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第15幕 『 がんばれ 』


 院長の退院の日が決まった。

 それを聞いて、少し肩の荷が下りたような気分になった。

 でも、油断は禁物。百里の道も九十九里をもって半ばとせよ...だよね。


 院長がいないことは、それぞれみんなに多少なりとも影響を与えた。

 特に森先生においてはいい刺激だったようで、獣医師としてひとまわり大きくなったように思えた。

 積極的にカルテをとって、自分から診察を始めることが多くなった。

 うん、成長したぞ。

 「なんかさ、森先生、背がのびたんじゃない?」

 森先生の頭に手を伸ばしながら言ってみる。

 「あの、中学生じゃないんですから、今頃のびないですよ」

 森先生は笑いながらわたしに言うと、朝一番のカルテをとり診察室へ行った。

 ん?冷蔵庫に行ったぞ。

 なんだ、ワクチンか...。

 わたしも次のカルテをとると、診察を始めた。




 午前の診察が終わり、受付を閉めようとした時だった。

 「こんなになっちゃったけど、どういうこと!」

 待合室に入ってきた女の人の大きな声が、医局にまで聞こえた。

 「先生、呼んで」

 なんだかきつそうな言い方、怒ってるな、こりゃ。

 すぐに彩ちゃんが引きつった顔をして医局にやってきた。

 「朝、ワクチンうった新井さんです。顔が腫れちゃったみたいで」

 副作用出ちゃったか...。

 「あ、僕がうった子です。僕行きます」

 わたしよりも先に森先生が立ち上がった。

 「大丈夫? わたしが行こうか」

 「僕が行かないと、よけいに不審がられますから」

 そう言うと、森先生は待合室の扉を開けた。

 立派になったね、森先生。


 しかし、いつまでたっても森先生は戻ってこなかった。

 当然、新井さんも帰った気配はない。

 みんなが心配そうに診察室の様子に耳を傾けた。


 「まず治療を...」

 「治療は結構です。もうこれ以上おかしくしてもらいたくないから」

 「ですから、これはワクチンの副作用のひとつで」

 「今までこんなことは一度もなかったのよ」

 「その時の体調によっても、出たり出なかったりするんです」

 「何か間違ったものを注射したんじゃないの!」

 副作用に関しては、診察中や会計の時にもペーパーを渡して説明してるはずなんだけど...。

 こりゃ、こじれちゃったな。

 

 「行ってくるね」

 心配しているみんなに言うと、わたしは医局から診察室へ続く扉を開けた。

 

 新井さんに抱かれたダックスのノンちゃんの顔は大きく浮腫んでいた。でも元気はありそう。

 「高原と言います。今回はノンちゃんにつらい思いをさせていまい、大変申し訳ありません」

 わたしは頭を下げた。

 「あなたじゃなくって、院長先生はいないの? いつも院長先生に診てもらってるんだから」

 あーあ、防護壁、ないんだよね...。

 「申し訳ありません。今、院長は病院を空けていまして、代わりにわたしが任されています」

 「あなた達じゃ話にならないわ。院長先生がいないなら、もういいです! 他の病院で診てもらいます。変なもの注射されていないか調べてもらいますからね」

 「院長には必ず今日のことを伝えます...」

 新井さんはわたしの言葉が終わらないうちに診察室を出ていった。

 「申し訳ありませんでした」

 その後ろ姿に向かって、わたしはもう一度頭を下げた。


 診察室が、重ーい空気...。

 AHTのみんなも、気を遣ってか出てこない。

 「ごめんね。わたしが出てきてもなんにも解決にならなかったね」

 「そんな、僕がもっと上手く言えれば...」

 「まぁ、アナフィラキシーじゃなくて良かったね」

 「でも、他の病院で、何か変なこと言われたら...」

 森先生が『この世の終わり』って顔してる。

 「大丈夫。周りの先生で、院長のことを悪く言うヒトはいないから。ちゃんと正しいこと言ってくれるよ」

 森先生は視線を落とし、大きくため息を付いた。

 「僕がうたなければよかった...」

 「なに言ってんの。院長がうったって、出るものは出るよ」

 そう、アレルギーは、天災のようにやってくるのだ...。


 この出来事がよほどショックだったようで、お昼ご飯の間、森先生は一言も口を開かなかった...。

 




