第1幕 『 日常 1 』
コンビニのある角を右折すると、左側に小学校の校庭が見える。そして、しばらくすると目に入るわたしの仕事場。
鉄筋2階建てのがっちりとした建物。白い外壁にはイヌのパッドのシルエットがひとつ大きく塗装してあって、動物に関係した建物だということがすぐに分かる。
建物の南東2方向に面した位置は駐車場で、それが角で合わさるところに大きな看板がある。
『いっこく橋動物病院』
そう、わたしの勤務先は動物病院なのだ。
ここの勤務医として、今年で6年目。
大学で6年勉強してだから、まぁ、年齢はそんなもの...。
表の駐車場は患者さんのためのものなので、建物を通り過ぎて裏に回る。そこにはちょっとした空き地があって、スタッフの駐車場になってる。
やっぱりわたしが一番最後だね。
急いで車をいつもの位置に滑り込ませ、助手席に置いてあった荷物を持って外に出る。そして、キーを差し込んでロック。今時リモコンじゃない車なんて...。
院長の奥さんに会わないことを祈りながら病院の裏口を目指す。
今日は近所のおばさんたちと喫茶店でモーニングかな。
建物の裏口を入ると、すぐにスタッフのロッカールーム。
正面の右から2番目、高原灯子ってネームプレートが貼ってるのがわたしのロッカー。
扉を開け、荷物を放り込んで、羽織ってきた上着を脱ぐ。
上着なんてなしでもいい季節なんだけど、下にはいつもスクラブ着て来るから、今朝みたいに急いだ時にそれがガソリン臭くならないようにね。
肩よりも少し下まで伸びた髪を後ろで束ねる。ちょっと臭い付いちゃったかな? そしてスクラブの上にケーシータイプの白衣を着る。白衣って言っても、ほんとは薄いピンクだよ。
ピンクの白衣は、勤めだした時からずっとこの色なんだけど、最近になって、どうしてピンクなのだろうかと思うようになった。女だとやっぱりピンクなのかな? 男の先生はブルーだし。
でも、そんなことを考えながらも、ロッカーの扉に掛かっているリットマンの聴診器の色はピンクだったりすんだよね。まぁ、ヒトに押し付けられるのと、自分で選択するのとは違うってことかな?
聴診器をとって首にかけると、獣医さんの完成。あっ、胸のポケットに小さなメモ帳が入ってるか確認しなきゃ。洗濯の時に取り出すと、時々どこかいっちゃうんだよね。
このメモ帳には、普段、診察で使う薬の量などが書いてある。
薬を使う時に量が分からないと、飼い主さんに見つからないようにこそっと見たりする。薬も色々あるし、動物の種類によって使う量が違ったりたまにしか使わないものだってあるから、うろ覚えで使うよりもしっかりと確認して使った方が間違いがないものね。
最後にロッカーの扉の裏についている鏡で自分の顔を確認して、扉を閉めた。
ロッカールームには、壁一面にびっしりと獣医学の本が押し込められた大きな本棚があり、そのすみにはコピー機がおいてある。
その他にもあれこれグチャグチャいろいろなものがおいてあって、まぁ、物置きみたいになってるかな。
ロッカールームから右に行くと医局。
中央にテーブルがあって、ここでお昼ご飯食べたり、暇な時にはお茶を飲んだりする。
で、さらに右の扉の奥は院長室。まだ、いないかな?
