75 夜梟
向かいでぐっすりと寝入るルヴィを眺め、ため息を吐いた。
こんな風に何も気を遣わずに過ごしたいものだと思う。
「ルヴは何を食べても太らないのよね。……小憎たらしい限りだわ」
首元まで掛布を引き上げてから立ち上がり、改めて個室の中を見回す。
一番上のランクの寝台客室であるベッドルーム・スイートなので、寝台は向かい合わせに一台ずつ、個室のシャワーとトイレがついている。一つ下のランクの寝台客室には、昔ながらの二段ベッドの寝台で、シャワーとトイレが個室にないので、寝台車には共用のシャワールームとトイレが別にある。アクイレギアにはどの施設にも、と言ってもいい程に完備されているのがコーヒーサーバーで、これは寝台車を予約している乗客であればだれもが利用可能だ。
ルヴィが寝入った後のこの時間帯から、ネムの主な日課が始まる。
寝間着代わりのスエットの上下の上からコートを羽織る。
「喉が渇いた」
甘いものを食べた後だ。口の中をすっきりさせたい。個室の扉を開くと、通路の灯りが足元だけ点灯した。寝台車の通路の突き当りに控えているアテンダントはいない。
「夜中まではいないようね」
アテンダントの定位置である椅子の上には、連絡先の電話番号が記載された札が置かれている。
「PM21時からAM9時まで不在、か。12時間労働……なわけないわね」
労働基準は母国よりもずっといい筈だ。
深めに被る帽子と制服がセットなので、入れ替わったかどうかは分からないが、きっと交代制だろう。
予備の腕時計を見て時刻を確認する――22時57分。
「防水だとあったのに……一度雪に埋もれたのが悪かったのかしら……」
お揃いのムーンフェイズの腕時計は、修理に出したまま。
色違いで、ルヴィはゴールド、ネムはシルバーにしていた。
ネムたちにはぴったりで、お気に入りだったのに。
アクイレギアの時計職人たちの仕事はゆっくりで、受け渡しは年明けになるのだという。
「修理が終わったら連絡をくれるメールがあったけれど、本当に連絡が来るのかしら? あれからさっぱり音沙汰がないのよね。………他の連絡ばかり来るわ」
思い出すと、暗澹たる気分になる。
気を改め、そっと寝台車の奥のコーヒーサーバーに向かうが、その間に通った客室の扉の隙間からはところどころうっすらとした明かりが見えていた。他の乗客たちは眠ってしまっているか、消灯に合わせ、ベッドの小さな照明を頼りに携帯でも見ているのかもしれない。
迷惑にならないようにそっとサーバーのボタンを押す。しかしネムの心がけもむなしく、コーヒーメーカーはけたたましい音を立ててドリップを始めた。その音は、相変わらず走行し続ける列車の音に紛れる程度のもので、ほっと肩を落とす。
コーヒーサーバーの横には窓があり、草原か荒野なのか、明かり一つない外の景色の上に、鏡のように列車内の景色が映っていた。暗闇の中に映る自分の姿はどこか懐かしく感じさせる。
ドリップ完了のブザー音が鳴ると同時に、持っていた携帯から複数の通知音が聞こえた。見たくないけれども、見なくてはならない――葛藤を堪えて、それらを確認して予想通りの厄介な事柄だったこと、その事柄関係の別の相手からのもの、そして想定していなかった面倒な相手からのものだったので、思わず台に手をついて、出来立てのコーヒーにため息をかけてしまう。
「今日はどのくらいかかるか。……ルヴが起きる前にぜんぶ終わらせられるかしら?」
ルヴィはネムが何時に眠っているか知らないだろうし、ネムもルヴィが何時に起きているのか知らないが、ネムが夜更かししたのと、ルヴィが早起きしたのは、ほとんど一時間ぐらいしか違わないのではないかというときもある。
用事を済ませようにも、コンパートメントでは既にルヴィが就寝している。
一般開放されている、食堂車もあと30分程度で閉まってしまう。
となると、リモート会議や走行中の電話をするためのワークスペースしかない。
「夜中に一人で移動するのは…………列車の中だし、大丈夫よね?」
この世でもっとも怖ろしいのは自分と同じ人間だ。
相手が自分と同じ感性や知性を備えているとは限らない。
最も困難なのは、自分の常識が通じない人で、最も楽なのは、同じ価値観を持っている人――ネムはそう思う。しかし、現実には自分とは違う人ばかりで、ネムにとっては生きづらい。まるで陸で魚が口を開けて喘いでいるようなもの。人に知られたくないし、見られたくもない失態や、見っともないところを晒している。それでもルヴィの隣では、一つでも完璧なところを見せたい。