 夜の診察が始まる前。

 わたしは、ひとり医局でカルテを書いていた。

 日が短くなった。

 カルテから目をあげると、医局はすでに暗闇に包まれたような感じがした。 


 「何かもめたらしいわね」

 急な言葉に、わたしは少し驚いて声の方向を見た。

 そこには奥さんがいた。

 「あ、ワクチンで副作用が出て...」

 「主人がいない時に、問題起こさないでね」

 わたしの言葉を途中で遮り、それだけ言うと医局を出ていった。


 抑え込むような、そして冷たい言葉だった。


 明かりの点いていない、しんとした薄暗い医局。

 西側の窓から、ブラインド越しに沈む間近の夕日が差し込んでいた。 

 その光が、何かとっても寂しい色に見えた。


 なんだか、泣きたくなっちゃうな...。


 わたしはその夕日の寂しい色を消すために、すぐに明かりのスイッチを入れた。


 ほんとに、泣きそうになったから...。



 


 何故かその日の夜の診察は忙しかった。

 それにしても、森先生の動きがぎこちない。

 昼間のこと、まだ引きずってるな...。

 でも、わたしもなんだか体が思うように動かないや...。

 疲れがたまってきてるのかな。

 それとも、わたしも引きずってるのかな。


 がんばれ。もう少しで夜の診療時間が終わる。

 


 

 元気がないゴールデン。

 エコーで、脾臓のMass。

 そして、腹水。きっと血液。

 前にも、急にぐったりすることがあったみたい。

 血管肉腫の可能性。

 きっと、何度もMassが破裂してたんだ。

 貧血も進んでいる。

 今度出血したら危ないかも。

 なんとか再び出血する前に脾臓をとることができたら、延命になるかもしれない。

 飼い主さんは、わずかでも望みがあるのなら...と手術を希望した。

 明日、手術する予定でそのまま入院した。


 「今晩やらなくていいですか?」

 入院の準備をしている上田さんが言った。

 「そうだね、やりたいね」

 「今、留置しますか?」

 「森先生は、診察?」

 「はい、なんだかとっても暗く診察してます。夜なんて一度も注射うってないし。全部内服...」

 無理もないか...。

 「じゃぁ、診察が終わってから落ち着いてやろう」

 「はい」

 「最後です」

 彩ちゃんがカルテを持ってきた。

 「手術の準備はしておいて」

 上田さんに言うと、わたしは彩ちゃんと一緒に診察室へ向かった。



 今晩最後のカルテ。

 ひとつため息をつく。

 こりゃ、一見しただけで大物釣り上げたって感じ...。


 診察台にのせられた太ったラブラドールは、肩で息をして周囲の動きにも全く反応しないくらい弱っていた。

 おなかの膨らみ方は異常だ。ただ単に太っているからだけじゃない。

 陰部より排膿。

 蓄膿症か。

 エコーをあてる。

 子宮が映る。でもおなか全体が...。

 歯茎をみる。

 この色。

 敗血症だ。

 きっと膿が漏れてる。

 朝までは元気だったらしい。

 なら、まだ間に合うかも。

 飼い主さんに説明。

 そして入院。


 次から次へと...、まいったな。

 ラブラドールの飼い主さんが診察室を出たところで、体が急に重くなったような気がした。

 あ、立ち眩み...。

 「大丈夫ですか?」

 彩ちゃんが心配そうな目を向ける。

 「うん、大丈夫だよ」

 ほんとは、倒れちゃいたいけど...。

 さぁ、がんばれ。


 「森先生、この子留置して」

 診察が終わった森先生を捕まえた。

 「え..」

 一瞬、躊躇する森先生。

 すっかり自信なくしちゃったみたいだね。

 それでもやるのだ。

 「こっち先やるから!」

 わたしは声を大きくして、手術室の上田さんに聞こえるように言った。

 

 ラブラドールを森先生に任せ、わたしは医局に行った。

 白衣を脱いで、椅子に掛ける。

 コーヒーを飲みたい気持ちを抑え、シンクで水を一口飲んだ。

 コップを置き、振り返る。


 しんとした部屋。

 急に胸を締め付けられる感覚がよみがえった。


 『問題起こさないでよ』

 夕方の奥さんの言葉。


 胃がキリキリと痛み出す。

 みぞおちのあたりに手を当て、痛みと込み上げるものにじっと耐える。

 

 シンクの横の鏡を見る。

 鏡に映る自分。

 疲れた顔。

 悲しそうな顔。

 なさけない顔。



 逃げちゃおうかな。

 こそっと...。




 過ぎゆく時間...。




 『本当に進まなきゃいけない道も、逃げ道になっちゃうぞ』

 石津先生の言葉。




 行かなきゃ。

 みんなが待ってる。


 まだやれる、がんばれ!


 鏡に向かって言うと、わたしは手術室へ向かった。




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