85 自然
「あれじゃねえかな……」
太陽が天高く鎮座している。
地平線から土煙を巻き上げて黒い一粒の影が近づいてきた。
遠くで地平線が揺れる。
隣で日傘をさしたネムが、首を振って諦めた。
「あの距離からすると、飛ばしても30分はかかるかな」
「そう……冬でよかったわ」
摂氏40度以上を記録することもある夏では、車内の冷房は不可欠だ。このように待ちぼうけをしていたら、当然燃料のメーターが気になっただろう。ここアクイレギアでは旧式の燃料を未だ採用し続けていて、加えて、補給所が気軽にないのでとても心もとない。今回レンタルしたSUV車は本国のメーカーのもので燃費は良い方だけども……。
「外つ国での待ち合わせあるあるだな」
「現在地がマップで一致していなかったら待ち合わさ場所を間違えたと考えたはずね」
待ち合わせの30分前に到着していたので2時間は待った。それでいて速度フリー区間であるので120㎞出したとしても、あの車がルヴィたちの前にやって来るのにはまだまだかかる……。
土煙を巻き上げて少し離れたところにルヴィたちと同じSUVが停まった。それもそのはず。この地形を自由に走らせることができる車種は限られている。硬い音を立ててドアが開くと、出てきたのは五十路の男性。写真を確認したことはないが、待ち合わせ相手で間違いないだろう。
「やあ。君がルヴィアスかい」
冬場も、昼間は初夏のような気温だ。
車から出てルヴィがまず近づいた。
「はい。ルヴィアス・キングサリです。こっちはネムです」
「はじめまして、ネムです。あなたが――ノリス教授ですか?」
ルヴィの背中からネムが顔を出した。
「これは美人なお嬢さんだね。はじめまして。いかにも、私がフィランダー・ノリス。フィルと呼んでくれ、二人とも。連絡をくれたのが、ルヴィアスだね。待たせて済まない、ショーンが新しい断層を見つけたというのでね、つい寄り道をして遅れてしまった」
「お会いできて光栄です」
差し出された、日焼けした手を握った。
論文でしか知らなかった相手と、メールできたこともそうだが、実際に会えたのには感無量だ。
「私の研究に欠かせない相棒を紹介するよ」
ノリス教授は体をずらして、車を振り返る。
「このレッドロックキャニオンで二十五年ガイドをしているショーンだ。優秀な案内人だよ。彼ほどここの地形に詳しいものはいない」
車を運転していた小柄な男性がひょこりと顔を出す。ショーン・ホビットと名乗った。日に焼けていて赤ら顔をしている。目がつぶらで、物語に出て来るドワーフを彷彿とさせる。
「今日は君たちにショーンが発見したという地層を見せよう! 実は、私もこれは途中で時間がかかると、引き返してしまって現物を見ていないんだ。早速行こう!」
ショーンの肩を抱えて興奮気味に言う姿を見たネムは、ぼそりと耳打ちしてきた。
「…………………なんだか、ルヴに少し似ているわね」
「ええ? そうか?」
憧れの研究者へ生暖かい目を向けていたルヴィは釈然としなかった。
それぞれのSUVに乗り込み、先導するノリス教授の後に続いた。
両側が赤い渓谷に入る。アクイレギア西部の赤い谷。
シンシティ郊外から車でわずか30分の距離にある砂漠にある絶景だ。
「まずは一般的な地層からだ。さあ見てみなさい」
車を降りてすぐにずいとルーぺを渡された。
グラデーションになっている渓谷の層へ、ノリス教授は顔をくっつけんばかりに近づけて小さなルーペを覗き込んだ。
「これだよ、蜂の巣と呼ばれる岩だ。砂岩だったものでね、砂粒一つ一つが赤い。この赤の正体は酸化した鉄なのだ。比較的大きいグレーの砂粒も、酸化しかけているものだよ」
重なり合った色の層が波打つ、通称炎の波。
ノリス教授はその模様をなぞる様に触れた。
「もともとは全体が同じ赤色だったが、水がしみこみ色が抜けた。粒子が荒い層は洗い流され、細かい層は水が浸透した。自然の現象ひとつひとつ取ってみても興味は尽きないよ」
ノリス教授は目元を緩ませた。
「そう、ですね」
