第4幕 『 日常 4 』
手術のあと、少し休憩を取って5時から夜の診療が始まる。
ワクチン接種、フィラリア予防薬の体重測定、避妊手術の抜糸、簡単なものが続く。こういったものはできるだけ森先生にまわすことにする。
院長も何度か並んでいるカルテを見にきたけど、厄介そうなのがないと分かると院長室に戻っていった。
森先生が診察している間、わたしは処置室で午後やったSpayの子のカルテの記入。
電話が鳴る。
しばらくして、上田さんがやってきた。
「高原先生、朝の乳腺腫のぴーちゃんですけど、手術お願いしますって電話です」
「野口さんね」
やっぱりやってもらえるんだ。良かった。
「明後日が都合いいみたいなんですけど、予定入れていいですか?」
「水曜ね。確か院長休みじゃなかったっけ?」
「院長は、高原先生が良ければいいよって言われてましたけど」
「じゃあ、入れといて」
「はい」
そうね。院長はあんまり外科が得意じゃないし、いても手術するわけじゃないものね。
カルテの記入が終わったので、カルテを戻しに受付にいく。
彩ちゃんがいたので、カルテを渡す。
「小枝ちゃんのカルテ。今日のSpayの子ね」
「あ、はい」
彩ちゃんの向こうでは、カウンター越しに知華ちゃんが飼い主さんと話をしていた。
あの声は中島さんだ。糖尿病のタロくんの飼い主さん。朝の電話で、ご主人と一緒に、夜に来るっていってた。
すぐに知華ちゃんがカルテを持ってやってきた。
「中島さんです」
「料金書いてある?」
「夕方、院長が書いてました。退院の説明は高原先生に、とのことでした」
「はいはい、じゃあ、入ってもらって」
待合室に向かって知華ちゃんが中島さんを呼ぶ声が聞こえる。すぐに中島さんがご主人と一緒に診察室に入ってきた。
「こんばんは。どうぞ」
「お世話になっています」
長めの髪を簡単に後ろで束ねて薄いブルーのワンピースを着た中島さんは、ちょっと緊張した顔でおじぎをした。
「こんばんは。中島です。タロがお世話になっています」
グレーのスーツを着たがっちりとした体格のご主人が挨拶をした。ご主人と会うのは初めてかな。
「高原と言います。お忙しいところ申し訳ありません」
わたしはカルテを持ったまま頭を下げた。そして、すぐにカルテの中からタロくんの血液検査の書かれた紙を取り出し、診察台の上においた。
「早速ですが、入院中のタロくんの状態を説明させていただきますね」
タロくんは、最初、おしっこを漏らすようになったと言うことで来院した。話を聞いてみると、おしっこの量がかなり増えていて、それで我慢できなくて漏れてしまう様子だった。それに伴って、お水を飲む量もかなり増えていた。
血液検査の結果、糖尿病が明らかになった。
そしてそのまま入院。インシュリンの注射の後、定期的に血糖値をはかって、必要なインシュリンの量を決めることになった。
「今は、朝にインシュリンを4単位注射しています。これが、タロくんの血糖値の変化です」
診察台の上におかれた紙には、時間ごとの数字が書かれている。
最初の数字は540。そして徐々に数字は小さくなり、12時間後は280。そして24時間後には410。
次の日は、410から始まった数字が一番低いところで153になり、24時間後には280。
2日前の数字からは、200ちょっとで始まったものが、夕方過ぎに80前後になって、そしてその後は再び上がりだし、終わりの数字はまた200くらいに戻るようになっていた。
これは徐々に血糖値が落ち着いてきたことを示すわけだけど、飼い主さんにしてみたら、この数字の変化はあまり意味のないものかもしれない。とくに中島さんにとって重大なのは、自分でインシュリンの注射を打つことだからね。
一通り入院中の出来事を説明したところで、中島さんのご主人が口を開いた。
「わたしは仕事で朝早く出かけますので、注射は家内がやることになると思いますが、素人にもちゃんとできるものなのでしょうか?」
そう言うご主人の隣で、中島さんがすがるような目を向けてきた。
「大丈夫ですよ。タロくんは大人しい子ですから、最初は戸惑うかもしれませんが、必ずできるようになります」
にこっと中島さんに笑顔を向ける。
「ちょっと大変かもしれませんが、しばらく毎朝来れるようなら、一緒に注射をうってみましょうか」
「ええ、毎日来るようにしますので、ぜひお願いします」
中島さんはちょっと安心したような顔になった。
「通えるようなら、今日退院してもいいですけど、どうします?」
「よろしければ、連れて帰ります」
中島さんは、そう言うとご主人を見た。
「いないと、淋しいからな」
ご主人が小さな声で言った。
わたしは診察室の隅で一緒に話を聞いていた知華ちゃんに目で合図をした。知華ちゃんは入院室へタロくんを連れにいった。
その間に自宅での食事の管理の話をする。今までみたいにご主人からあれこれもらったり、たくさん食べ過ぎたりしないようにね。
