94 店休
リストと一致する題目を見つけ、行儀は悪いが、曲げた左膝を棚に当てて心持ち体重をかけ、背表紙に右手を伸ばす。試す前から無理だろうなと思っていたので、実際わずかに届かない結果にはあっさり諦めた時だった。背後から腕が伸び、手が重なり、影が被さってきた――体が竦む。
ところが、頭上から降って来たのは知った声だった。
首を巡らせて振り返る。
どうしてここに、と問うと、書架からネムの指と共に本を引き抜くのとは逆の手で持っていた携帯を、彼は黙って仕舞うだけだった。
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自分の足に足を引っかけながら、路地に転がり込んだ。
地面の臭い塵を掴む。
喉が焼けるような息をする。
敷地の外に出た瞬間の解放感はこの上なく鮮烈なものになった。
外に出られた――。
細い路地裏の壁に体を預けて、座り込んだ。
「やった……やったんだ」
まんまと逃げてやった。人を強姦魔扱いしたアクイレギアン共は、逃亡者を出した責を問われるに違いない。因果応報とはまさにこのことだ。
「ざまあみろってんだ!」
狙い目はカウンセラーとの面会の時だった。
最低限の身だしなみを整えるため、三日の一度の髭剃りとシャワーの時間が何者にも邪魔されず確保されるのが保証されていた。
……計画は、一人で実行に移す他なかった。見知らぬ人物からの手助けがなければ、虎視眈々と狙っていた脱走の機会を永遠に失い、今頃は施設に連れ戻され、妙な注射を打たれてから反省部屋の中へ丸太のように転がされ、この上なく粗末に扱われていたはずだ。しかし、だ。
「やっぱり俺はツイてるな。天は君子を見放さないとはこのことだ!」
ずっと握り締めていた手を開くと、無骨な機器がある。
「一体何なんだ、これは? 何の意味がある?」
この脱出の恩人から渡されたものなのだ。役に立つのだろうが。
持っていて困るものならいつでも手放せばいい。
ポケットの中に入れると、いよいよ身一つで放り出されている現状を実感する。
「何もないな……」
携帯も、キャッシュも、現金も。
家族に会いたい――冷たく硬い鉄のベッドの上で何度も思い描いた父母の顔から離れるように、薄汚れた足は指定の場所へと向いていた。自由の身だ。なのに、誰かに操られているような、妙な感覚に何度も首を傾げながら。
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図書館で借りる本は、学生証に登録されている住所宛に配達してくれる。返却も届いた本と一緒に梱包されているバッグに入れてポストに投函すれば良い。それらの手続きはすべて図書館の職員がしてくれるのだが、配送してほしい本のリストを申請すれば、司書が貸し出し可能な本を集めてくれる。
「手ぶらで帰れる幸せー」
ルヴィは駅から降りると、歩きながらくるりと回転した。
子どもっぽく振る舞うところを見ると、年上だというのに、愛嬌があるので仕方ない。
「危ないわ。前を向いて歩いて」
そんな言葉も飾りだと分かっているようで、はいはいーと笑って駆けだす。
駅前から住宅街の区画に入ると、石畳に切り替わる。
アパートの前まで来ると、ルヴィが芝生にある飛び石の上をバランスよく跳んでいく。その光景を後ろに、ネムは斜め向かいの雑貨店へと目を向けた。
緑の屋根をたたんだその雑貨店は鋼鉄の格子が下り、暗い店内を映すガラスの扉には『店休』の札が掛かっていた。あの日すでにいつもと違う日常がはじまっていたのにも気づかずに――
『おかえりなさい、ネムにルヴィ』
そんな幻聴が聞こえてきそうな管理人室には、いつもは違う場所にいる人が座っていた。
ジャミラ、と呆けたように呼びかけたのはルヴィだ。
俯いて手もとに没頭していた人物が、ルヴィの呼びかけではじめて他の存在に気づいたように顔を上げた。そして、ああ、今日がその日だったかと眼鏡を外した彼女は、旅はどうだったかを聞き、不思議そうなネムたちに、マリエはしばらく来られないのだ、と落ち着いた声で告げた。他の入居者の学生に問題が起こりそのことで手が離せずかかりきりなのだと――
「…………なあに考えてんだ、ネム?」
はっとして振り返ると、ルヴィがいつのまにか玄関前にまでたどり着いていて、扉に手を掛けていた。そして仕方なさそうな顔で、やさしく訊いてきた。
慌ててネムは玄関まで追いつく。
「いいのか?」
そう問われて、どう返せばいいか分からなかった。
この年上の幼馴染は、ネムが何を思い出していたのかを判っているだろうし、それに。
「何も。だって、どうしようもないもの」
顔を上げて笑う。
「マザーはこのアパートに関わる人の寮母でしょう? 他の子が大変なことになっているのなら、マザーが気に掛けるのは当然のことだもの」