だから、完璧ではないところは見えないところで出来るだけ済ませる。
「……まずはこの問題を何とかしないと」
朝が来る前に、どのくらい眠れるだろうか。
ワークスペースの扉を項垂れながら開けた。
連絡の通知は三人分だった。
何れの相手に対しても、問題を抱えているので、それぞれ違った角度で、やや憂鬱だ。
一人目は、家の事情。相手にするのは骨が折れるのだが、避けて通れる人物ではないので、いつも通り対応するしかない。本国を出てからは初めての連絡なので、よく持った方だ。とりあえず、後回し。
二人目は、連絡を取らないと決めているので気が引けるが、それは相手にも伝えている。これは開封しない。
三人目は、ネムの頬を張った女学生から。連絡先を交換していなかったのだが、ある時を境に、ネム宛に監視と称した確認のメールが届くようになった。彼女の名前は、メールの表示で改めて確認できた。メールでのやり取りで判明したことだけれども、どうやら以前ネムがグループワークで一緒になった誰かが彼女の知り合いで、その人からアドレスを聞き出したのだという。少なくとも、情報漏洩元が判明してよかった。メールの主の名前は、デメトリア・ハワード。目下、成績以外でネムの頭を悩ませる最大の問題の一つで、彼女のメールから取り掛からなければならない。
「うん――?」
言いつけ通り、会ってもいないし、連絡も取っていないと返事しようと、本文を見ずに書きかけて、はたと気づく。
一人目は完全に偶然だろうが……。
カレッジの他のコースのスケジュールを確認して納得する。
二人目、三人目の相手については、同時に連絡してきたのには訳があったようだ。
「ビジネススクールは今日まで期末試験があったのね。わたしたちは一昨日までだったけれど」
腕時計は移動する列車に合わせて、自動的に東部時間から中部時間へと切り替わっていた。東部時間の方が中部時間より進んでいる。つまり、リグナムバイタでは、つい先ほど日を跨いだ。
連絡しないという取り決めは、ルヴィに提案された通り、年末までにしようと思っていた。
けれども、その日のうちに、彼から冬至祭の贈り物をしたいと連絡があった。
その流れで、連絡を年末までしないと切り出すのは難しく、ネムは理由をつけて期末試験が終わるまで集中するために連絡しないと伝えるのが精いっぱいだった。
それを彼の恋人にも伝え、一時は納得してくれたのだが、それからもしつこく確認の連絡があった。試験勉強に忙しく、そちらにかまける時間が惜しかったネムは返事もおざなりにしてしまって、電話がかかって来たので、こちらにも連絡を取らないと伝えたのだ。
その二人の期限が、今日だった。
「こちらではまだ過ぎてないのだけれど」
そうはいっても相手は何も知らない。
「彼にはちゃんと恋人と話をするように伝えたけれど、どうなったのかしら? こうして同時に連絡をしてくるってことは、仲直りしたってことよね?」
軽く考えて、まず彼女の方を開いた。
何度もやり取りする中で、メールを開く忌避感が染みついてしまったが、さすがに解決しただろうと思い、動悸を押さえて開封した。しかし次の瞬間には開いたことを後悔した。
「………………」
いつもと変わらない、スラングのオンパレード。
彼女からのメールのために、ネムはすっかり自動翻訳されないスラングを覚えてしまった。
そして添付されているらしき画像データは、待機中のマークが夥しいほどあり、表示されるのを待っていた。確認しないでは、返信もできない。しかしダウンロード待ちの表示の多さには嫌な予感しかなかった。
「ウイルスの反応はなし、ね。こんなに何を見せたいのかしら?」
その人が今誰と付き合っているのかという情報は、適切な距離を保つうえで必要だが、過去のことまで考慮する必要はあるだろうか。
「『この男が何をやっているかみせてやる?』………わっ!?」
思わず口を手で押さえ、後ろを見る。
誰もいないことを確認してほっと手をおろす。
送られてきた画像はどれも――直視は難しいものだった。
スクロールして見えないようにする。
そして、もう一度ちらりとそれぞれの画像、もとい証拠写真を薄目で見ていく。
「………」
これは――アウトでは?
