69 ドロップ
秋休みが終わってから12月に入るまでは瞬く間に過ぎる。
12月の半ばからは冬休みになるが、その前の1週間で期末試験がある。
死活問題だ。日頃の講義での発言や発表も評価に入るので、手は抜けない。
前の土日に、リグナムバイタには嵐がやって来た。
激しい雨風を伴い、街路樹の枝先は大きくしなるほどだった。
その為、ルヴィ同伴でマリエと教会に行く予定も中止になった。
アパートから一歩も出ないまま課題に勤しみ、学業一辺倒の傾向が顕著だった。
遊ぶ余裕などなく、カレッジとアパートとの往復の日々が再来。
他の学友と話すのは、グループワークぐらいしかない。
「各々配分はこれでいいだろう。あとは期限だ。ルドラ、いつまでにできる?」
以前も一緒になったことがある、国文学専攻のトーマスが尋ねる。
その視線の先には、褐色の額に朱をつけたタマリンド出身の学生ルドラがいる。
今回はこの三人グループだ。トーマスに話を振られたルドラは、最も重要な考察部分を担当する。こうしたグループワークになると幼馴染であるルヴィはよくその部分を担当しているのだが、ネムが思うに、グループの中で一番優秀なメンバーが担当するというのがセオリーなのだろう。ネムが担当したのは一度だけだが、それはそれはひどい醜態を晒した。それはまだまだ新鮮な傷跡だった。
「構成を全て僕に任せてくれるのなら、早く出せると思うよ」
頼もしい申し出に、否やがあるはずもない。
「最後にチェックをトムに任せても?」
「ああ、構わない」
優秀なタマリンド留学生であるルドラが頼ったのは生まれも育ちもアクイレギアのトーマスだ。ここ、アクイレギアでは、生粋のアクイレギアンであっても、単語のつづりを間違うのは珍しくないという。そんな中にあって、エルムにも留学へ行き、国文学を専攻しているトーマスのチェックを受けられるのは安心感があった。とても頼りになる存在だった。
そのトーマスの黒い肌には皺ひとつなく、長い首筋が美しい。
そういった部族の出なのかもしれないとルヴィが話していた。
「今日の夜には終わらせると約束するよ」
「なら、明日の正午を期限にするか」
ルヴィは、トーマスをどこの部族と言っていただろうか。
思考が別のところに飛んでいると、水を向けられた。
「レディもそれでいいか」
レディと言われると、誰のことか分からなくなる。
淡々とした物言いに、ネムは何とか気恥ずかしさを堪えて頷いた。
しかし言われた内容はネムにとってなかなかきついものになる。
明日の正午まで――明日午前の講義があるので、実質今日の夜がリミットだ。
……やれないことは、ない。
「大丈夫」
内心を押し隠し、しっかりと頷いて見せる。
そして今回の題材を見下ろした。
「悪くない出来よね……」
可もなく不可もなく、講義中に言われた項目を漏れなく盛り込んだ。
面白味もない、誰でも思いつくような平易な内容だ。
意欲といったものはここにはない。
悪いことではない。ただ、比較してしまう。
――誰と。
ネムの一番近くにいる人と。
優秀な人についていくには、同じだけの能力が必要だ。
ネムにそれがあるかといわれると、それは明白だった。
傍にいるには、同じだけの優秀さが……。
「……安心していいだろう。このメンバーだしな」
「僕も早めに終わらせるよ、心配しないで」
我知らず零れてしまった言葉に、ふたりから気遣われてしまう。
ネムにとっての黒歴史でもあるあの発表は、このふたりにとってもインパクトがあったのだろう。
ネムは急いで張り付けた笑いを浮かべる。
苦々しい思いでいっぱいだった。
“アンドリュー”
ネムの不必要な言葉からその人物を連想したのだろう。
ルドラが、思いついたように話題を挙げた。
「それにしてもレフェルト教授の講義の参加者、秋休みが明けてから、急に減ったよね?」