その後もガイドのショーンが新発見したという大地の亀裂へ、命綱を使って降りていく方法を教えてくれたり、荒野で数日間過ごすときのコツを実際に一緒に過ごす中でみせてくれたりした。ロープで対象の地層まで上り下りするのには、ネムの持ち前の身体能力が賞賛され、星々の位置で場所を特定する方法はルヴィが褒められた。ノリス教授のフィールドワークの全貌は、観測もあるけれどもほとんどはサバイバル技術で、いかに自然の中で観察するかということを体感できるものだった。輝く瞳がいつも大地に向かっているのを見ると、胸が詰まった。
「これが自然の中で生まれた地形だよ。人の手に侵されていない、素晴らしき絶景!」
ショーンの肩に手を乗せ、絶壁の前で振り返る。
生き生きとしたその表情に、喜びに満ちた口調に、気圧される。
――悔しい。
俯いたとき、手を握られた。
******
待たせたね。さっそく結果を送るよ。君は産みの両親とは早くに別れるか、仲が悪いかもしれない。上に、きょうだいが何人か存在するかもしれない。すごく若く見られるか、すこぶる頭がいい。神秘的なものに魅かれ探求することを好むか、トラブルを抱える運命だ。風変わりな道徳観を持っているか、寛容だが常識外れ。結婚はしない傾向。
さらに、君の今年の運勢が興味深かったので追加しておく。2086年、君はよい上司か教師に恵まれる、あるいは、高度な教育に関係する。何かトラブルに巻き込まれるが、その度に何らかのサポートを受けられ、最終的には何とかなるだろう。………興味深いのは、ここからだ。君は、刑務所に入るか、何かを失うか、海外で入院する。秋休みでは、一番最後のやつで出たね。でも、今年最後に再び旅行するというから、念のため送っておく。どうか気を付けて。
では残り数分の今年を楽しんで――
P.S. 最良の選択は、君は今年大人しく家に閉じこもってることだけどね。そうしたら君は何も失わない。代わりに何も得られないけど! もっと早くに判明してたら、君の留学を一年ずらすようアドバイスしたんだけどな。
「送信っと」
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付きっきりでフィールドを回って案内してくれるという五日間を一緒に過ごした後、ノリス教授とショーンの乗る車を見送り、初めて二人だけで車内泊をする。シートを倒して横になると、今まで頼りになる教授たちに守られていた安心感がなくなっていることに気づいた。
「ルヴ、まだ眠らないの、珍しいわね」
向かいのシートでネムが寝返りをうってこちらを向いた。
目が冴えているのは事実だった。
いつも最高に楽しそうなノリス教授と離れてみると、いろんな考えが頭を巡って、巡って、とても眠れなかった。
「……好きなことを研究するのって楽しいんだなって思ってさ」
乾いた大地を、割かれた層を。
見つめる瞳はいつだって楽しそうに輝いていた。
………それを羨ましいと感じた。
「オレさ。いつの間にか結果がはっきり出やすい分野とか、テーマとかを考えてた。ここに来たのは、やりたいことをするためだっていうのにさ。評価主義の空気に知らないうちに圧倒されて、触発されて、やりたいことが何だったのか、見失ってたって気づいた」
空気が澄んでいるので、夜が美しい。
そこには、自然があって、虫や植物がある。
人の痕跡は見当たらないほどだ。
「生きてる人間ってときどき面倒だって感じる。その最たるものを追っかけてるヒーカンとか、経済学やってるパットとか、凄いって思う」
面倒ごとばっかりで、嫌になる。
「でも人が作ったものはなんかあったかく感じて好きなんだ。それは手を付けられていない大自然を見るよりも好きなんだって改めて思ったんだ」
「……遺跡とか?」
「そ! ……今までそれがしたかったのに、それを認めるのが難しかっただけな気がしてくる」
こちらを向いたネムの顔がそっと微笑んだ。
「今のルヴ、ノリス教授に負けないくらい楽しそうな顔しているわ」
その言葉が一番誇らしかった。
と同時に、不安が次々と生まれて尽きない。
決して口にはできない、弱い部分だ。




