63 関係者
「何が好きなのかしら。コーヒーを飲んでいたから、それに合うチョコレートとか?」
巨大都市リグナムバイタの中心地。待ち合わせの時間より早めに到着したネムは、予定通り彼へのお礼の品を探していた。
「そのコートはバーグドルフグッドマンの限定品では?」
「――え?」
ネムはチョコレート専門店のウィンドウを眺めていると、突然声を掛けられた。
顔を上げると、口ひげを生やした紳士然とした男性がいた。
黒髪をきっちり後ろに撫でつけ、ステッキを手にしている。
「えっと……」
「失礼。不躾だったね。私はデザイナーをしている者だ。君の立ち姿が美しくてつい声を掛けてしまった」
ネムは曖昧な顔になる。
名刺を差し出されたが、筆記体なのでネムには読めなかった。
黒地に金の文字が流れるように書かれている。
「はあ……」
「どうだろう、私のブランドのモデルになってもらえないか?」
もしかしたら詐欺師かもしれないし、さぞ名のあるデザイナーなのかもしれない。どちらにしても、ネムの対応は変わらない。申し訳なさそうな顔を作った。
「ごめんなさい。私は就労ビザを持っていないので」
「おや、留学生なのかい。素晴らしいクイーンズだったものだから……いや、いずれでも構わない。もしこの国で就職することがあるのなら、是非連絡をしてほしい」
ネムに口ひげの紳士は優雅に去っていく。
名刺を見下ろす。連絡先など書いてない。
しかし、裏返すとそこには住所と手書きの電話番号が書いてあった。
「………このコート、着てたら不味いのかしら?」
すれ違う人は特に目を向けないような埋没する黒なのに、デザイナーは一目でわかったのだ。今更ながらに値段が怖くなった。
「わたしは別に、ブランドに興味はないのだけれど……」
ないからこそ、気づかなかったのかもしれない。
……予定は変更だ。
待ち合わせている彼がいない間に、服を買ってしまおう。
ネムは取り急ぎ、近くの百貨店に入った。最もクラシックな形を店員に頼んで、その中から手早く商品を選んで試着し、サイズを確認してから、モカ色の、裏地にファーの付いたコートと、黒のブラウス、濃紺のスカートに、ロングブーツをクレジットで購入し、コートだけその場で着替えて、後はすべてアパートに届けてもらうように手配してもらった。
その頃には、予定の時間が迫っていた。
ネムは急いで駅に行こうと道を急ぐと、とあるブランド前の通りを歩いている時だった。バン、と突然扉が外に開き、悲鳴を上げながら東洋人らしき若い女性が、お仕着せを着た男性二人に脇を掴まれて連れ出されていた。あまりに勢いよく扉が開いたので、寸前のところでネムはたたらを踏んでよろけたところを、女性の脇を掴んでいた男性の一人がさっと離れて転ぶのを助けてくれた。
「お怪我はありませんか?」
「いいえ。ありがとう……」
タイミングが少しずれていれば、ネムは扉が開く際にぶつかっていただろう。
心臓がどくどくと音を立てていた。
呼吸を整えていると、若い女性が直毛の黒髪を振り乱して道の真ん中で叫んだ。
「こんなのおかしいわ! ジャン支配人、もう一度確認して! 何かの間違いよ、私の父はピオニーでの経済政策総会の重鎮なのよ? それが、更迭だなんて……!」
店内からスリーピースを着た若い男性が出て来る。
そして両手を胸より低い位置で組み、立ち止まった。
「リーリン・チャン様、この度は残念でした」
「違うわ! フェイクニュースよ! こんなの嘘っぱちだわ! だって、さっきまで別のところでは支払いできたのよ!?」
「ご説明申し上げました通り、我々は今回のお買い物にて、リーリン様のクレジットカードのご利用でエラーが出ましたので、その原因をお調べしたまでです」
支配人の説明に、女性が目を泳がせる。
「それは……先月……そう、先月使い過ぎて一時的に止まっているだけよ! それに、私はスティーブン・チャンの一人娘なのよ? こん些細な不祥事一つに巻き込まれたぐらいでは崩れないわ!」
支配人の足元でギリ、と何かが音を立てた。
「些細な、ではありませんよ」
リーリンと呼ばれた若い女性は、強張った顔で支配人を見上げた。