盗撮、個人情報、誹謗中傷、コンプライアンス……といった言葉が脳裏に引っかかる。
今まではここまで過激ではなかったので気づかなかったが、これは俗にいう、犯罪では?
さすがに、彼に知らせた方がいい気がした。
恋人の暴走といっても、行き過ぎではないか。
「……………直接、伝える?」
ふたりで話せと言ったのに、なぜ今もネムが間に入って悩んでいるのかが不明だ。
しかし、メール主の彼女から落ち着いて状況を聞き出すのは難しいだろう。
今までだって、ネムの言葉は彼女には通じなかった。
「ルヴだったら違うのよね、きっと……」
前回の出来事を思い出し、頼りそうになる心を振り切る。
彼女からの、まるで悪意の集合体のようなメールを閉じる。
何が起こっているのか。
彼女のメールは変わりなく理解しがたいので、もう一つの手がかりにカーソルを合わせる。
謎を解くため、彼から届いたメールを開封する。
「――あ」
お手本のような定型文だ。時候の挨拶と共に、丁寧に期末試験の出来について尋ねられ、健康を気遣う文面と、控え目に贈り物の件を伝える内容があった。
「………………」
なんだか懐かしい感じがした。
最初に出会った時、ネムは見知らぬ人からの親切に警戒していた。
でも彼は、そんなネムの態度を感じ取っただろうに、ルヴィの入院する病院まで送り届けてくれた。ただ、同じカレッジの学生が困っているからと。
「…………わたし」
振り返ってみると、彼に失礼なことばかりしている。
今回のことも一方的に彼女の話だけを聞いて、一方的にネムから、試験期間が終わるまで、連絡を控えたいと連絡し、彼は了承した。その言葉の通り、彼は今に至るまで一切の連絡も取ってこなかった。
それで関係が終わるかもしれない――そんな可能性も頭にはあった。
しかし、実際にはどうか。
こうして期限の日付が変わるなり、すぐに連絡をくれた。
「なんだか」
昔からの友人を随分と長い間、ないがしろにしていたような、そんな錯覚すらした。
「…………いい友人、なのよね。ガールフレンドからも、誤解されやすい人なのかもしれないわ」
そんな親近感も感じつつ、誠実な文章を読んでいくと、最後のところで目が留まった。
「……うん?」
そこには、恋人はいないので何か誤解があるのではという非常にやんわりとしたものだった。
「ステディって、正式なガールフレンドってことよね?」
このひと悶着に巻き込まれてしまってから、ネムなりにリグナムバイタの恋愛事情について調べたのだ。アクイレギアの中でも、このリグナムバイタの恋愛は特に難解――というか奔放だった。ステディといわれる互いが認める恋人という段階に至るまで、別の人と関係を持っても浮気には当たらない。逆に、ステディと言われる恋人を決めるまでは、複数人と交際し、最終的にひとりに決めていくという文化が確かにあるようだった。
奔放だからこそ、ステディという立場は確固たるもの。
まぎれもなく恋人といえるのがステディだが、これは双方の認識がなければならないし、リグナムバイタでも自分が恋人なのかあやふやで、相手に確認するということも少なくないようだった。
今回のことを考える。
デメトリアは相思相愛の恋人だと言い、彼はそんな存在はいないと返事をした。
誰が正しいのか、誰を信じていいのか。
誤解とは、いったい誰の何に対するものなのか。
依然として、二人の痴話喧嘩に巻き込まれている可能性だって否定できない。
そもそも何故、ネムがこんな板挟みにあっているのか。
「も、もう訳が分からない」
デスクの前で、頭を抱える。
ネムの眠れない夜は更けていく。
僅かな睡眠は幼馴染によって起こされ、目の下にくっきりとした隈をつくった顔と朝から対面しなければならなかった。数時間かけて定時報告とともに送られてきたメールの返答をひねり出したが、その相手からの返信を確認する心のゆとりはなかった。ぎすぎすと胃が痛む。
苦くて、僅かに甘くて、舌にこびりついた様な後味を引く。
巻き込まれたトラブルを思うと苦々しい。
思い出した友人の優しさに胸が温かくなる。
逃れられない縁はひたすら窮屈で。
寝起きのコーヒーは複雑な味がした。




