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第2幕 『 日常 2 』


 受付の壁に掛かった時計から9時を知らせるメロディが流れる。

 受付から診察室につながるドアの横には小さな台があって、診察の順番にカルテが並ぶようになっている。見ると既に3つ並んでいた。

 一番目のカルテを取って、まず名前を見る。

 山田さんのごまちゃん。

 次に主訴を見る。

 昨日から下痢か。

 よし、仕事開始。

 診察室から待合室に続く扉を開ける。

 「ごまちゃん、どうぞ」

 待合室には壁にそって6つのイスがある。山田さんはパグのごまちゃんをを抱いて、その一番右端に座っていた。

 「はい」

 山田さんは返事をすると、ごまちゃんを抱いたまま立ち上がった。

 山田さんは20代後半の女性で、ごまちゃん以外にも何頭か動物を飼っている。

 診察室の扉を開けたまま山田さんが入るのを待つ。

 「おはようございます。こちらへどうぞ」

 奥の診察台を指す。

 山田さんが通り過ぎたところで扉を閉めて診察台に行く。

 2つの診察台の周囲は基本的に同じ状態なのでどっち使っても一緒なんだけど、どちらも空いていれば何故かわたしは奥の診察台の方を好んで使う。

 診察台を挟んで、山田さんは中央側に、わたしはテーブルのある壁側に立つ。

 「昨日の夜に下痢したということですね」

 カルテと山田さん、そしてごまちゃんをそれぞれ見ながら確認する。

 山田さんは、抱いていたごまちゃんを診察台の上に載せた。

 「ええ、散歩のときにちょっと緩くって、家に戻ったら下痢になってました」

 「水みたい?」

 「そこまではひどくないです」

 「今日、食欲はどうでした?」

 「食べたそうだったんですけど、以前先生に、下痢のときは絶食っていわれたので、今朝は与えませんでした」

 「吐くことはないですね」

 「はい」

 状態を聞きながらカルテに書き込む。

 「じゃあ、ちょっと診てみようかな」

 まず体重を確認。11.3キロ。

 「またちょっと太ったね」

 「おとうさんが、いつもこそこそといろいろあげてるんですよね」

 頭の方から全身を診ていく。

 目、耳、口、異常なし。

 胸の聴診、異常なし。

 おなかの触診、太ってて良く分からないけど、圧痛なし。

 テーブルに体を向け、カルテに書き込む。

 「特に心配なところはなさそうですね。元気もあるし。何か思い当たることはありますか?」

 「やっぱり、おとうさんかなぁ。ごまちゃん、何かもらった?」

 山田さんは、そう言いながらごまちゃんを見た。ごまちゃんは答えるはずもなくただしっぽを振っている。

 「心配するようなものではないと思いますので、おなかの薬を出しておきますから、飲ましてあげて下さい」

 院長ならここで注射をうつだろうな、とちょっと思う。まぁ、経営者的な立場なら一回の治療の単価を上げた方がいいものね。でも、本当に注射が必要かどうかを考えると、飲み薬ができる状態なら必要ないよね。


 「夕方まで絶食にしようか。吐いていないからお水は自由に飲んでいいです。散歩はちょっと控えた方がいいかな。それでも下痢が続くようなら、またみせて下さい」

 「はい、ありがとうございます。今日は注射なくて良かったね」

 山田さんはごまちゃんを抱き上げると、会釈をした後、診察室を出ていった。

 飼い主さんにしてみても、注射は嫌だったりするんだよね。

 カルテに下痢止めの処方と、自宅での看護に必要な注意事項を書く。この注意事項は薬を渡す時にもう一度受付で説明してもらうためのもの。何度も説明しないと、十分に伝わらないことが多いからね。


 「佐藤さん、入ってもらって」

 向こう側で院長の声がする。診察を始めたみたい。

 院長は、カルテがたくさん並んだり院長指名の患者さんが来た時に診察するくらいで、あとは院長室にこもってることが多い。獣医師会の役員やってたりしてるから忙しいのかな。わたしにしてみれば、もっと院長に働いてもらいたいんだけど、でもそれくらいの楽が出来ないと、ヒトを使ってる意味がないよね。


