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第3幕 『 日常 3 』


 午前の診察時間は12時までで、その後昼食をとり少し休憩をしてから手術の時間になる。

 今日はイヌのSpay、避妊手術ね。

 避妊手術は外科の基本みたいなものだから、そろそろ森先生にやってもらいたいんだけど、まだ院長の許可はおりない。なので、わたしが執刀。

 「高原先生、鎮静はどうします?」

 森先生が聞いてきた。

 じゃあ、そろそろはじめようかな。

 「今日の子は大人しいから、スタドール通常量とアセプロ半量で。その後、留置でいいでしょ」

 「分かりました。注射します」

 「留置までしてね」

 「あ、はい」

 何にしても、やらないとうまくならないものね。

 森先生にはもっともっといろいろやってもらって自信を付けてもらいたい。

 そうしないとわたしが楽できないから...。


 今日の避妊手術の子は、6か月のゴールデン。

 初回発情前の手術。この年齢でやれば、乳腺腫の心配はほぼないでしょう。もちろん卵巣と子宮を取っちゃうわけだから、それに関する病気の心配もなくなるよね。

 しばらくして処置室に行く。

 留置ちゃんとできたかな? 

 ちらりと注射のトレーを見る。使用済みの留置針が一個転がっている。1回失敗したな。

 処置台の上では、腕にべトラップを巻かれたゴールデンの小枝ちゃんがゆっくりと尻尾を振りながらこちらを見ていた。

 目はとろんとして、瞬膜が出ている。

 鎮静が効くと、なさけない顔になっちゃうんだよねぇ...。


 「助手は森先生ついてね。次のネコのSpayからやってもらうから、やり方しっかりと覚えてね」

 森先生がちょっと引きつった笑顔を見せた。

 「それじゃ、麻酔かけましょうか」

 導入薬はプロポフォール。白い、牛乳のような液体。

 翼状針で延長した注射器で、留置したところへゆっくりと入れていく。

 呼吸抑制が起こることがあるので、できるだけゆっくりと・・・。

 しばらくすると、ゴールデンの体の力が抜けて処置台の上に横たわる。

 「挿管して」

 注射器を残したまま森先生に指示する。

 森先生は開口器をゴールデンの上下の犬歯にかけ、大きく口を開けた。

 上田さんが喉頭鏡と気管チューブを森先生に渡す。

 「入れるとこ見えてるよね」

 「はい」

 気管チューブが入ったところで、細い包帯をチューブにかけ、バイトブロックを噛ませて口に固定する。

 次に、隣の手術室へ移動。

 森先生が力の抜けたゴールデンを抱えていく。力の抜けた動物は重いぞ。

 Vの字になった手術台に仰向けに寝かして、上田さんが麻酔、モニター、点滴のチューブを次々につないでいく。

 イソフルの気化器のボリュームを4に合わせる。

 プロポフォールが覚める前に、ガスを十分効かせるのだ。

 森先生はバリカンで腹部の毛刈り。

 「麻酔、安定したら下げてね」

 そう言いながらわたしは白衣を脱いでスクラブになる。

 そして、手術用の帽子をかぶり、後ろで束ねた髪を丸めて中に押し込んだ後、マスクをつける。

 徐々に緊張感か高まっていく。

 避妊手術はごく一般的に行われる手術で、なにも特別なものではないんだけど、緊張感は他の手術と変わらない。いや、もしかしたら病気でする手術よりも緊張するかも。

 だって、避妊手術は健康な状態の子におこなって、健康な状態で返さないといけないからね。これが緊張感を高める原因かもしれないな。


 森先生は毛刈りを終えて、イソジンのスプレーで消毒をはじめた。ゴールデンのおなかが茶色く染まっていく。

 わたしは手術室の隅のシンクで手を洗う。

 手を洗うといっても普通の手洗いとは違って、ブラシで肘の辺りまで念入りにごしごしと洗わなくてはいけない。

 次に術衣を着て手術用のグローブをはめる。ここから先は無菌の世界。滅菌されたもの以外は触れられない。

 手術の器械のおかれた台からディスポのドレープをとると、消毒の終わったゴールデンの体にかける。

 次に切開する部分をハサミで切って窓を開ける。

 そうすると、術野となるおなかの一部が見えるだけになる。

 そしてドレープがずれないように4隅をタオル鉗子で固定、さらにドレープが浮かないように縫合糸で皮膚に縫い付けると準備完了。

 「じゃあ、はじめますね」

 森先生をちらりと見る。点滴の速度を調節していた森先生は、視線をこちらに向けてうなずいた。

 手術のやり方は、それぞれの病院や獣医師によって様々。うちの場合、通常は手を洗うのは術者一人。助手は麻酔の管理やその他の雑用をこなすことになる。助手が手を洗うのは、大きな手術や、一人じゃやりにくい場合だけかな。

 メスをとり、おへそのした辺りに刃を当て一気に移動させる。メスの移動したあとには細い跡が残り、少し遅れて血液がしみ出す。

 左手に持ったガーゼで出血の場所を押さえた後、右手はメスから電気メスに持ち替える。そして、ガーゼの圧迫を一瞬外しながら出血の箇所を確認して電気メスで止めていく。

 次にメッツェンで皮下組織を少し剥離し、白線を出す。

 2本のアリス鉗子で白線の両脇を挟んで持ち上げ、白線の真上をメスで少し切開する。もう一度メッツェンに持ち替え、白線の穴を前後に大きく広げる。

 今日の子は太っていないので、切開部の奥には大網とそれに隠れた腸管、そして脾臓が見える。太ってる子だと、脂肪しか見えないこともあるんだよね。

 おなかの中に指を入れて子宮を探る。子宮の触れた感触は腸管とは違う。

 あった。

 そして指にかけるようにして子宮を外に引っ張り出す。

 ヒトの子宮と違って、イヌの子宮はYの字になっていて、上の両端にはそれぞれ卵巣が、下は頚管から膣につながっている。

 Spay、つまり避妊手術は、通常この卵巣と子宮をとることになる。

 まず、右の卵巣を出す。まだ発情を迎える前の子宮なのでちょっと卵巣が出にくい。卵巣はちょうど背中側についているので、それを引っ張って出すことになる。

 卵巣が出やすいかどうかは、手術のやりやすさにかなり影響を与える。

 特に太った子で出にくいと涙が出ちゃうこともあるよね。

 左手で卵巣を持ち上げ、そこから延びる血管に鉗子をかける。そしてその下を結紮。さらにもう一度結紮。次に卵巣と子宮の間を軽く結紮し、鉗子と卵巣の間を切断すれば片側が終了。

 左側も同じことを行う。

 そして子宮間膜を破るように広げれば、ついに子宮はぶらぶらの状態。

 でも、この時のじわりじわりと出る間膜の出血はあまり好きじゃないので、わたしはしっかりとここも止血してから切るようにしている。

 残るは一か所。頚管部分。

 子宮の頚管部分は硬くなっているので、そこに軽く糸を通してずれないようにし、ここも2重に結紮する。

 そして切断。

 念のため左右の血管も結紮。

 最後に子宮の断端には軽く間膜の端を縫い付けておく。

 これをしておくと、あちこちに断端が癒着しないような気がするんだよね。

 あとはおなかの縫合。


 「どお? 分かった?」

 縫合糸をとりながら森先生に声をかけた。

 「先生のを見てると簡単そうなんですけど」

 「まぁ、何度もやって覚えるしかないよね」

 そして森先生に聞こえるかどうか分からないくらいの声で次の言葉を付け加えた。

 「やればやるほど恐くなるけどね...」



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