ちょうど話が途切れたところで知華ちゃんがタロくんを抱いてやって来た。
「タロちゃん!」
中島さんがタロくんを見て、嬉しそうそうに声をかける。タロくんのテンションがあがるのが分かる。知華ちゃんの腕から飛び出しそうになりながら、手足をばたつかせた。
知華ちゃんが中島さんにタロくんを渡した後もその興奮はおさまらず、タロくんは甘えた声を出しながら中島さんの顔をなめまわした。
入院中、タロくんは面会のあと中島さんが帰られると寂しがって騒いでしまうので、面会を我慢してもらってたんだよね。寂しかったし不安だったろうから、今日はテンションがあがっても仕方ないね。
感動の再会を果たす中島さんとタロくんの横で、その間に入り込めなかったご主人が寂しそうだった。
午後8時。診察時間終了。
春の忙しい時期には、診察時間が終わってもまだ待合室には患者さんが待っていたりするんだけど、夏も過ぎた季節になると時間通りに終れることが多くなってくる。といっても、帰ることができるのは入院の子の治療やカルテの整理が終ってからなんだけどね。
わたしと森先生がそんなことをしている間に、AHTのみんなは受付の会計や院内の掃除をする。
今日は入院の子の治療もないし、診察の合間にカルテの整理とかが出来たので8時半頃には全て終わることができた。
AHTの3人娘は仕事が終わると帰るのが早い。きっと楽しい予定があるんでしょうね。
それとは対照的に、森先生はのんびりしている。わたしが医局を出ようとした時には、まだ椅子に座って獣医雑誌を広げていた。
「おつかれさま」
「おつかれさまでした」
森先生に声をかけ、外に出る。少しひやっとした外の空気が首筋に流れる。髪を束ねたままだった。首筋の涼しさが気持ち良かったので、そのまま帰ることにした。
車のドアを開け、助手席に荷物を投げると運転席に乗り込む。
キーを差し込み、ギアがニュートラルに入っているのを確認して、そしてキーをひねる。
ぶおんという大きな音とともにエンジン始動。
タコメーターの針がふらふらと揺れる。
エンジンが温まるまでの間、この子は不機嫌だ。すぐには走り出せない。
しばらくシートにもたれてぼーっとする。
ちょっと不便なとこもあるけど、大好きな車。
まだ学生だった頃、本を見て一目惚れして、あちこち探しまわってやっと手に入れたサンクターボ。
それ以来ずっと浮気もせずにこの車一筋なんだよね。
ちっちゃい体に迫力のヒップが魅力的。結構飛ばせるんだよ。
水温計の針が少し動き出す頃にはタコメーターの針も落ち着いてくる。
わたしにはちょっと硬いシフトレバーを1速に入れ、サイドブレーキを戻してゆっくりと走り出す。
クラッチが重いし、つながり方が神経質なのでエンストしないように慎重に...。
少し走ってコンビニの駐車場に入る。
今日も夕ご飯はコンビニ弁当。
学生のときは下宿しててもちゃんと自炊してたんだけど、働き出したら夜遅くなることも多いし、それから買い物して作るとなると、ちょっとしんどい。
それに、食材をまとめて買っておいても、急な手術とかが続いて帰るのが遅くなるとやっぱりお弁当になっちゃうから...、そうなるとせっかく買ったものも結局は腐らせちゃうんだよね。
今日は時間がいいのか、お弁当の種類が豊富。でも、ここはぐっと我慢して、おにぎりとサラダにしよう。油断するとすぐにおなかが出ちゃうからね。と、言いつつも誘惑に負けてポテチを一袋買う。
再び車に乗り込み、夜の道を走る。
朝と比べると道は空いていて走りやすい。朝の半分ほどの時間でマンションに到着。
駐車場に車を停め、マンションの階段を上がって2階へ行く。マンションって言ってもアパートに毛の生えたようなものなんだけどね。
鍵を取り出し、扉を開ける。中に入り灯りのスイッチを入れ、小さな玄関を上がると、玄関のすぐ左が洗面所、右がトイレ。洗面所の奥にはバスルームがある。
荷物を持ったままバスルームに入り、排水の蓋が閉まっていることを確認して、給湯器のコントローラーのスイッチを入れる。自動でお湯をはってくれる優れもの。お湯の止め忘れがないから便利だよね。
再び玄関に戻り、奥に進んで扉を開けるとキッチンがある。キッチンは対面式のカウンターになっていて、10畳ほどの洋室へと続く。
カウンター横の壁のフックに車と部屋の鍵をかける。いつもの場所。
フローリングの部屋のすみにはセミダブルのベッドがあって、小さな空間を占拠している。
残りのスペースの真ん中には小さなテーブルあって、iBookが閉じておいてある。
iBookの横に先ほどコンビニで買った夕食の入った袋を置いた。
ジャケットを脱いでバッグと一緒にベッドの上に放り投げる。そして、小さなベランダに続く掃き出しの大きな窓を開ける。
涼しげな夜の空気が入ってきた。
虫の鳴き声が聞こえる。ついこの前まではカエルの鳴き声がうるさかったのに。