ルドラが指を口に当てる。
アンドリューといえば、レフェルト教授の講義から姿を消していた。
同じグループだったアマンダ、その他数名の学生も一斉に……。
「ドロップしたんだろ」
トーマスは無関心な様子でそう口にした。
しかしルドラはそれに納得できないようだった。
「今まで出席はちゃんとしていたし、わざわざこの時期に切るかな?」
「それ以外にあるか? やつらに関心もないのでな」
トーマスの意見は現実にありそうなものだった。ただ、今回に関しては、ネムもルドラと同じく違和感を覚えていた。見切りをつけるには遅い段階だ。それも、受講者のおよそ4分の1が一斉に、だ。彼らの共通点といえば……なんだろう。
「この講義のグループ課題は時間を取られるからな。単位を落とすと分かっている連中にとっては、期末試験に集中するために切り捨てるのは馬鹿じゃない」
「なるほど……そう考えると、実は彼らは抜け目ないのかもね」
姿を見せなくなった学生が成績不振だったかどうか、ネムには分からない。
少なくとも、以前ネムと同じグループだったアンドリューとアマンダは、あのあまりにもひどい発表で減点されていたことは確かだろう……ネムと同じく。
このふたりについては、来なくなった理由をネムはルヴィから聞いていた。
アンドリューとアマンダは、薬物に関わっていたのだ。
アマンダは薬物を配っていて、アンドリューは使用していた。
配るだけで使用していないかどうかは分からない。
どちらにせよ、両者はそのために退学になったとルヴィから聞いた。
アンドリューはアマンダを介して薬を手に入れていたが、アマンダが薬を配っていたのは、アンドリューばかりではないだろうということを考えれば、他の学生が姿を見せないのは、薬物関係……なのかもしれない。片手では足りない欠席者の全員が……?
「憶測で物を言っても仕方ないがな」
トーマスの言葉にネムは慌てて思考を打ち切った。
これ以上は、憶測に憶測を重ねた酷い妄想になってしまう。
醜い思考から目を反らし、ネムは息を吐いた。
ルドラは机に肘をついて頬を乗せる。
「まあそうだけど。打ち合わせがスムーズにいきすぎて時間が余ってる、から……あ!」
急に机に手をついてルドラが立ち上がる。
「どうしたの?」
「このあと、約束があるんだった」
ルドラの返しに、ネムは瞬いて眉を下げた。
本国を離れてみて分かったことだが、外つ国の人はスケジューリングが苦手のようだった。
「何の約束をしているの?」
「知人に占いを頼まれたんだよ。……まあ大丈夫か」
「占い?」
時間を確認して頷くルドラにネムは首を傾げた。
「生まれた時の天体の位置によって、その人がどんな人生を送るのかっていうのが解るんだ。統計を使うんだけど、タマリンドの占星術って知らない? あの大災禍も言い当てたんだけど。僕の国では昔から今も学問として研究されているんだ。各国の著名人もうちの国に来たら、有名な占星術師に占いに来てるって噂」
「……噂好きだな」
トーマスは黒い柳眉を顰めている。
ルドラは茶目っ気たっぷりにウインクした。
「噂の質っていうのがあるんだ。アクイレギアの噂は真偽のほどが定かじゃないけど、うちの国の噂はほとんど公然の秘密だからね。荒唐無稽なこっちの噂も面白くて嫌いじゃないけどね」
「そうか……」
一瞬険悪になるかとひやりとしたネムは、ほっとした。
噂……。ネムはそんなものを耳にしたことがあまりないような気がする。
それはある程度の社交性がなければ、入ってこない話なのかもしれなかった。
「ネムは興味があるんだ?」
「え?」
咄嗟にびくつくと、ルドラが言う。
「占いに」
「ああ……」
本国でも、陰陽学科というのがある。海を挟んで隣の国であるピオニーやゼルコーヴァでは公衆衛生学として風水や数秘術が学問として確立されているからそれと同じようなものだろう。そこまで洗練された占術があるのかと興味はあった。