「名門のビジネススクールで学ばれているとお聞きしていましたが、ご存じないのですか?」
支配人はブルネットの巻き毛の頭を振った。
青い瞳が、これほど冷たく見えるとは、ネムは初めて知った。
冷ややかな憤りを感じた。
「――仮想通貨ホールコインは世界的に被害が広がっています。被害総額は20億ドルを超え、アクイレギアでは総出で捜査を。分かっている限りでも、既に50名の方々が私どものブランドのブラックリストに登録されています。リーリン様、貴女もです」
「そ、んなの……」
「そして、アクイレギア国内にある、あなたの御父上の資産は既に差し押さえられております。上からも、入店を禁止する命が既に。……大変残念ですが、どうかお引き取りを」
ジャンと呼ばれた支配人は深々と一礼し、店内へ戻った。
若い女性は呆然として暴れるのをやめ、その背を見送った。
すると、捕まえていた男性が女性の傍から離れ、同じく店内へ戻る。
「驚かせてしまい申し訳ありません、美しい方。こちらのハンカチをお使いください。どうぞ良い一日を」
「……あ、ええ。あなたも……」
ネムの傍にいた男性は走って薄っすら汗をかいているのに気づいて、ハンカチを渡してくれた。そして胸に手を当ててお辞儀をする。
何とも品のある所作だ。
それもそのはず、男性が出てきた店が掲げる看板は世界的にも有名なブランド名だった。
そして店の扉が、ネムと女性の前で、ぴったりと重厚に閉まる。
震える吐息が聞こえた。
その若い女性は、全身のそのブランドの商品を身に着けていた。
ロゴが描いてあるので、ネムにも分かるほど。
そして15センチはあるヒールの靴で、よろよろと、歩き出す。
「どう、どうしよう……どういうことなの? 父は……年明けに船上パーティーするってこないだ言ってたばかりなのに……あ、明日から、私の生活はどうなるの? 家賃だって月に2万ドルするし、こ、これから……これから……」
ぶつぶつと何事か言いながら、角を曲がった。
ネムはあまりのことに、呆然として見知らぬ人からハンカチを受け取ってしまったが、はっとした。
時計を見ると、地下鉄の時間が過ぎていた。地下鉄であれば十数分だが、歩いていくのは、1時間かかる。
「こんなはずじゃ……連絡しなきゃ」
ネムは慌てて、メッセージを送ると、すぐに返答が帰ってきた。
図書館を出たところなので、運転手に迎えに来させるというのだ。
現在地を送ると、どうやらネムの方が車の送迎が近い位置にあったようなので、拾ってもらうことになった。ものの10分もしないうちにいつもの高級車がやって来て、ネムの前で運転手が扉を開いてくれた。
送ってもらったナンバーを見て間違いないのを確認してから近づいた。
何故なら、車に乗ると運転席が見えないので、人が分からないのだ。
「ネム・ズマ様ですね」
ネムは慌てて頷き、どうぞと言われるままに中へ乗り込んだ。
中は温かい。走って汗をかいていたのが、立ち止まったことで冷えていた。
もらったハンカチではなく、自分のハンカチを取り出して拭いた。
あの若い女性は、ホールコインに加担した側の家族なのだろう。
被害に遭う人がいれば、加害者側の人間もいる。
決して、被害を加えようとしたわけではないのだろう。
捜査は水面下で進められ、ひとり、またひとりとその責を問われている。
ただ、被害者にその補填がなされている気配はない。
日々のニュースで、いまだにホールコインによる近隣住民同士のトラブルは発生していた。
ネムは背中から凭れて目元に手を置いてため息を吐く。
そして、ふと支配人のある言葉を思い出した。
「………名門の、ビジネススクール?」
この辺りで、名門といえば一つしかない。
高級車が止まり、扉が開いた。
「こんにちは…………レド」
「……ああ」
彼は長い黒髪を揺らして首を傾げた、「……どうした」
ネムはどこかぎこちなく首を横に振った。
出かけようと言っただけで、具体的な日程は伝えていなかった。ネムはその主な内容であった服の買い物については既に自分で済ませていたので、必然的に行き当たりばったりノープランになってしまった。すると彼が店に連絡を入れて、昼食の予約を入れてくれた。
