第16幕 『 迫り来るもの 』
「一本入れちゃっていいからね」
森先生に点滴の指示を出す。
手術台の上には、ドレープをかけられ大きく膨らんだお腹を無影灯に晒すラブラドール。
わたしは一つ大きく深呼吸をすると、お臍の下から恥骨前縁まで一気にメスを走らせた。
出血をコントロールし、さらに奥へ進む。
すごい脂肪。
なんとか白線を見つけて、穴をあける。
すると、呼吸に合わせて膿が漏れ出した。
メッツェンで前後に切開を広げる。
おなか中に漏れていた膿が一気にあふれだす。
マスクを通して膿の匂いが鼻を突く。
麻酔を見ていた森先生の顔がちょっと歪んだ。
「吸引して」
上田さんがサクションの先をおなかの中に突っ込んだ。
チューブに膿が流れる。
膿の中に手を突っ込み、子宮を引っ張り出す。
大きな子宮。
さらに膿があふれだした。
ここか。
子宮の裂け目発見。
静脈も切れ、流れ出る膿の表面に赤黒い渦を作っていた。
鉗子を持ち、裂け目を挟む。
止まらない。
挟んだ横が裂ける。
もうひとつ。
さらにもうひとつ。
いくつもの鉗子で挟まれた子宮が醜く歪んでいく。
子宮は捨てるから、膿が止まればいい。
ねっとりした膿が内臓をコーティングしてるみたい。
いくら吸引しても、膿だらけで術野が見にくい。
「洗おうか。500の生食。バッグ切ってぶち込んで」
彩ちゃんがレンジで温めた生食のバッグを運んでくる。
1本入れる。
2本目入れる。
吸引。
もう一度。
サクションを逃れた生食と膿とが混ざった液体がおなかから溢れ、ドレープをつたい床に落ちる。
一部はわたしの術衣を濡らしていく。
数回繰り返すと、やっとおなかの中の膿が薄くなってきた。
これで先に進める。
でも、このおなか、太ってる上に筋肉質ときてる。
卵巣出るかな...。
「先生、総一郎くんの様子が変です」
知華ちゃんが大きな声を出しながら慌てて手術室へ入ってきた。
ゴールデンだ。
「森先生!」
わたしが言う。
一瞬、間があって、森先生は手術室を出た。
しかし、このおデブさん、やっぱり卵巣でないよ。
すぐに森先生が戻ってきた。
「ショック状態です」
破裂しちゃったか...。まいったな。
「留置して。左右の腕にした方がいいね。そして、両方から全開で落として」
わたしは出ない卵巣と格闘しながら、術野から視線を外さずに言った。
「は、はい」
森先生が走っていく。
次に視線をあげ、上田さんを見る。
上田さんはうなずいて森先生の後を追った。
だめだ。卵巣が出ない上に、膿のせいか脂肪のあぶらのせいか、指が滑る。
とても鉗子がかけられる状態じゃないし...。
「ごめん、彩ちゃん、手、洗って」
彩ちゃんはすぐに自分の術衣を取り出しパックをやぶると、手を洗い出した。
処置室では上田さんが留置の準備をしている。
そこへ森先生がぐったりしたゴールデンを抱えて入ってきた。
知華ちゃんが続く。
彩ちゃんが準備をしている間に、もう一度血管が結べないかやってみる。
だめだ、脂肪が邪魔して、よく見えない。
「準備出来ました。持ちます」
彩ちゃんが手術台の向こうに立った。
卵巣を持って引っ張ってもらう。でもそれだけじゃ十分に出ない。
「おなか押さえて」
ガーゼで脂肪や腸管をどける。
一瞬、目的の場所が見えるけど、呼吸する度にガーゼがずれ、脂肪が再び覆い隠していく。
やりにくい。
胸を汗が伝うのが分かる。
「もっと引っ張って!」
言葉がきつくなる。彩ちゃんが悪いわけじゃないのに...。
指を総動員して血管に掛けた糸を奥に押し込み結紮。
ダメだ、緩んだ。
彩ちゃんの手が、力の限界で震えているのが分かる。
「一度、手を緩めよう」
処置室に目をやる。
ガラス越しに森先生と目が合い、こちらにやってきた。
「両腕から、急速で落としています。でも、粘膜真っ白です」
急速に点滴することでショック状態は楽になるけど、逆に血液はどんどん薄くなっていくものね。どこまで持つか...。早く輸血しないと。
「健太郎から採血して」
「は、はい」
森先生は処置室に戻った。
「もって」
彩ちゃんに再び卵巣を引き上げてもらう。
ガーゼと、タオルも動員して余分な内臓を押さえ込む。
「そのまま、動かさないで」
もう、指がつりそう...。
結紮。
もう一回。緩まないで。
さらにもう一回結紮。
よし。
2重結紮するために、もう一度血管に糸を回す。
結紮。
念のため、あと2回繰り返す。
「もう少しがんばって」
再び手が震え出した彩ちゃんに声をかける。
メッツェンを持ち、卵巣を確認しながら切断。
彩ちゃんの手の緊張がとれる。
出血なし。
続いて脂肪だらけの間膜の血管を電気メスで止血後切断。
さあ、もう一回。
左の卵巣を持ってもらい、ガーゼとタオルで内臓をどける。
突然、脾臓が視野を遮る。
じゃま。
上からガーゼを当て押し込む。
裂けた脂肪から出血してる。
さらにやりにくくなっちゃったな。
ガーゼを押し込み血液を吸い込ませる。
糸をかける。
脂肪が出てきて邪魔をする。
彩ちゃんが、おなかを押さえている指を無理矢理のばし、どけてくれた。
「先生、無理です。健太郎動いちゃって、上手く採血出来ません」
森先生の声。
今、ここから目を離せない。
「なら、麻酔かけて、頚からとって」
開いた間膜の穴に糸を通す。
脂肪からじわりと出血してる。
「皮膚切開して、頚静脈出してもいいから」
これで結べるか...。
「そ、そんな、やったことないです」
あ、ずれた。
「僕にはできないですよ」
もうっ!