左側は受付と薬局。
ここは、ほんとは医局と一つの部屋なんだけど、中央が大きなカルテの棚で仕切られている。なので、受付のカウンターからは医局の様子が全く見れないようになってて、診療時間中におかし食べてても飼い主さんには分かんない。
「おはようございます」
「おはよう」
受付で掃除をしているのは、AHT(動物看護士)の小松彩ちゃん。2年の専門学校を終えて、わたしより二年あとにやってきた。もう、4年目になるかな。わたしがいろいろ教えて育て上げた逸品...。そんなこともあって、一番気が合う。
「昨日、イヌのワクチンの残りが少なかったけど、注文票に書いてあった?」
「5種ですよね。さっき注文しました」
「ありがと」
受付のカウンター横にある扉の向こうは待合室。そちらには行かずにその左にある扉を開けると診察室につながる。
診察室は二十畳くらいの大きな部屋。病院によっては診察室を小さく区切るところもあるけど、うちの病院はかなりオープンなスペースだね。
横長の部屋の真ん中には簡単な仕切りがあって、大きな空間を左右二つに分けている。
分けられた空間の中央には、仕切りに平行して診察台。
さらにその後ろには壁に沿って長い作業台があり、診察中にカルテを書いたりするスペースを空けて、顕微鏡とそれにつながるモニターがおいてある。
治療に必要な注射薬とかが収めてある棚もこの台の上にあるね。
そして仕切りの反対側も同じ状態。
つまり、同じ診察室が左右対称にあるって感じかな。
待合室から診察室に入るとちょうど真ん中になるので、そこから左右の診察台に振り分けられて診察するってことね。
診察室の中央をそのまま突っ切り扉を開けると、処置室と検査室。診察室と同じくらいの広さで、左右で使い分けてる。
「おはようございます」
「お、おはようございます」
「おはよう」
右側にあるシンクの処置台で、シュナウザーが後ろ足から採血されていた。
イヌを保定しているのは、今年で8年目のAHT、上田未歩さん。この病院で一番長く勤めてるベテラン。ちょっとこわい...。
わたしの方が年上なんだけど、この世界では先に勤め出したAHTの方がなんだか偉かったりする場合があるんだよね。
でも、まぁ、大学出たての何にもできない獣医師よりは、数年働いたAHTの方がいろいろ出来たりするから仕方がないんだけどね。
そして、顔を火照らして一生懸命採血しているのが、森太一先生。
きっと、上田さんにしごかれてんだろうな。と、いうのも、森先生は今年ここにやってきたばかり。その前に一年間、他の病院にいたんだけど、大学卒業してまだ一年ちょっとじゃ、上田さんにしてみたらいじり甲斐のあるおもちゃだろうね。
「先生、タロくん痛そうですよ」
保定している上田さんが言う。
「あ、ご、ごめんなさい。足、変えていいですか?」
さらにうろたえる森先生。
「もう、採血できる足なくなっちゃいますよ」
とどめを刺す上田さん。
ははは、がんばれ、がんばれ。その苦しみを乗り越えて、上手くなっていくのだ。
「森先生、血糖値落ち着いてたら、インシュリンは一緒でいいからね」
わたしは真剣な顔でアル綿で一生懸命に毛を分け血管を探す森先生に言った。
「・・・・」
応える余裕がないみたいね。
処置室の壁にはカルテを立てる小さな棚があって、そこに入院している動物たちのカルテがおいてある。それをまとめて取って、一つずつ確認する。
ひとつめはさっきのシュナウザーで糖尿病。インシュリンの量が一定してきたから、もうすぐ退院できるかな。ふたつめは、昨日Spay(避妊手術)したさくらちゃん。みっつめはホテルで預かってるウメちゃん。今日はこれだけ。
処置室は手術の準備室も兼ねていて、奥は手術室に続く。
検査室のスペースの壁側には、血液検査等の器械が並ぶ台があって、ここにも顕微鏡が一台おいてある。検査室から続く手術室の隣は、レントゲン室になってる。
検査室の奥にはもう一つ扉があり、そこを開けると、正面にはフードとかが置いてある廊下があって、そこから右側がイヌの入院室。左がネコの入院室。でも、実際には、うるさい子は右で、大人しい子は左って感じで使ったり、伝染病の子が入院する時にはどちらかで隔離したりといった具合に使い分けてる。