言葉を切る。
「……ただ、ちょっと寂しくなっただけよ」
あの雑貨店に光が灯らないのを、アパートの管理人室にマリエが不在なのを。
「オレも寂しいな。………早くその子の問題が解決するよう願おうぜ」
そう微笑んだ年上の幼馴染はとてもやさしい顔をしていたと思う。
「ま、オレはジャミラに料理を作ったり、一緒に食べたりするの、好きだけどな」
「それはわたしもよ」
笑って、開いてくれた玄関の扉をくぐると、管理人室には不在札が掛かっていた。
「我らが管理人のジャミラ女史は多忙だぜ」
ルヴィは片目を閉じて見せて来た。
オムレツとスープを作ったものを管理人室の窓口に布を掛けて差し入れておいてから、それぞれの部屋で過ごした。ネムは早めの入浴から上がってリビングに行こうとすると、ルヴィが部屋の扉を開き顔をのぞかせる。
「ネム? ちょっと来てくれね?」
お呼ばれしたので、髪を乾かす間に、ルヴィは適当な飲み物とつまめるものを用意して待ってくれていた。ベッドに座るルヴィの横顔が見える位置にある椅子に腰かけて、ココアの入ったマグカップを両手で持った。
「なあに? お兄さんから連絡でもあった?」
リビングではなく、この部屋に呼ばれる用件はだいたいルヴィの長兄絡みだ。
「ありはしなかったんだけど、無関係じゃなくて――その前に……ちゃんと髪を乾かそうな」
だいたい乾かしたのでもういいと放置していたのだが、ルヴィがドライヤーをわざわざ持って来て乾かしてくれながら、ようやく本題を口にした。
「今日、ルドラと話していて話題に上がって思い出したんだけどさ、兄貴からネムに『写真日記』っていう携帯ツールを使ってほしいって言われてたの、伝え忘れてて……で、今言ったとこ」
ツールの説明をされ、ネムは頷いた。
「わかったわ」
早速、追加しようと携帯の画面を開くと、ルヴィが慌てて止めて来る。
「その写真のことで聞きたくってさ」
「つまり、ルヴの写真よね? たくさんあるわ」
「そうそれをうちの兄貴は求めてて………ってそうじゃなくて」
身振り手振りで大げさに何かを訴えようとしている。
ネムはツールストアからダウンロードする手を止めた。
「なあに?」
「実はこれは、オレからのお願いなんだけど、オレはネムの写真を日記にあげたくて……」
妙なことを言う。
「いいけれど、ルヴも一緒に写っているものもあげるのよ? 誰のアカウントか分からなくなってしまうわ」
鍵付きアカウントにして、身内や近しい間柄だけで閲覧できるように設定するそうから、問題ないだろうけれども。やった、と諸手を挙げて喜ぶルヴィに、肩を竦めた。
「それを悩んでいたの?」
「肖像権とか、兄貴が気にするからさ。あと、グループ内だけに公開するけど、今そのツールすごく流行ってて、いずれ他の人と共有することになったら、ネムの写真がその人にも見られちゃうことになるだろ」
確かに、ダウンロード数が数十万件を超えている。
一般公開されて、二週間かそこらだったはずなのに、だ。
「平気よ。信用しているから。ルヴの友だちなら」
「うう、責任重大。厳選するぜ、相手をよお……ありがとな、ネムたん」
にっこり笑いながら、心の底では、ルヴィにはフレンド申請する友人がいても、ネムにはそんな友人はいないなと思って落ち込む。別に、自分の日常を見せびらかしたいわけでもないけれども。
「あ、ネムも、オレの写真をあげてくれてるからって、遠慮する必要はないぞ」
そう考えていたのに、ルヴィは悪気無く急所を刺してくる。
そうね、考えてみるわ、とだけはなんとか言えた。
ニッと笑ったルヴィの部屋からよろよろと出て、自分の部屋に行くと、今日はもう何もやる気がしなくなって、ベッドに倒れ込んだ。心のダメージが思ったより深刻だったようだ。大きなため息を吐き、電気を消す。
ネムたちの部屋は角にあり、その中でネムの個室は窓側の部屋なので、カーテン越しに、庭木の枝や葉の間から差し込む星明りを仄かに感じた。枕元に、携帯のアラームツールで目覚ましをセットする。
すると、メールのツールに受信を知らせるアイコンがついていた。
「わたしもルヴみたいに、ちゃんと送られたものへ返信しなくてはね……」
それは年末に送られてきたものの続きだ。
あの時は、大陸横断鉄道に乗って旅行中なので、と断ることができたが、今はそうではない。
寝返りを打って、覚悟を決め、メールを開く。
見れば見るほど、気が重くなる。眉間を指の関節で解す。鏡で見もしていないけれども、皺が寄っているのが分かった。気分を切り替えようと、ネムは自分の友人のことを思い出した。
時計を見ると、20時だ。
ネムはメッセージツールを開いて、その名前をタップした。




