95 ゴールドチェーン
暖房が効いた講義室内はまるで人から湯気が出ているかのようだ。
発言しなければ無能、否定に反論しなければ負け犬のレッテルが貼られる。
とりあえず意見しなければ評価対象にもならない。
沈黙は金どころか、思考停止を意味する。
言い返せなければ死ぬとばかりに、まるで舌戦というにふさわしいディスカッションを終え、口の中はカラカラに乾燥し、頭は糖分を消費して朦朧とした。ジェンキンス教授が講義の終了を告げる。
学生たちは一斉に立ち上がり、我先にと出て行く準備をする。
講義の中で一番オンオフがしっかりしている。
なによりジェンキンス教授自身が学生の扱い方や教え方を心得ているのが大きいだろう。
「ルヴィアス」
ルヴィたちも片付けをしていると、ジェンキンス教授に呼び止められ、振り返ると、一冊のパンフレットを渡される。エリフエール大学の夏季集中講座についての冊子だ。はっとしてジェンキンス教授を見上げ――しかし理由がわからず物が言えないでいると、分厚い眼鏡の奥で瞳が笑っていた。
そして思っても見ない人の名を言われる。
「ザイガー教授だよ」
彼は耳ざといんだ、とウインクされた。
「君は彼の講義終わりに、そのことを話しだんだろう。そして彼は先日、彼のカレッジに行く用事があった。そして彼の講義よりも、私の講義の方が早いからと、これを預かって配達を仰せつかったんだよ」
教授を配達人にだと、と目を剥きそうになりながら、何とか答える。
「あの……すごく、ありがたいです」
「どういたしまして。まあ、彼が早めに君に渡したかったのも理由があるようだ」
ジェンキンス教授は指さしたのはパンフレットの中の一行。
それには外部からの履修登録の申請の期限が来週であることが記載されていた。
「でも、慌てて申請してはいけないよ。エリフエール大学で直接詳細を聞きに行った方がいい。君たちは品行方正だし、優秀だからね、そういった意味で単位を落とすことはないだろうが」
万が一ということもある。
ジェンキンス教授は、痩せた手を後ろに回し、助言をくれた。
「退学用件を満たさないように、慎重に決めなさい。単位互換制度も、いったん申請が通ってしまうと、ドロップが出来ないからね」
成績でC以下を3単位とってしまうと退学になる。
退学の要件は、他にもあるが、まともに学生生活をしていればまず引っかからない。
「……はい。前の学期では、たくさんコマ数を取ってしまって、その時に知人にも注意されました」
同じアパートに住む同郷人のエミに、だ。
そういえば、まともに会話したのは、あの時が最後ではないだろうか。
「単位数を聞いたときは私たちもざわついたものだよ」
受け取ったパンフレットは心なしか、熱を持っているような気がした。
「ありがとうございます、ジェンキンス教授。ザイガー教授にも……いや、また今度の講義で直接伝えます!」
講義棟を一旦離れ、近くのカフェでランチをテイクアウトして次の講義室で食べることにした。
「物価高ー」
「テイクアウトだからこれでも安くした方なのだけど」
ネムもご覧のため息だ。
「でもルヴはパンフレットをもらってご機嫌ね?」
「そりゃあな!」
話しながら講義室に入ると、他にも机にパソコンを広げつつ、食事をしている学生の姿がちらほらあった。あたたかい紙袋からランチを取り出す。ちなみに今回は、昼食だががっつり目に頼み、コーラにピザ、コーンスープにアイスだ。ネムは同じく、ハーブティーに、エッグベネディクト、オニオンスープ、エビとアボカドのサラダにマカロンだ。ルヴィに負けず劣らずのボリュームだ。そのくらい、午前のジェンキンス教授の講義は消耗する。値段はルヴィが53ドル、ネムは60ドルだ。本国で言うと、二人合わせて1万円以上することになる。
「兄貴には毎度のこと感謝……っとそうだ」
携帯をつけ、ツールをタップする。
フォトダイアリーの画面で、グループを選択して、隣に体を向ける。
「なあに?」
「『写真日記』のグループにネムを入れたくてさ」
「そういう機能があるのね」
早速ネムを迎え入れると、歓迎のスタンプがいくつも来る。
彼らの現在時刻を考え、みんな暇人だなと思う。
「グループ名が《ゴールドチェーン》……そのままね」
「だよなー」
グループ名への反応に、相槌を打つ。
何の捻りもない。
仕事が早い幼馴染は早速、旅行の写真を追加してくれる。
「カレンダー機能? ……遡って写真を投稿できるのが便利だわ」
「そんなんあるんだ?」
「……ルヴの方が先に使い始めたわよね?」
呆れながらも、ネムはアクイレギアに来てからの写真をあげ、間を埋めるように続けざまに投稿してくれる。
「なんか、夏休みの最終日にぜんぶ捏造したのを思い出すな……」
「ふたりで合作したわね」
思い出し笑いする。
あの頃からすでに悪だくみの共犯者だった。
「適当な出来事をでっちあげて」
「出鱈目なお天気を振り分けていったわ」
「すげぇノスタルジックー」
検索しても、未来の天気予報は出ても、過去の天気は出てこなくて焦ったものだ。夏はだいたい晴れ、適当に曇りの日を挟んだ。雨の日を描くのは慎重にした。何か矛盾があれば、旅行に行っていましたと言い訳をするところまで考えたものだ。……ま、実際はそれほど教師陣も細かく見てはいないと今ならわかるが。
「ま、これは捏造じゃないけどさ」
肩を竦めながら、次々と更新されていくそれをスクロールしていくと、徐々に首が傾ぐ。遠い記憶の中にある13時間のフライト、その機内で毛布にくるまりミノムシになって眠っている写真、レジデンスの最寄り駅、ソファに座ってピースしてるところ、カレッジの正門、入院した病院、病床に横たわるところ、退院するところ、旅行先の風景………その他もろもろ。