「今度占ってあげようか? 時間はかかるけど」
ネムは目を輝かせて頷き、いそいそと鞄から携帯を出した。
ついでとばかりにその場のふたりともと連絡先を交換する。
ネムはトーマスにお願いして言った。
「風土紀や古い伝承があったら教えてほしいの。ルヴが好きだから」
「それはこちらも教えてもらいたい。アクイレギアは歴史の浅い国だからな」
トーマスは、大きな声じゃ言えないが、と肩を竦めた。
ルドラはまたねと言って退出し、それを見送ってからネムはトーマスに尋ねるとこのまま残りを仕上げるというので、ネムは立ち上がった。
「わたしは図書館に行くわ。レポートに入れる参考文献を増やしておくから」
「ああ、頼んだ」
参考文献は10本以上と指定されている。ざっと打ち合わせで結論に用いた文献は3本しかない。序論を担当するネムは残り7本を増やす必要がある。ルドラが考察で新たに増やすかもしれないが、ネムは自分の担当を務めるのみだ。
自習室を出ると、冷たい風が吹いてきていた。
どこからか強い視線を感じて振り返るが、足早に歩く学生たちがいるばかりだ。
最近――こういうことが多いのだ。
視線を感じて振り返るが、誰もいない。
何とか影でもつかめないものかとじっと目を凝らした。
往来する学生がいなくなると、外へ開きっぱなしの扉があるだけだ。
「……あの自動ドア、故障したのかしら?」
呼吸をするだけで白い息が視界に入って来る。
盛大な気のせいなのかもしれない。
諦めて外に出ると、凍える寒さだった。
今は足を滑らせないように目が離せないルヴィがいないので、ひとり図書館まで走って行ってもいいだろう。そうと決めれば、すぐに踏み出す足に体重を乗せた。
パッと駆けだすと、肌を切る風が冷たく鋭い。
それは温められた人工の空気よりも清々しい。
地面の雪解けの飛沫が掛からないように走ると、どこからか荒々しい足音が聞こえた。ネムと同じように走る人がいるのか、不思議に思いながらも目的地である図書館が目の前となり、ネムは漸く足を緩め――途端、乱れた足音が近くなるのと同時に背中から突き飛ばされた。
体が雪解けの地面に投げ出され、咄嗟に手をついた。
目を白黒させて振り返ると、見知らぬ女学生がたたらを踏みながらネムを見下ろしていた。肩を上下させて荒い息を繰り返し、赤い唇を嚙み締めて、眉を吊り上げる。
ネムは言葉もなく見上げたが――見覚えのない人物だった。
いや、どこかで……。
記憶の片隅に何かがひっかったような気がした。
――赤い髪。
それが、たてがみのように寒風に広がる。
女学生は荒い息を整えないまま、呆然とするネムの髪を掴んできた。
そしてネムの耳へ口付けるように、怒鳴りつけた。
「この***! レギーに近寄るな!」
いつもは冬の寒さのために閑散とした図書館前は、通行人が足を止めて徐々に衆目を集め、騒めいていた。そんな中でネムは、必死に相手の女学生へ、人違いじゃないか、そんな人物は知らない、放してほしいなどと弁明と懇願を試みたが全く相手にされない。ネムは掴まれた髪に、頭皮が引き攣れていたいのと、思わぬ暴力を同性から受けていることに衝撃を受けていた。
既に人垣ができていたが、止めいる人はいない。何度か、飛び出して割って入ってくれようとした人を誰かが抑えているらしい。その度に、ハワード中将の、という言葉が聞こえてきた。こんなにも衆人がいるというのに、助けはなく、出来る弁明をし尽くしても相手にされず、ほとほと困り果てて涙を浮かべるまでになるとようやく、どこからか慌ただしい足音が聞こえてきた。警備員たちだった。助けはないと思っていたが、誰かが連絡してくれたようだった。
「また君か! 止めなさい、その手を放すんだ!」
またか、と言われてネムのことかと思ったがどうやら違うようだった。