「今、わたしは手が離せない。出来るのはあなたしかいない。やりなさい」
顔をあげ、森先生を見る。
自信のない顔。
「やりもしないで、出来ないって言わない!!」
そう言うとすぐにわたしは術野に目を戻した。
また、最初っからだ...。
「引っ張って!」
彩ちゃんに声をかける。
どけてもどけても覆いかぶさってくる脂肪。
滑る指先。
いらだつ心。
ほんと...、
なにも、好き好んで問題を起こしたいわけじゃ、ない!!
わたしは心の中で叫ぶ。
けど、いくら叫んでも、事態が変わるわけではない。
そして、
ついに恐れていた絶望感が顔を出す。
やがて、
それは少しずつ広がっていく。
加速度をつけて。
どんどん、どんどん...。
ああ、もう、いやだ。
こんなつらいのは、嫌だ...。
暗闇。
光の穴。
そこから滲み出る光。
それが徐々に大きくなる。
そして周囲を満たす。
やがて、それが波のように打ち寄せる。
きらきら光りながら...。
ああ、きれい。
次の瞬間、それが一気に濁る。
鼻を突く悪臭。
赤黒く濁った、黄緑色の液体が目の前を覆う。
これは、膿だ!
目を開ける。
ぼーっとした明かりが周囲を照らしている。
マックのモニターの明かり。
そうか、マンションに戻ってそのままテーブルで寝ちゃったんだ。
肩が痛い。
頚が重い。
指が震える。
体中に重くのしかかる凄まじい疲労感。
テーブルに肘をつき、額に手をあてる。
いつもなら、体がどんなに疲れてても、手術の後には達成感があったはずなのに...。
今日は、疲労感しかない。
絶望感とも言えるくらいの重苦しい疲労感。
そして、
気にしないでおこうと思っても、何度も何度も強制的に思い出されてくる夕方の言葉。
たった一言で、簡単にヒトを追い込むことって出来るんだなぁ。
わたしのやってきたことは、なんだったのだろう。
ほめられることを期待してるわけじゃないけど、否定されたくないよ。
もがくだけで逃れられない閉塞感。
閉ざされた壁の中にいる感じ。
この壁は何?
徐々に範囲を狭め、わたしに迫る。
乗り越えられない壁。
このまま、圧し潰されるしかないの?
夜。
暗闇の中のわたし。
孤独。
そして夜の暗さは焦燥を生む。
さらに、悲しみも。
苦しみも。
ついには底の見えない暗闇の中に落ちてゆく。
こんな暗い世界は嫌だ。
逃げちゃいたい。
そうか、そーだよね。
逃げちゃえばいいんだ。
もう、がまんしなくていいよ。
そう思った瞬間。
すると、逃避への道が照らされるのだ...。
わたしは立ち上がると、テレビの横においてある赤い箱を手に取った。
テーブルに戻り、箱を開ける。
久しぶり...。
でも、それはいつも見慣れているもの。
そう、
見慣れた輸液セットだったり...。
見慣れた薬品のアンプルだったり...。
さあ、まずは頭の中で使い方をシミュレートしよう。
回路をつなぐ。
アンプルは輸液バッグそれぞれにね。
ひとつめの薬が、まずわたしの意識をなくすよ。
そして緩んだ指先をすり抜け、ふたつめの薬がとどめを刺すんだ。
2重の仕組み...。
完璧だね。
今までに、何度も箱を開け、使い方の順を辿った...。
でも、いつも病院でやってるようにテキパキと準備する自分を想像すると、そのうちそれが滑稽に思えて、気が萎えてバカらしくなる。
いつもそうだった。
そして、これがわたしの手もとにある限り、いつでも使えるというおかしな安心感を持つようになった。
そう、いつでも使える。
だから、逆にお守りになった。
まだ、使うには早い。
そう思って、いつもふたを閉じる...。
でも、今日は違う。
漆黒の暗闇から生じる孤独が、わたしを急き立てる。
今日は出来る。
今日はしなければいけない...と。
わたしの腕を、指先を動かそうとする。
楽になれるよ。
もうつらいことなんて、なんにもなくなるんだよ。
甘い言葉を何度もかける。
そう...。
もう、楽になろう。
...。
だめ...。
だめ!
今にも消えそうな小さな光が叫ぶ。
ちがう!
ほんとの逃げたい理由はそーじゃない!
ほんとは、今のこの夜の孤独から逃げたいだけ。
早く!
早く朝が来て!
この暗さだ。わたしを追い込むのは、きっとこの夜の暗さだ。
夜の孤独に完全に飲み込まれてしまう前に、早く朝が来て!
わたしはひざを抱え頭を押し込み、夜の孤独に耐える。
お願い、はやく...。
長く長く、永遠にも感じる時間。
孤独に震えて、
やがて朝を迎える。
そして、わたしは何もなかったように仕事にゆく...。
数日後。
蓄膿症のラブラドールは元気に退院した。
脾臓摘出のゴールデンは一時退院することが出来た。
そして、院長も無事退院した。
それからしばらくして、院長が仕事に復帰したころ。
わたしは院長室のドアをノックした。
「どうぞ」
「失礼します」
ドアを開けると、いつものようにドアの近くに立つ。
そして、ひとつ深呼吸をしたあと、ゆっくりと言った。
「今月一杯で、病院を辞めさせてください」