とめていた髪をほどきながらキッチンに行く。そして冷蔵庫を開ける。
冷蔵庫の中に食材はほとんどない。そのかわり中を占めているのは発泡酒。夜に戻ってから飲むのってサイコーなんだよね。そこでやっと仕事の区切りが付くっていうか、でも、まぁ、急な呼び出しで慌てることもあるんだけどさ。
冷えた発泡酒をひとつ取り出し、ブシュッと開ける。そしてそのまま一口ぐぐっと飲む。おいしいねぇ。
先ほど開けた窓を閉め、カーテンをかけた。その間にも何度かグビグビと飲む。
テーブルの横のクッションに座り、おにぎりとサラダを袋から出す頃には、すでに発泡酒は残り少なくなっている。毎度のこと...。
おにぎりを製作する。いつもノリの端が包んでいるシートの中に残っちゃうんだよね。
一口食べてサラダのふたを開ける。
あ、ドレッシング忘れた。おにぎりを持ったまま冷蔵庫へ行き、中を見ながらちょっと悩む。やっぱりマヨネーズにしよう。ドアポケットからマヨネーズを取り、指定席のクッションに戻った。
部屋のすみには小さなテレビがおいてある。でも、よほど気に入った番組がある時でないとスイッチを入れることはない。いつも同じような番組ばかりでつまらないから。
そして、テレビの横にはちょっと色あせた赤い30センチくらいの四角い箱がある。
つらい時や落ち込んだ時には、蓋を開けてその中を見る。
時には手にとってみたり...。
わたしのお守り。
テーブルの上のマックを開く。液晶のバックライトがついてハードディスクが回転をはじめた。マックはすぐに使えるように、スリープ状態で閉じておくことが多い。
マウスを使ってインターネットのブラウザを開き、さらに別のソフトで音楽を流した。
おにぎりを食べ終わった。マヨネーズをサラダにかけ、プラスチックのフォークでレタスを口に運ぶ。発泡酒の最後の一口を飲む。
メールのチェック。全部、変なメール。全て選択して一気にゴミ箱へ捨てる。
『”ゴミ箱”にある項目を完全に取り除いてもよろしいですか?』
『OK』
アルコールの効果が少し出てきて、やっと体の緊張感が抜けてきたって感じ。続けてもうひと缶開けたいところをぐっと我慢して、サラダを平らげる。
とりあえずお風呂入ろ。
お風呂のあと、ポテチ食べながら、また一杯飲む、これまたサイコー。
今日は院長も病院にいるはずだし、森先生もある程度動けるようになってきてるから、緊急でわたしが呼び出されることはないよね、きっと。
以前にお酒を飲んだあとに緊急で呼び出され、自転車を必死に走らせたことがあった。そうそう、このあと、自転車でも飲酒運転になることを初めて知ったんだっけ...。
食べ終わったサラダの器とかをコンビニの袋に入れ、キッチンのゴミ箱まで運ぶ。そして、そのまま洗面所へ向かい、一気に着ているものを脱いで横の洗濯機に放り込んだ。
髪を丸めて後ろで留める。洗面所にある時計を見るとまだ10時前だった。
春の忙しい時期なら、まだ病院にいる時間だね。8時の診察時間が終わっても、まだカルテが山ほど待ってたりするんだよね。そのまま順調に終わっても、9時。そして入院の子の治療やカルテの整理とかしてたら、すぐに10時過ぎちゃうものね。時々、緊急の手術なんかが入ったりすると、もう次の日になってたりする。
時々思う。会社勤めとかで、定時に仕事が終わってそのあと自由な時間を持てる日が何日かあったなら、わたしの今の暮らしはもっと違っていたのかなぁって。
毎日、病院とマンションの往復だけじゃ、なーんにも刺激的なことは起こらないものね。
でも、大学卒業間近の頃、友達に言われたことがあったっけ、『あんたは会社勤め合わない』って。
ほんとに会社勤めが合わないかどうかは分かんないけど、机に向かってずっと何かやってるってのは、確かに合わないかもね。じっとしてたら息苦しくなっちゃう。
なんだかんだでいつも慌ただしく動いてる。忙しさに愚痴を言いつつも忙しくしていないと逆に落ち着かない。
変な性質。
お風呂だってそう。ゆっくり湯船に浸かってのんびり、なんてお風呂に入る前はいつも思うんだけど、いざ入ると体を洗って髪をシャンプーしたらとっとと出ちゃう。
何か考える時に、動きを止めてぼーっと出来ないんだろうね。今だって、いろいろ考えながらすでに体を洗い終えて、髪をほどきシャンプーの体制に入っている。
まぁ、仕事がそーいった内容だから、こんな行動パターンになったんだね、きっと。
働き出す前は、もっとのんびりした性格だったんだけどな。
のんびりと、何かやってみたいな。
でも、これからの時期、仕事が少しずつ暇になるから、空いた時間にやりたいことをやってみよう...なーんて考えてはみるんだけど、いつも考えるだけ。
だってね、何かやろうとあれこれ考えてるうちに、気が付くといつの間にか春になって、また仕事が忙しくなってる。
去年もそう。
ずっとそう...。
それでも、何かやってみたい気持ちは、まだなくならないな...。