やって来たのはネムも検索したことがあるリグナムバイタの高級レストランだ。
そのレストランの中でも個室があるフロアへと案内され、席についている。
「今回はわたしが払うわ。お礼に」
「もう払ってある」
ルヴィの長兄から送金されてきたのもあり、懐がだいぶ余裕があるどころか、少しずつでも使って行かないと、最後に無理が出て来ることになる。それならば、ここで使おうと思ったのだが、だめだった。
そもそも生活レベルが違い過ぎる友人というのは、付き合いが難しいものだ。
ネムは、この青年との関係を見直すべきかもしれない。
「食べられないものは?」
「何もないわ」
しかし、一緒にいたい友人として選ばれたことがないネムにとって、こうして気遣いつつ一緒にいてくれる人はなかなか出会えなかった。
「あなたは?」
「エスカルゴは食べない」
「………あら、面白そう」
ネムはメニューを見直した。このレストランはマロニエ料理の専門店だ。これを機会に挑戦してみるのもいいかもしれない。そう思っていると向かいから、彼の視線を感じた。
「なあに?」
「いや……」
相手が寡黙なので、ネムは相手の気持ちを推測する必要があった。そして考えた結果、自分が食べないと言ったものに対して興味を持ったのが、気になったのだろうと思った。確かに、だ。
こういうところが、空気を読めないと言われる所以なのかもしれない……。
「ほ、他のを頼むわね」
「いや、好きなものを」
「……そう?」
本国ではここでその言葉が本心か悩むところだが、ここはアクイレギア。
本心からの言葉だと思って、思い切って頼んだ。
コースが順々に届くのを待つ。
ネムはワインではなく、水を頼んだ。
彼も同じようにしていた。
「お酒は飲まないの?」
彼は感情の伺えない、例の純黒の瞳を向けてきた。
ネムは話し出した。
「わたしはお酒は飲まないの。でも、もしそれであなたが気兼ねしていたらと思って。気にせずに飲んでもいいのよ」
「私も飲まない」
「そうなの? よかったわ」
酒を飲んだ人の豹変ぶりときたら。
ネムは思い出して額を押さえた。
ネムは自分の言動が、本国の文化に準拠していることに気づいていなかった。
つまり、飲んでもいい、というのは飲まれるのは嫌だ、という婉曲だった。
彼はその、突如放られた難しいボールを難なく打ち据えたのだった。
そして何事もなく、透明なグラスを持ち上げた。
「良き日に」
「ええ」
グラスを打ち合わせると、涼やかな音がした。
中身はただの水だが。
「今日はこの時間まで、カレッジの図書館にいたの?」
「課題の為に」
ネムは彼へのお礼の品を考えるために、午後からの待ち合わせにしていた。
彼自身は、午前中に講義を受け、余った時間は図書館で課題を熟していたのだ。
ネムは迷ったが、気になって尋ねてみた。
「その……同じビジネススクールに、ピオニーの女の子はいるのかしら?」
「……ああ」
「たくさん?」
「……比較的」
「仲がいい子はいる?」
「いない」
そこだけ妙にはっきりとした答えだった。
それならば、とネムは少しだけ気が軽くなり、名前を出すことにした。
「その……え、えーと……」
しかし名前を度忘れしてしまう。
彼はわざわざ食事の手を止めて、静かにネムの言葉を待っていた。
「リ、リ………リリー・チャン? っていう人いる?」
彼は静かに瞬いた。
長い睫毛の音がしそうだ。
ネムは無言の疑問を感じて、慌てて、付け加えた。
「もしかしたら、ちょっと違うかもしれないけれど」
「――ピオニー経済の重役だったチャン家の娘は在籍していたはずだ」
「そ、そう! それよ!」
ネムは首を傾げた。
それで、その女性の名前が出ていない。
「名前何だったかしら、その娘さんの」
「知らない」
彼はあっさり答え、エビのソテーのようなものを切って口にする。
「そう………」
ネムだって、他の学生の名前を全員知っているわけでもない。
「そうよね……」
ならば、学友の一人が家族の不祥事に巻き込まれても、それほどショックは受けないだろう。そのことにネムはどこかほっとした。