 山田さんのカルテを持って受け付けに行く。

 「お願いね」

 彩ちゃんにカルテを渡す。

 このあと彩ちゃんは薬を用意して、パソコンに治療内容を入力して会計をする。

 「高原先生」

 振り返ると、上田さんが電話の子機を持って医局から受付に入ってきたところだった。

 「タロくんのおかあさんから電話です。どうですかって」

 「血糖値、どうだったかな?」

 「森先生、まだ処置室です」

 「じゃあ、聞いてみる」

 上田さんから子機をもらい、診察室を通って処置室に向かう。

 診察室で院長が診察している子の飼い主さんと目が合ったので挨拶する。ももちゃんのおかあさん。ももちゃんは知華ちゃんの保定で、院長に耳掃除をしてもらっている。

 処置室に入ると森先生がカルテの記入をしていた。きっとタロくんのカルテ。

 「タロくん、血糖値どうだった?」

 「あ、はい、130です。ずっと、4単位でこれくらいの値です」

 「じゃあ、そろそろ退院してよさそうね」

 イヌの血糖の正常値は100くらいなのでもう少し下げてもいいかなって思うけど、食餌の管理とインシュリンの注射で最高の血糖値は200以下に抑えられてる。

 低血糖を起こす方が恐いので、特に問題がなければぎりぎりまで血糖値を下げない方がいいかなって思う。


 電話の子機の通話ボタンを押す。

 「もしもし、お待たせしました」

 森先生が書き終えたカルテを差し出した。それを受け取ると、わたしは診察室の方を手で示す。カルテ溜まってるから次やってね。

 森先生は一瞬きょとんとしたけど、意味が分かったらしくすぐに診察へと向かった。

 「血糖値も落ち着いていて、食欲もありますので、そろそろ退院を考えてもいいと思います。ただ、食事の管理とかインシュリンの注射とか自宅でやったいただかないといけないことがいくつかありますので、それがしっかりとできればなんですけど」