右の入院室の扉にある小窓をのぞいて、動物が外に出ていないことを確認して扉を開ける。
入院室の扉を開けたとたんにケージから出ていた動物が逃げ出すってことがないとは言えない。病院から動物を逃がすってことは、絶対にあってはいけないことだから、扉の開け閉めには十分気を使わないといけないね。
入院室に入ると、左側の壁には3段に入院ケージがある。下段には中央に仕切りを入れることのできる大きなケージが3つ。中段と上段には下のケージの半分のサイズのものが、それぞれ6つある。
「おはよう」
「あ、おはようございまーす」
AHTの中原知華ちゃん。さっきのシュナウザーの入ってた中段のケージの掃除中。
知華ちゃんは今年で2年目。やっと一人で動けるようになってきたかな。
その横のケージには、ヨークシャーのウメちゃんがいる。
「さくらちゃんはごはん食べた?」
下段のケージに入っているMIXを見ながら言う。昨日避妊手術をした子。
「はい、完食です。うんちもおしっこもしました」
「午前中にお迎えに来るっていってたから、退院の準備しておいてね」
「はい」
次に、もう一方の入院室に入る。一斉にネコの鳴き声。
こちらの入院室はさっきのところよりちょっと狭い。壁側のケージは下段に大きなのが2つ、中段は下の半分のサイズが4つ、そして上段はさらに小さいのが6つ。
下段のケージのひとつには、ゴールデンレトリバーが入っている。名前は健太郎、病院犬。輸血が必要な時に活躍してもらっている。時々、病院の中を自由に動き回ったりしてる。
上段のケージはネコで満員御礼。入院室に入ったとたんになき出したのはこの子たち。
いつまでたっても退院しない...。つまり病院の居候。
病院の前に捨てられてたり、怪我をして拾われたけど引き取り手のなかった子。こういう子たちって、多いんだよね。
そのままこの入院室の奥の扉を開けると、ロッカー室に出る。これで病院を一周したことになるね。
わたしの仕事場は、こんな感じの所。
あっ、院長忘れてた。
そのままロッカー室を通り抜け、医局の右側にある扉をノックする。
「どうぞー」
「失礼します」
扉を開ける。タバコのにおい。扉を開けた位置で挨拶する。
「おはようございます」
「おはよう」
8畳ほどの部屋の入り口に近いところには簡単な応接セットがあって、その奥にはパソコンの載った大きなデスク。そしてその向こうに椅子に座ってタバコを吹かす院長がいる。
歳は60代前半くらいだったかな? 白髪の目立つ頭、おそらく老眼鏡だと思われる眼鏡をかけた顔は、とっても優しそうな感じを受ける。もう、十分働いたから、早くリタイヤしたい、が口癖。でも、まぁ、院長の代だけでここまで病院を大きくしたんだから、若い頃はがむしゃらに働いてきたんだろうね。
「入院の子たちは特に問題ありません。糖尿病のタロくんは、もう少しで退院できると思います」
「うん、ありがと」
「今日、イヌのSpayがあるんですけど、森先生にやってもらいますか?」
「イヌか」
院長は天井を見ながら煙を吐いた。
「今度のネコからにして。今日は助手につかせて、もう一回しっかりと教えてもらおうかな」
「わかりました。失礼します」
長居をするとタバコのにおいが体中についちゃうので、早く部屋から出たいんだよね。
「あ、高原先生」
部屋を出ようとしたら、まだ続きがあったみたい。
「これから、暇になる時期だから、できるだけ手術とか入院を入れてね」
振り向いたら、院長がにっこりと笑っていた。
動物病院が最も忙しい季節は春から夏にかけて、狂犬病の予防注射とかフィラリアの予防とかが重なるから。そして秋にかけて徐々に暇になり、冬は冬眠するかのようにじっと耐える季節になる。寒いとヒトも外に出たくなくなるからかな? 動物は自分で病院には来れないものね。
人口約30万人のこの市には、動物病院が10件以上あるのだけれど、その中でもここは大きい部類になる。大きいというのは、それだけ来てくれる患者さんが多いということなんだけど、スタッフの数も多いわけだから、冬の時期にその人件費をまかなうのは大変なんだろうな。