先にたどり着いた警備員はすぐさま女学生を取り押さえにかかった。
「何よ! 話も聞かずにあたしが悪者ってわけ? この小娘が邪魔ばかりっ」
「君は既に彼への接近禁止令が出ているだろう。いい加減にしなさい」
遅れてもう一人の警備員がやって来て、髪の毛を掴む腕を強く掴んだ。
ぎっと悲鳴を上げて女学生の手が離れる。
「大丈夫かい?」
ネムはもうひとりの警備員に抱えられて何とか抜け出した。
その警備員は前回世話になった人らしく、ネムの顔を見て訳知り顔になった。
怖かったねと言われるが、ほとんど放心していたネムは応えられなかった。
「***!……あんたもマホニアの名に寄って来たんでしょ***!」
そんな人は知らないと思ったが、一瞬首をひねる。
どこか……聞き覚えがあった。
「あ」
支えられた状態で、羽交い絞めにされた赤髪の女学生の方を見る。
するとちょうど、ネムに向かって唾を吐きかけて来るところだった。
ネムは思わず後ずさって解けた雪と交じり合う地面を避けた。
反射的に行動してしまったが、それをみてさらに激高した女学生が怒鳴った。
「この****! 舐めた行動して***が!」
「いい加減に辞めないか!」
眼差しから恨みを感じてネムは腹の底が冷たくなるのを感じた。その視線を真っ向から受けてはじめて、ネムはずっと感じていた視線の主がこの赤髪の女学生であると気付いた。こんな目を向けられるほどの何か大きな誤解があるのなら、これ以上の放置はならないだろう。ネムは緊張して強張った唇を噛んでからなんとか口を開いた。
警備員から心配そうに何度も大丈夫か聞かれながら、何かあったらすぐに連絡するように電話番号をもらい、ネムは赤髪の女学生とカレッジの近くにある喫茶店に寄った。警備員が集まっていた学生を散らしていたが、そんな無数の人目のあるところで、個人的な話をする度胸はなかった。相手は違ったかもしれないが、少なくともネムには喧嘩をするつもりはなかったのだ。
静かな店内の、奥の席に腰を下ろし、改めて相手に向き直った。
「ネム・ズマといいます」
「………デメトリア・ハワード」
赤髪の女学生デメトリアはそれだけ名乗り豊かな髪を背中へ放った。
同性のネムから見ても素晴らしいプロポーションの持ち主だ。
椅子に腰かけて長い足を組む姿は、絵になる。
名乗るだけでしんとしてしまったテーブルで注文を伝えて、ネムは言葉の選択に迷いながら口を開いた。
「あなたは、その」
「レギーの、ステディよ!」
ステディの意味が解らなった。
しかし文脈と関わる人物の人となりから想像するのは難しくはない。
「ガールフレンドということよね? わたしは彼とは友人なの。だから、あなたが心配するようなことは何もないわ」
ネムは言いたいことが言えたとほっとしたのが先か、いきなりガンと音が店内に響いた。目の前の女学生――デメトリアがテーブルを蹴ったのだ。そして一瞬だが、確かに宙に浮きあがった。
「***! あたしが何も知らないとでも思ってるの? これだから**の***が」
デメトリアは加えて言い捨てた。
以前ネム達が一緒にいるのを映画館で見かけたのだと。外が寒いので屋内で過ごせる娯楽を選択した結果だが、確かに恋人がいる異性と一緒に行くのはマナー違反だったろう。
「ごめんなさい、付き合っている人がいると知らなくて……知ったからにはもうしないわ」
怒り狂う恋人に、故意ではなかったと伝え、平に平にと頭を下げる。
しかし効果のほどはまったくない。
それどころか、ネムが謝るたびに、火に油を注いでしまっているようだった。
もちろん手は打ってある。
ちらりと携帯を盗み見ていると、通知音が聞こえた。
そしてほぼ同時に開かれた喫茶店の入り口を見た。
ほっとして入ってきた人物に手を上げて呼んだ。
「こっちよ」




