少ないかもしれませんね」
知華ちゃんがみんなにお茶を配る。
「いただきま~す」
みんな定位置の椅子に座り、一斉に食べはじめた。
今日の午後の手術は森先生がやってくれるので、わたしは気が楽。
それとは逆に、きっと森先生は緊張してるだろう。
その証拠に、いつもは参加してくる食事中の会話にもあまり参加せず、口数少なく食べていた。
食事が終わり食べ終わったお弁当の容器を片付けたあと、わたしはシンクに行き、棚から自分のカップを取り出すとインスタントコーヒーを入れた。
ついでに森先生のカップにもコーヒーを作る。
そして、二つのカップを持ってテーブルに戻った。
「はい。ゆっくり飲んで、そのあとはじめてね」
「あ、すいません」
森先生はちょっと驚いて、コーヒーとわたしを交互に見た。
「いつもといっしょでいいですよね」
「どうかな? 自分で考えて...」
そう言いながら、優しく微笑んであげる。時には突き放すことも必要でしょ。
まぁ、何かありそうなら、上田さんが黙っちゃいないし...。
コーヒーカップをもってすがるような目を向ける森先生を無視して、わたしは椅子に戻るとゆっくりとコーヒーをすすった。
「森先生、準備出来ましたよ」
知華ちゃんが呼びにきた。
「じゃぁ、はじめます」
森先生は覚悟を決め立ち上がった。
「何かあったら呼んでね」
医局から出ていく森先生に、わたしは手を振った。