「……これ、爺さんたちへの報告写真になってね?」
「添付した写真を使っているから、中らずと雖も遠からず?」
「その言葉、そういうとき使うっけな?」
ネムの投稿に速攻でハートを踏むのが兄だ。
あっという間に昨日までのカレンダーが埋まった……。
「兄貴も満足してるだろな」
ハートがついたり消えたりしている。
何だろうと思っていると、ハートボタンを連打している人がいるらしい。
ネムの通知欄がすごいことになっている。
「ルヴは……いつもの黄色い花のアイコンね?」
「そ! 兄貴は鬼灯な! 兄弟間のお約束ってやつでさ」
くっくっと笑っていると、たくさん投稿してくれているネムのアイコンはまだ無地だ。
「ルヴは……わたしの写真ばかりね?」
「撮影者オレ! 美少女傑作全集って感じ!」
お気に入りは、ヒーカンに連れて行ってもらったビーチでしゃがみこむ、ワンピース姿のネムが振り返る見返り美人図だ。胸を張って見せていると、何か言いたげな目を向けられたが、結局、ネムがルヴィとのツーショットとルヴィ単体の写真をメインになっている。
「……アカウントと投稿写真がお互い逆じゃないかしら」
「写真撮るときって、セルフィ―以外は自分映らんから仕方なくね?」
「それも……そうね」
互いの写真がほぼメインとなっているのを見交わし、肩を竦める。ツールに写真を載せたものを振り返りながら、しばしネムと旅の思い出話に花を咲かせ、やって来たメールリ教授の下、午後の講義を迎えた。メールリ教授の講義終わりはため息がそこかしこで聞こえる。これも新しいお決まりになってきている。
「図書館の本、また借りなくてはね……」
「今回もまたどっさりだな……」
赤みを帯びた金髪――これがいわゆる、天然ものの赤毛だという――と若草を思わせる瞳に、甘い口許にいつも笑みを絶やさない明朗な人柄が前面に出ているのだが、読ませる文献数は地理学の教授陣の中で随一の鬼畜ぶりだ。
「エリフエール大学に夏季集中講座のシラバスを見せてもらわないといけないし、講義の日と課題をする時間からすると……」
ネムが思考に入っている。メールリ教授の講義終わりに出された課題の量から、逆算してスケジュールを組んでくれる。メールリ教授が出す課題の負荷が最も重いからだ。
ディスカッションが中心で、話が波及していくのがジェンキンス教授の講義のスタイルとすれば、文献の要約の発表がメインであるのがメールリ教授の講義だ。ただし、その発表には、一人ひとり当てられた、4本の文献の要約をしたもので、その他に、レポートとして論文1本が課題として出される。
「相変わらず、モテモテだなー。たぶん、教授たちのなかで一番モテてるんじゃね?」
今週の課題が告知され、女学生たちに囲まれながら講義室を出て行く若き教授の後ろ姿を横目で見ながら呟くと、ネムがエリフエール大学に赴くためにスケジュールを調整してくれながら、肩を竦めた。
「彼女たちは聴講生だからでしょう? 課題量が正規生と全然違うもの」
「つまり、課題が軽ければ、ネムさんも?」
「文献を要約するだけなのに、一体何を教授に聞きに行けっていうの?」
そういう意味で言ったわけではないのだが。
揶揄する意図があった手前、生真面目に返されて、極まりが悪くなり、頬を掻いた。
しかし、ネムの言葉はメールリ教授の講義について端的に表している。
「……ねえ、君たち」
上の列から声を掛けられて振り返った。
羊を彷彿とさせる巻き毛の学生がこちらを見下ろしていた。
同じ講義を前から受けていたが、話すことはなかった相手だ。
「まさか、知らないんじゃないかと思って。……メールリ教授のウワサのこと」
噂と聞いて、揃って首をかしげると、その学生は今までせき止められていた川のように話し出した。
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指定された路地裏は薄暗く陰気だ。チェックポイントと相手は言っていた。しかしそれがこ路地のどこにあるのかわからない。しばらく歩いて行き止まりであると知る。裏切られた思いで袋小路まで行くが何もない。
「クソったれ……!」
壁を殴りつけ、無駄な傷を負う。
「…………………だが、出られた」
あの牢獄から。自由の身なのは間違いない。そう思うと、この操られたようにここまでやってきて徒労に終わったことに安堵すら覚えた。父母の顔を思い浮かべると、気が楽になった。一瞬浮かんだ深い落胆とは裏腹に、軽い足取りで行き止まりに背を向け戻っていく。どこへ行くのも自由だ。ところがそう幾ばくもせず、ポケットからアラームが鳴った。例の機器を取り出すと、路地の壁の一部からロック解除の音がした。開いている。しかしどこが? 扉がなければ、手を掛ける取っ掛かりすらない。
「………なんだ? これ、どこが開いてるんだ?」
もう片方の手で壁を伝って行くと、アラーム音が小さくなる。
「しまった、電池切れか?」
慌てて立ち止まり、引き返そうとすると、アラーム音が大きくなる。気が付いて、渡された機器を壁に近づけると段々と大きくなり、ある位置で、音がなくなり、赤く点滅する光が壁に付いた。機器から出ている光だ。その光を近づけると、まるで磁力で吸着するように、機器と壁がくっついた。
息を飲む。
取っ手だ。機器を持ったまま扉を引いた。動かない。焦る。押した。動いた。
地下へ続く階段があった。
――得体の知れないものに導かれている。
そんな恐れに身を包まれながら、裸足で階段を下りて行った。