 タロくんのおかあさんのちょっと戸惑う様子が電話からも伝わった。

 血糖値のコントロールのために、タロくんはインシュリンの注射が毎日必要で、飼い主さんにそれをやってもらわなくてはいけない。

 わたしたちにしてみれば、注射をうつことはたいしたことじゃないけれど、飼い主さんにしてみれば、それはそれは大変なことなんだよね。

 最初は注射器を持ったとたんに手が震えちゃうヒトもいるくらい。動物の方も何されるんだろって構えちゃうしね。

 でも、何度かやるうちにちゃんと慣れるから大丈夫。ヒトも、動物も。

 「注射が心配だと思いますが、こちらに来られた時にしっかりとお教えしますので、大丈夫ですよ。タロくんも大人しい子ですしね」

 おかあさんの心配は簡単にはなくすことができない。実際に注射をうつところを見てもらって、自分でやって慣れてもらうしかないんだよね。

 「それでは、夜に主人と伺います」

 「お待ちしてます」

 電話を切って、カルテに電話の内容を簡単に書く。そして、受付にカルテを渡すために処置室を出る。

 診察室に入ると、院長の耳掃除は終わっていて、院長も既にいなかった。一つやっただけで院長室にこもったな。

 森先生が診てる仔イヌは、きっとフィラリア予防の体重測定ね。

 森先生、まだ会話がぎこちないなぁ。もう少し自信を持って話せるといいんだけどね。そんなじゃ、飼い主さんが不安がっちゃうぞ。


 受付に行くと、耳掃除をしたももちゃんの会計が終わったところだった。

 「タロくんのおかあさん、ご主人と夜に来られるって。今日退院になるか分からないけど、一応料金の計算をしておいた方がいいかな。出たら院長に確認しておいてね」

 彩ちゃんにそう言って、タロくんのカルテを渡した。

 ちらっと待合室を見ると、数人待ってるかな。診察続けなきゃ。

 「先生、先日はありがとうございました」

 声の方を振り返ると、待合室から受付の中を覗き込むようにしてこちら見ている中年の女の人がいた。

 瞬時に頭をフル回転させて、誰だったか記憶を探る。

 野村さんだ。数日前、抱っこしていたチワワを落としてしまい時間外に診察したんだよね。

 「あれからどうです。まだおかしいですか」

 少し前脚に跛行があったけど、心配なさそうな状態だったけどな。

 「ええ、足はもうすっかり良くなりました。今日はフィラリアの薬をもらいにきたんです」

 よかった・・・。こう言うのって、結構ドキリとするんだよね。

 「それは良かったですね」

 「ありがとうございました」

 野村さんはおじぎをして椅子に戻っていった。


 診察室に行く途中で次のカルテを取る。

 野口ぴーちゃん、Mix、メス。主訴はおなかにしこりがある、か...。

 「ぴーちゃん、どうぞ」

 待合室に続く扉を開けて呼び込みをする。

 40代後半くらいの野口さんはちょっと小太り。名前を呼ばれて、ちょっと尻込みする15キロほどのぴーちゃんを抱えて入ってきた。

 「よいこらしょ」

 野口さんは声を出してぴーちゃんを診察台にのせた。その時ちょうどぴーちゃんのおなかがこちらを向き、主訴のしこりが目に止まった。

 「おっきなのが出来ちゃいましたね」

 「なんだか、急に大きくなったみたいですよ」

 おなかのしこりは、腹部右側のやや後ろ寄りにあって、大きさは10センチほどだった。

 触ってみる。

 皮下の硬い塊、可動性、境界はハッキリしてそうかな。

 何度か触って確認した後、他にもしこりがないか触ってみる。

 ここの大きなのがひとつだけか...。

 「今の状態から判断すると、乳腺腫の可能性が高いですね」

 「乳ガンですか」

 野口さんが心配そうに聞いてきた。

 「悪性かどうかは組織検査をしてみないとはっきり分かりませんが、万が一悪性だと肺に転移する危険性はありますね」

 「どうしたらいいですかね」

 「乳腺腫は薬で治せるものではないので、できるだけ早く外科的にとるのがいいでしょうね」

 「手術ってことですね」

 「はい。手術でとって、とったものを組織検査に出します。それで腫瘍の種類や悪性かどうかはっきりします。その時にレントゲンも撮って胸の状態も確認しましょう」

 「もう寿命ですかね」

 腫瘍とか、悪性とかの言葉を聞いて、野口さんはがっくりきている様子だった。

 「いえ、ぴーちゃんはまだ9歳なので、まだまだですよ。14、5年以上生きる子はたくさんいますから」

 「手術はたいへんですか」

 「特に筋肉にくっついてる感じはないので、とるのはそんなにたいへんではないと思います。でも、全身麻酔で行いますから、年齢から麻酔のリスクは多少考えないといけません。まぁ、もっと歳をとった子でも麻酔に耐えてくれる子はたくさんいますけど」

 「ぴーちゃん、がんばれる?」

 野口さんは診察台の上で不安そうにしているぴーちゃんに向かって言った。

 ぴーちゃんは何もいわない。

 「避妊手術してないからこうなっちゃったんですかねぇ」

 野口さんはこちらに視線を向けた。

 「確かに、乳腺腫は最初の発情前に避妊手術をすれば、ほぼ100%防げるというデータが出ています。その後、発情を迎える度に予防率は低下して、4、5回迎えた後は悪性のものに関しては予防効果はなくなると言われています」

 避妊手術は、元気な状態の子にメスを入れるということで、嫌う飼い主さんが多い。でもね、病気のことを考えて長い目で見ると、やっぱり早めにやっておいた方がいいんだよね。

 「お父さんと相談してから、返事をしてもいいですか」

 「ええ、構いません。ゆっくり考えて下さい。費用の見積りも出しておきますので、決まったところで連絡していただければいいですよ」

 「また、連絡させていただきます」

 野口さんはそう言うと、また『よいこらしょ』とぴーちゃんを抱いて診察台から降ろすと、待合室の方へと歩いていった。

 診察室を出る時のぴーちゃんの足どりは軽い。


 「10センチ弱か・・・」

 カルテに腫瘤の位置、大きさ、状態を書く。

 「手術になりそうですか?」

 顔を上げると上田さんがカルテを持って立っていた。

 「あとで連絡するっていわれてたけど、きっと手術するんじゃないかな」

 「次、これお願いします」

 上田さんは持っていたカルテを差し出した。

 こうやって回ってくるカルテは厄介な患者さんだったりするんだよね。

 「森先生は?」

 「ぼくだと嫌な顔されるから、って言ってましたよ」

 「院長は?」

 「獣医師会のことで電話しなきゃいけないからって」

 「もう...」

 仕方がないのでカルテを受け取る。

 「野口さんの見積もり出しといて。通常の乳腺腫の見積りでいいと思うけど」

 そう言って上田さんに野口さんのカルテを渡した。

 厄介なカルテを見る。

 「チャコちゃん、本田さんか」

 悪いヒトじゃないんだけど、話がめっちゃ長くなるんだよね。

 ため息なのか深呼吸なのか、大きく息を吸って一気に吐き出した。

 そして、待合室に続く扉を開ける。

 「チャコちゃん、どうぞ」




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